言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

42㎞を歩く

2015年03月29日 21時07分51秒 | 日記
 もうだいぶん日が経つてしまつたが、今月の十日に生徒らと42㎞を歩いた。渥美半島の付け根から先端の伊良湖岬までである。学校からバスで移動し、朝の6時過ぎにスタート、夕方の4時過ぎに到着。雨、雪、アラレの降る中であつたが、ひたすら歩くといふことの素晴らしさを感じた。
 歩くといふ単純な作業がとても心地よいのは、無心になれるからであらう。もちろん足は痛い。お腹は減る。雨や雪で体は冷える。だから、瞬間瞬間は雑念の連続である。だが、それは身体の感覚であり思念ではない。ただひたすらに次の一歩を前に出すことに集中するうちに、雑念は通り過ぎていく。その心地よさがあつた。
 もちろん、十分な準備は必要であつた。歩くことを馬鹿にはできないと思つたからである。大きく準備して小さく期待する。このことを改めて知つた。

 生徒たちには、翌日、短歌を書かせた。行事のたびに歌を詠ませるが、今回ほど力が入つた歌はなかつた。どれも素晴らしいが、次の歌が秀逸だと感じた。

 バスの中小一時間の帰路につく靴紐をまた結び直した

 彼は、ずつと歌を歌ひながら歩いてゐた。疲れを見せることなく先頭グループにゐて楽しんでゐる様子であつた。しかし、期するところがあつたのだらう。充実感と決意とが歌から感じられる。秀歌だと思ふ。
 私の歌には、さういふ感動はない。生徒たちの完歩して興奮する姿を見た喜びを詠んだものである。

 歩き来てはしやぐ生徒のスマホには怒濤に浮かぶ赤玉があり

 寒風に荒立つ波の上には綺麗な夕陽があつた。
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時事評論 3月号

2015年03月25日 22時30分10秒 | 日記
○時事評論の最新號の目次を以下に記します。
どうぞ御關心がありましたら、御購讀ください。
1部200圓、年間では2000圓です。
(いちばん下に、問合はせ先があります。)

                 ●



 3月號が発刊された。
 一面に、拙論が掲載された。テレビや新聞によつて情報が一気に全国に伝はるやうになつた。方言は使はれなくなり、文化の違ひも少しづつ薄れていく。それもこれも近代化の過程である。しかし、さうした平準化のなかでは、当然ながら何が大事で何が大事でないかも分からなくなり、人々が情報に流されていくといふ現象も起きてくる。どうでもよいことがさも大事であるかのやうに言はれ、とても大事なことがどうでもよいことのやうに扱はれる。さういふことがあるのだ。激しく社会が変はるときこそ保守的態度が必要なのはそれゆゑである。
 福田恆存の講演集が文藝春秋から出たが、そこで述べられてゐることはそのことである。
 拙論は、それを「表現の倫理」として記したものである。評論家の池田信夫氏は、「福田恆存の政治評論は、いま読むと常識的でつまらない」と書いたが(ブログ2015年2月6日)、それこそが「つまらない」言ひ種である。常識が忘れられた時代には、常識が求められるのではないか。





   ☆    ☆    ☆

現代の「表現」に倫理はあるか

――誠実が作り出す嘘を見抜け―― 

   文藝評論家 前田嘉則



朝日が論じる慰安婦問題の「本質」

 ―― 8月検証後を検証
   韓国問題研究家 荒木信子




教育隨想

憲法改正に皇室を利用するな(勝)



国学の息吹を求めて
――鎌倉・湘南の文藝家と新京都学派の学究
  麗澤大学准教授 川久保 剛






この世が舞臺

「アンドロマック」 ラシーヌ         

 元早大教授  留守晴夫




コラム


     やはり政府が出てこないと……(紫)

     最大の敵は味方?(石壁)

     十八歳からの選挙権への疑問(星)

     富裕税のまやかし(騎士)



問ひ合せ

電話076-264-1119
ファックス 076-231-7009
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名古屋日帰り

2015年03月21日 19時35分16秒 | 日記
日程の都合で、今日は名古屋で研究会。

2020年に向かつて、大学入試が大きく変はらうとしてゐる。と言ふことは、今度の中学一年生が受験をする時のこと。

その数年前には、試行試験もあるだらうから、ほんたうに近いうちに目に見える形で変化が見て取れるやうになるだらう。

入試の変更が伴ふ限りは文科省の改革も『ゆとり』のときのやうな理念先行とは違ふものであり、本気のやうだ。私にはグローバル人材の育成といふのは、同じやうに理念先行にしか感じないが。

いづれにしても、学問の基礎は変はらない。読めて書けなければ、世界には出られない。そのことを分からずに、やれアクティブラーニングだ、やれCBTだといきり立つと、足元をすくはれる。

不透明な時代に情報が飛び交ひ、方法論だけが突出して議論されると、迷ひは深まる。そんなことを考へてゐた。
これから大阪に戻る車中にて。
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二か月ぶりの帰阪

2015年03月20日 08時30分09秒 | 日記
 正月以来の帰阪である。今日、京都大学の入試研究会が大阪であるので、そのついでに昨晩遅くに戻つた。そしてこのブログも久しぶりの更新。さぼつてゐたわけではないが、年度末はやはり忙しい。

 目の前のカレンダーが1月のままであることに今気付き、少しだけ感傷的な気分になる。あつといふ間の二カ月半。あれもこれもしてゐないままに、取り合へず目の前の仕事を片付けながら、走つてゐた。先日、駿台講師の大島保彦さんの話を聞く機会があつたが、締め切りに追はれてゐるのではなく、追ひ抜かれてゐる、もはや締め切りの背中を見てゐると言つてゐた。私の場合には、それほどではないが、教育といふことはそれが学習支援に限つて言つてもなかなか「これで終はり」といふことはないから、いつも「やり残してゐる」感じがする。登つて来た、あるいは、歩いて来た道を時々振り返つては、胸のざわつきを鎮めてゐる。


 先日、九州の学校時代の教へ子から手紙とある冊子を贈られた。彼は、私の教へ子で唯一国語の教員になつた人物で、母校で教へてゐる。送られてきた冊子とは、その彼が六年間教へて来た生徒たちの書いた卒業文集である。私がその学校を離れてもう11年になるが、その後も担当者が代はつても継続してその卒業文集を送つてきてくれる。初めの頃は、私が教へた生徒やその弟妹たちの文章が載つてゐて、顔が思ひ浮かんだり懐かしかつたりしたが、今はたぶんさういふ縁のある生徒のものはないであらう。それでも送つて来てくれる思ひがうれしくて、読んでは勝手に順位をつけて手紙を書いてゐた。それが、今年は久しぶりの「縁」がある文集となつたので、忙しいとも言つてゐられずに、これから読んでみようと思つてゐる。

 また、前回このブログにも書いた山内健生氏の『私の中の山岡荘八』のことであるが、著者の山内氏から本を御恵贈いただいた。こちらも読まずにはゐられない。国語の教師としては問題かもしれないが、私はとても本を読むのが遅い。「精読してゐるからです」などと気の利いたことを言へればいいのだが、さう言へばきつと自己正当化でしかない。単に遅いのです。すぐに脳がいつぱいになつてしまつて、整理せずには進めない。子どものころから同じ本ばかり読んでゐたのが原因かもしれない。同じ本は何度でも読めるのだが……

 四月から、久しぶりの受験生を受け持つ。生徒たちにとつても大事な春休みである。忙殺の中にあつて、彼らのそれぞれの場所での奮闘を祈るばかりである。
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