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言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

白石一文『私という運命について』を読む

2025年03月30日 07時45分24秒 | 本と雑誌
 
 
 久しぶりに白石の本を読む。やはりいいなと思つた。入試の対策に追はれて面白くもない文章をこれでもかといふほど読み続けて来たが、春休みにやうやく読む楽しみを経験できた。
 1人の女性が主人公。職業人として活躍する女性である。恋愛を重ねていく中で、この人と結婚することになるだらうと予感しながら、さまざまな出来事が起きて破談になる。時々に出会ふ友人や知人との会話には、気の利いた雑学やら箴言やらがあつて、これが好きか嫌ひかで、きつと白石文学の評価が分かれるのであらう。私は明確に好きである。
 実際の私たちにおいて気の利いた会話や人生の真理を俯瞰するやうな言葉を交えた会話を日常的に出来るかと言へば、それはほとんど出来ないだらう。したがつて、こんな小説の会話はリアルではないのかもしれない。しかし、さうであるからこそ日常には倫理も論理も鋭く差し込まれて、時間の長い視野で語る言葉が必要だと認識させる小説があつて良いのではないか。白石文学は私にとつてはさういふ理想に気づかせる言葉の劇である。

 女主人公は最後には運命の人に出会ふ。それは10年前に本来なら結婚すべき人であつた。運命とは自分の努力や意志を超えたところに設定される人生の予定表である。それをヒリヒリとした感触で味ははせてくれた。
 それにしても、本作品の展開は悲しい予感がいつになく強く作用してゐる気がした。運命とは悲しい予定に兆されてゐるのであらうか。運命を予感した人々が語る言葉が「別れ」を予想し、強くも弱くも主人公はそれに抵抗してゐるやうに感じたのであつた。それを切に感じるだけに、読んでゐて今日はここまでにしておかうと読むのをやめることが何度もあつた。
 腐つた日常には、かういふ冷たい味はひが必要である。私の読書生活にとつてありがたい白石文学である。
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多様性万能論を排す

2024年08月19日 08時21分55秒 | 本と雑誌
 
 先日、東京大学の副学長の矢口祐人氏のお話を聞く機会があつた。『なぜ東大は男だらけなのか』の著者である。
 東大の女子学生は2割の壁を越えない。もちろん、他の大学も同じやうなもの。早稲田が少し女子学生が多いらしいが、日本の大学生には男子が多すぎるとのことだ。これは他国の大学からするとかなり特殊といふことのやうだ。もちろん、女子大学といふ世界にはあまり例のない大学が日本にはあるといふことも一因かもしれない。しかし、そもそも受験の段階で女子が少ないといふこともある。日本とスイスぐらゐらしい。大学進学者の男女比がその他の国では逆転してゐて、圧倒的に女子の方が多いといふのだ。かういふ話を聞いて、なるほどねといふ驚きがあつた。
 それで、日本でも女子学生を増やさなければといふことで懸命に努力をされてゐるとのことだつた。多様性を持たないと研究成果が上がらないといふのが根本的な動機にあるやうに聞こえた。
 確かに大学といふところは研究する場であり、その成果を示さねば存在意義も疑はれてしまふといふことであらう。
 しかし、そのために女子学生を増やし多様性を獲得しようといふのはどうかと率直に思つた。多様性といふのは性別のことなのだらうか。日本のほとんどの初等中等教育は共学である。その構成が日本の教育を良くしてゐるといふ根拠になつてゐるといふ研究成果はあるのだらうか。世界の高等教育の研究成果は女子学生の多さが要因であるといふ研究成果はあるのだらうか。研究成果を挙げてゐる大学の男女比がほぼ同率であるといふことはあつても、それは因果関係ではなく相関関係に過ぎないのではないか。何なら、かつて論文引用率の高かつた頃の日本の男女比は今より「悪い」状況だつたといふことを示してもよい。
 多様性の尊重が、男女比の問題に矮小化され、事の本質を外面的なところに見ようとする。それこそが日本の高等教育の劣化を示してゐる根拠であるとさへ言ひたくなつてしまふ。
 議論できない日本。他者を尊重しつつもその意見については徹底的に議論する、その誠実な営みが足りないのではないか。私にはその比率の方が気になる。

 これはこれから読まうと思つてゐる本であるが、徳島大学の教授だが、山口裕之氏の『「みんな違ってみんないい」のか 相対主義と普遍主義の問題』を参考文献として挙げておかうと思ふ。
 
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内田樹『街場の成熟論』を読む

2024年08月16日 08時31分25秒 | 本と雑誌
 

 久しぶりに内田樹の本を読んだ。
 十年ほど前はむさぼるやうに読んだが、その政治的発言が外れ続けるのを見てゐて違和感が強くなり、読むのを止めてしまつた。
 それがどういふ訳か、この夏に読む本の一冊として鞄に入れ久ぶりに読むことになつた。
 政治的見解の「ずれ」について、内田が弁明のやうなものを書いてゐた。
「そもそも私にはどの政党の政策が『客観的に正しい』のかがわからない。外交や安全保障や経済について、私には政策の適否を判断できるほどの知識がない。知識経験豊かな専門家たちの意見が食い違うような論件について素人の私には判断がつくはずがない」(93頁)と。
 それなら普通は、政治的なコメントは寄せないといふのがマナーだらうが、内田は違ふ。本書にも安倍元首相の批判について何度も記してゐる。かういふことをして平気でゐられるところに、この方の愛嬌といふかデトチリ具合といふかが表れてゐる。ご都合主義とまでは言はないが、知識のアクロバットはたいへん面白いが、やはり専門家からすると相当に穴があるのではないか。そんなことが見えるやうになつた。
 本書でも、鷲田清一との対談に触れ、鷲田が「危機というのはね、あれは20世紀に入ってから、流行しだしたんよ」といふ言葉を敷衍して、ヨーロッパの高等遊民的階層である「ランティエ(年金生活者)」が第一次大戦によつて消滅したことと関連があるだらうと述べてゐる。カズオ・イシグロの『日の名残り』を引き、オルテガの『大衆の反逆』を参照し、司馬遼太郎の『坂の上の雲』まで取り上げるのは見事といふ他はない。なるほど面白いなと思つた。
 しかし、そもそも危機が20世紀の特徴といふのは本当か、といふ論証はされないままである。確かにヴァレリー『精神の危機』、アザール『ヨーロッパ精神の危機』、フッサール『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』などを挙げて、二人で「さうだ、さうだ」といふことになつたらしが、管見によれば、19世紀のキエルケゴールの一連の著作の名前だけ見てもそれは「危機」の直観を示してゐる。例へば「あれかこれか」「おそれとおののき」「不安の概念」、そして「死に至る病」。そして、18世紀のフランス革命もまた「危機」であつた。さらには、15世紀のミケランジェロがルネサンスの只中にゐながらにして、そのことに悩み苦しんでゐた。彼の残した傑作がシスティーナ礼拝堂の「最後の審判」であることは実に暗示的である。キリスト教の終末論を少しでも知り得るところに内田や鷲田の知があるならば、少なくとも西洋の危機感には2000年が横たはつてゐるといふことに気付いたはずだ。
 内田から離れて、今ではかういふ程度には冷静に読めるやうになつた。そして、改めてその知の冒険を楽しめるやうになつた。
 そして、
「ああ、またこんなこと書いちやつて」とか
「へえ、こんな本があるんだ」とか
知の案内人として対話を交はせるありがたい存在となつてゐる。

 
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角田光代『方舟を燃やす』を讀む

2024年08月11日 10時40分44秒 | 本と雑誌
 
 長編である。方舟とは旧約聖書に出てくるノアの物語から採られたものだ。それがどういふ意味か。タイトルに引き寄せられた。カバーの絵が私には現代藝術家の辰野多恵子の絵のやうに見えた。この絵の色合いと筆触が好みにあつてゐた。巻末を見ると津田周平といふ方の想定であるやうだが、オレンジ色の字に黒い不思議な形状が浮かび上つて見える。

 
 しかし、驚いたことに巻かれてゐる帯を読後の今初めて剥がしてみると、その黒い不思議な形状は猫が伸びをしてゐる姿だつた。読み終はつて「猫」の存在が最後の最後に印象付けられるが、さういふことだつたのかと知らされた。帯は外してみるものかは。
 私の子供の頃には、ノストラダムスの大予言が取りざたされ確か映画にもなつてゐた。1999年7月に地球は滅びるといふことを信じてゐた訳ではないが、終末といふ気分に親しみがあつた。公害やそれに伴ふ裁判は報道されてゐた。あのゴジラの敵対者に「ヘドラ」といふ製紙工場から流れ出るヘドロの怪獣が登場してゐた時代である。学校では「コックリさん」といふ怪しげな占ひゲームが流行してゐたし、少し経つてからは口裂け女といふものが現れるといふ噂も広まつてゐた。オカルトや心霊といふ言葉が日常性を持ちつつあつた時代である。それより以前は「科学」=「真理」といふことが力強く主張されてゐた時代で、それへの反発があつたやうに記憶してゐる。そこには小林秀雄や岡潔といふ存在が関はつてゐるやうに思ふが、このことについてはこれ以上は膨らませないことにする。
 さて、この小説の始まりはさういふ時代状況の気分を描いてゐる。だから、私には非常に読みやすかつた。400頁以上ある本文もするすると読めた。二人の主人公の話が、後半になるに従ひ交はりを見せ、やがて一つの物語を描いてくといふ構成は特別珍しいものではないが、それはたいへんうまく行つてゐるやうに思へた。
 その二人の主人公は、ちやうど私と同じ世代だから、一層この人物たちの気分に親近感を持つ。終末が来ると感じながら、実際にはそれは来なかつた。終末に救ひの手として建造される「方舟」は、したがつて役に立たなかつたことになる。信じたことも、それに生涯をかけたことも、すべてが無駄に終はつたと思つてしまふ瞬間が去来する。それが「方舟を燃やす」といふ意識として現れたといふことであらう。実際に方舟が出てくる話ではない。あくまでも比喩である。しかし、さういふ比喩でしか伝へられない空しい気分が、私たちの世代にはあるのかもしれない。いやそれは世代の問題でもないかもしれない。今の時代の、何とも手応への乏しい社会とのつながりに、あるいは生きてゐるといふこと自体に弱い手応へしか持ち得ないことに抱く不安を表してゐるやうにも思ふ。
 長いが引用する。

「口さけ女はいなかった、とふいに飛馬(註 主人公の一人)は思った。世界は滅亡しなかった。水道から致死量の毒は流れなかった。二〇〇〇年になった瞬間にコンピュータシステムに異常は生じなかった。被災地で暴徒化した人たちはおらず、ライオンは動物園から逃げ出さなかった。事前に流布された予言は外れ続け、事後に聞かされる噂はぜんぶデマだった。一方で、飛行機がビルに突っこみ、大災害が起き町を破壊し、疫病が世界的に流行し、戦争は置き続けている。それらはだれも予言しない。どこかでだれかがしたのかもしれないけれども、その預言者はだれも救っていない。だからだれもが、このわけのわからない世界の解釈を試み、そこで日々生きることに意味を不可しようとし、いつだって予想不可能の未来の舵をとろうとする。明日から都市封鎖される、お湯ならウイルスは死滅する、コロナウィルスなんて存在しない、二〇二四年にコロナは終息する。何か、なんでもいいから何かを信じないと、何が起きるかまったくわからない今日をやり過ごすことができない。」

 まさに、この「やり過ごす」といふ生き方が現代の生き方なのではないだらうか。戦争が起きてゐる時代に、平和の祭典を行ひ、原爆慰霊祭に被侵略国の大使を呼ばない。かういふことを平気で行へる平和ボケの中で、誠実に生きるといふことの難しさをしみじみと感じてしまふのである。
 猫が伸びをしてゐる絵が暗示するのは、猫は退屈しないといふことであらうか。私たちも動物になれ、といふことであれば、それはあまりにも空しい。

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『大人のための公民教科書』を読む

2024年06月10日 16時40分33秒 | 本と雑誌
 
 今日も本の紹介である。高木書房刊の新著である。
 著者は、新しい歴史教科書をつくる会の理事をされてゐる小山常実氏である。

 現代日本には数々のウソ話があると言ふ。その中でも特に問題なのが、次の五つ。
1 日本は侵略戦争を行い、数々の国際法違反を行った戦争犯罪国家である。
2 「日本国憲法」は憲法として有効に成立した。
3 「新皇室典範」は皇室典範として有効に成立した。
4 日本政府が発行している大量の国債は借金だから日本は財政破綻する。
5 人間活動により地球温暖化問題が生じている。

 そして、本来「公民」の教科書は、それらのウソ話を排し、日本人のあるべき姿を示すものである。それが著者の訴へである。全くその通りである。
 にもかかはらず、それは多くの人々に共有されてゐない。日本国民は市民の集合であつて、公民ではないといふことである。
 しかし、私人がいくら集まつても公民ではない。砂をいくら集めても塑像にはならないのと同じである。さうであれば市民に公民教育をせずに、「私」はいつ「国民」になるのだらうか。共同体は自然発生的に生まれるものだ。親子関係、家族、親族、それらは生まれた瞬間に決まる(もちろん、だからと言つて何もしないでいいといふことにはならない。著者が1章を使ひ、その維持と健全化に費やしてゐる通りである)。しかし、国家は人為によるものであるから、「あるべき姿」を伝へなければ維持発展はできない。さういふ当然の手続きを疎かにしてしまつた結果、「国家」は蔑ろにされ、政治家は国民に丁寧語を使ふやうになり、国防は自衛隊といふ公務員の仕事といふ「役割分担」で片を付けてしまふやうになつた。それが戦後社会の正体である。
 著者は、そこにやり切れない怒りを抱いてゐる。そして、その怒りを感情にして流すのではなく、理路整然と何が間違つてゐるのかを記述していく。この労作は、その集大成である。
 なほ、恥づかしながら私は本書によつて井上孚麿(いのうえ・たかまろ)の憲法無効論といふものを初めて知つた。自分の無知を恥ぢると共に、その学恩に感謝する。

 この見ゆる雲のはたてに君ありと思ふ心はたのしかりけり  井上孚麿
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