長編である。方舟とは旧約聖書に出てくるノアの物語から採られたものだ。それがどういふ意味か。タイトルに引き寄せられた。カバーの絵が私には現代藝術家の辰野多恵子の絵のやうに見えた。この絵の色合いと筆触が好みにあつてゐた。巻末を見ると津田周平といふ方の想定であるやうだが、オレンジ色の字に黒い不思議な形状が浮かび上つて見える。
しかし、驚いたことに巻かれてゐる帯を読後の今初めて剥がしてみると、その黒い不思議な形状は猫が伸びをしてゐる姿だつた。読み終はつて「猫」の存在が最後の最後に印象付けられるが、さういふことだつたのかと知らされた。帯は外してみるものかは。
私の子供の頃には、ノストラダムスの大予言が取りざたされ確か映画にもなつてゐた。1999年7月に地球は滅びるといふことを信じてゐた訳ではないが、終末といふ気分に親しみがあつた。公害やそれに伴ふ裁判は報道されてゐた。あのゴジラの敵対者に「ヘドラ」といふ製紙工場から流れ出るヘドロの怪獣が登場してゐた時代である。学校では「コックリさん」といふ怪しげな占ひゲームが流行してゐたし、少し経つてからは口裂け女といふものが現れるといふ噂も広まつてゐた。オカルトや心霊といふ言葉が日常性を持ちつつあつた時代である。それより以前は「科学」=「真理」といふことが力強く主張されてゐた時代で、それへの反発があつたやうに記憶してゐる。そこには小林秀雄や岡潔といふ存在が関はつてゐるやうに思ふが、このことについてはこれ以上は膨らませないことにする。
さて、この小説の始まりはさういふ時代状況の気分を描いてゐる。だから、私には非常に読みやすかつた。400頁以上ある本文もするすると読めた。二人の主人公の話が、後半になるに従ひ交はりを見せ、やがて一つの物語を描いてくといふ構成は特別珍しいものではないが、それはたいへんうまく行つてゐるやうに思へた。
その二人の主人公は、ちやうど私と同じ世代だから、一層この人物たちの気分に親近感を持つ。終末が来ると感じながら、実際にはそれは来なかつた。終末に救ひの手として建造される「方舟」は、したがつて役に立たなかつたことになる。信じたことも、それに生涯をかけたことも、すべてが無駄に終はつたと思つてしまふ瞬間が去来する。それが「方舟を燃やす」といふ意識として現れたといふことであらう。実際に方舟が出てくる話ではない。あくまでも比喩である。しかし、さういふ比喩でしか伝へられない空しい気分が、私たちの世代にはあるのかもしれない。いやそれは世代の問題でもないかもしれない。今の時代の、何とも手応への乏しい社会とのつながりに、あるいは生きてゐるといふこと自体に弱い手応へしか持ち得ないことに抱く不安を表してゐるやうにも思ふ。
長いが引用する。
「口さけ女はいなかった、とふいに飛馬(註 主人公の一人)は思った。世界は滅亡しなかった。水道から致死量の毒は流れなかった。二〇〇〇年になった瞬間にコンピュータシステムに異常は生じなかった。被災地で暴徒化した人たちはおらず、ライオンは動物園から逃げ出さなかった。事前に流布された予言は外れ続け、事後に聞かされる噂はぜんぶデマだった。一方で、飛行機がビルに突っこみ、大災害が起き町を破壊し、疫病が世界的に流行し、戦争は置き続けている。それらはだれも予言しない。どこかでだれかがしたのかもしれないけれども、その預言者はだれも救っていない。だからだれもが、このわけのわからない世界の解釈を試み、そこで日々生きることに意味を不可しようとし、いつだって予想不可能の未来の舵をとろうとする。明日から都市封鎖される、お湯ならウイルスは死滅する、コロナウィルスなんて存在しない、二〇二四年にコロナは終息する。何か、なんでもいいから何かを信じないと、何が起きるかまったくわからない今日をやり過ごすことができない。」
まさに、この「やり過ごす」といふ生き方が現代の生き方なのではないだらうか。戦争が起きてゐる時代に、平和の祭典を行ひ、原爆慰霊祭に被侵略国の大使を呼ばない。かういふことを平気で行へる平和ボケの中で、誠実に生きるといふことの難しさをしみじみと感じてしまふのである。
猫が伸びをしてゐる絵が暗示するのは、猫は退屈しないといふことであらうか。私たちも動物になれ、といふことであれば、それはあまりにも空しい。