言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

『「永遠の0」と日本人』

2014年08月25日 10時45分30秒 | 文學(文学)

『永遠の0』と日本人 (幻冬舎新書) 『永遠の0』と日本人 (幻冬舎新書)
価格:¥ 864(税込)
発売日:2013-12-12

 小川榮太郎といふ人への関心が本書を手に取らせた。

 安倍首相へのこれ以上ない評価と賛辞とを贈る文藝評論家はゐない。いや、政治家にたいしてかうした態度を表明した知識人はこれまでにもゐなかつたのではないだらうか。江藤淳は小沢一郎を、西部邁は中曽根康弘を評価はしてゐたが、それでもどこかで批判の種を内包してゐたし、言つてよければどこか見下しもしてゐる。「もう少しかうであれば」といふやうなニュアンスが伝はつてくるのである。しかし、小川氏の筆はさうではない。渾身の筆力で安倍政権を支へようといふのである。

 さて、本書であるが、映画『永遠の0』、『風立ちぬ』、『終戦のエンペラー』について論評しつつ、戦前と戦後の断絶、それは何ゆゑかを探り、その一方で戦後社会の体たらくにあつても存在し続ける日本人としての精神的水脈を掘り当て、そこから清水を汲み取らうとしたものである。特攻に臨んだ青年の遺書や、その作戦を決断した大西瀧治郎中将の最後の姿と遺書の記述は特筆すべきものであつた。

 百田尚樹の小説と映画や宮崎駿の映画については、読んだ人も観た人も多いだらうから、小川の評価については異論があるだらう。私も宮崎の『風立ちぬ』にたいしては、未整理のまま映画にしてしまつた感じのする映画なので、違和感といふよりもなるほどさうなのかなといふ気づかされることが多かつた。

「宮崎映画は、(中略)歴史的産物である戦後日本のエートスに、極度に密着している。密着しているが、その歴史的現実を、どうしても引き受けたくない。いわば、そうしたアンビバレントな状況を宮崎は解決しておらず、それに決着をつけないまま老年を迎えた。」

 かうした評言は、なるほどさう理解すればいいのかと思ふばかりである。未成熟な大人=大きな子供、さういふ風貌は戦後社会の大人の象徴であらう。

 『終戦のエンペラー』は未見であるので、本書を信じるしかないが、マッカーサーと昭和天皇との会談の内容についての誤りが本当であるならば、問題である。その誤解のしかたが日米の今日の状況の戯画であるが、そこには訂正が必要である。

 特攻については書きにくい、さう著者は書いてゐるが、その通りである(小川の筆はいつも率直である。誠実さが伝はつてくる。でも書かないといふも大切ではないか。本書についての些細な問題点をあへて言へば、それだけだらう)。しかし、どうしてあのやうな作戦が必要であつたのか、あるいはそれは作戦と呼べるものか、どれほどの成果があつたのか等々、いろいろな疑問が湧いてくる。さうであれば、誰かがその疑問に答へなくてはならない。本書は、そのことについて明確に答へてゐる。それは見事であつた。ぜひとも読んでもらひたい。

 

 「戦後日本のエートス」の中で生きてゐる私たちは、よほどでないとそのエートスが特殊なものであるといふことに気づかない。いつしかそれが正統で、理想的で、皮肉に言へば世界に誇れるものであるとさへ考へてゐる人がゐる。じつに残念だ。


「平和な日本国内で『平和』を叫ぶ人はいくらでも見るが、日本に牙をむく相手に対してこの論理(引用者註・日本国憲法の前文)を本気でぶつけて現実化しようとした人を、私は見たことがない。彼らは理想を愛しているのではない。空疎なきれいごとに胡坐をかいて、威張り腐っているだけだ。」

 さいうふ態度から生まれる腐臭がここそこにある。責任回避と正当化、そのために使はれるのが空理空論の「理想」である。

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東大研究室訪問

2014年08月20日 10時03分09秒 | 日記・エッセイ・コラム

 昨日、生徒の引率で東京大学の本郷キャンパスに行つた。先月も、同じやうに駒場キャンパスに出かけたが、駒場では感じなかつたことがあつた。

 もう25年ぶりの東大であつたから、以前の印象は記憶の彼方ではあるものの、以前より狭さを感じてしまつたのである。立派なビルが建ち、ちょうど工事中で、工事車両やら工事現場を囲むフェンスやらがあつたせいもあるだらうが、手狭であるのは事実であらう。学問の専門化が進むのは必然である。といふことは物理的には研究室が増えるといふことでもある。どんどん建物が建ち、何もない空間は少なくなつていく。昨今の大都市にある私立大学の建築物が新宿辺りの超高層ビルをモデルとしたやうな物になつていくのは、研究の細分化と無縁ではない。

 庭であつたところが、研究の使用価値によつて建築敷地となり、予算を獲得してビルを建てる。空間が生み出してゐた計量不可の何ものかが、研究の資源として生かされる。それはそれでよいのだが、空間が生み出してゐた価値は固定されてしまふ。

 大学の敷地はもつとゆつたりとしてゐていいのではないか。東京にそれを求めても仕方ないだらうと言はれればそれまでであるが、思ひ切つて大学院は郊外へといふのはどうだらうか。大学を郊外に移転して失敗したのであるから、大学院を郊外へ持つていけばいい。大学生は遊びたいから都会がよかつたのではないか。それならその現状に合はせて都会に大学を、郊外に大学院をとすればいい。ただし、大学の先生は基本的に大学生だけを対象とし、大学院の先生はじつくり少人数制で郊外で教へるのがいいのではないか。大学と大学院とは明確に分ける。大学にはリベラルアーツを専門にするところがあつてもいいし、大きな大学院のぶら下がりに小さな大学を作ればいいのではないかと思つてゐる。

Think!(シンク)SUMMER 2014 No.50: ゼロから学ぶリベラルアーツ Think!(シンク)SUMMER 2014 No.50: ゼロから学ぶリベラルアーツ
価格:¥ 1,944(税込)
発売日:2014-07-18

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『華岡青洲の妻』を讀む

2014年08月15日 09時17分16秒 | 日記・エッセイ・コラム

華岡青洲の妻(新潮文庫) 華岡青洲の妻(新潮文庫)
価格:(税込)
発売日:1970-02-03
 有吉佐和子の続き。

 『華岡青洲の妻』を讀む。世界で初めて全身麻酔により手術を行つた人である青洲、そして麻酔薬の開発のために妻が犠牲になつたといふ話しか知らずに讀んでみた。すると、中身はまつたく違ふ様相であつた。

 有吉の描きたかつたのは、嫁と姑との愛憎劇であると同時に、美談の一枚下にある実相であらう。何も美談を汚したいわけではない。さういふ暴露的な趣味は文章には一切ない。嫁と姑の視線の交はり、そしてその意味、心理の襞をそつとはがしていく筆遣ひは慎重で、決して決めつけによつて俯瞰するやうなところに作者はゐない。

 青洲の愛情を一身に引き寄せたいがために、母と嫁とは麻酔薬実験へと我先に志願するが、その場面でもどこか慎重に書きとめてゐる気配があつた。すると後の方でかういふ記述が出てくる。青洲との間に生まれた長女を失つた妻が、その悲しみを一生抱へて生きるぐらゐなら、夫青洲の役に立ち、医療の進歩の役に立つために死んだ方がいいと思つてゐるのである。するとさういふ自分に気づいた嫁が、さう言へば姑も息子青洲の実験台にあれほど強く志願してゐたののは、直前に娘(青洲の妹)を病気で失つてゐたからではなかつたのかといふことに思ひ至るのである。一つの行動の背後にある感情は一つであるはずがない。さういふ当たり前のことを描くのには、嫁姑といふ定番の葛藤劇がふさはしいのである。いかに私たちが決めつけと誤解を「真実」と受け止めてゐるか。

 小説の持つ魅力を堪能させてもらつた。

 じつは、青洲が紀州和歌山の人であることを知らなかつた。博物館もあると言ふ。もう少し早く知つてゐればこの夏に出掛けられたのにと思ふ。ぜひとも一度出かけてみたい。

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『正論』の続き

2014年08月13日 09時50分50秒 | 文學(文学)

 「相対主義」が近代の問題の根本にあるといふことを否定する人はゐないだらう。もちろん、それ以前の閉塞した世界観を打破しないままで良かつたといふ人もゐないだらうけれども、破壊がいつでも創造とつながるわけではないやうに、前近代の価値観をこなごなにして「創造的破壊」などとうそぶいてゐることの愚を現代人は自覚すべきである。

 失つたものの大きさをことあるごとに感じるのである。

 大きすぎる問題を論じることは何も論じないことと同じやうになつてしまふので、ここではこれ以上立ち入らないが、既出の「正論」論文の最後に解決の緒として大学の存在に注目した。アラン・ブルームの記述を援用して詳細に論ずべきであつたが紙幅の関係でそれはできなかつたので、こちらで補足をしておきたい。もつとも、紙幅が十分にあれば詳論できるかと言へば、それもできないのですが・・・・・・

「大学は、民主主義社会において得られるような経験を学生に提供する仕事にたずさわる必要はない」とブルームは明言したうへで、「トクヴィルは、いにしえの著述家たちが完全無欠である、と信じたのではない。自分たちが不完全だということをわれわれに最もよく自覚させる能力が彼らにはある、と信じたのである。これがわれわれにとって重要なことなのだ。/大学がこの機能を十二分に果たしたことは一度もなかったが、いまや事実上、それを試みようとさえしなくなってしまった。」

 「相対主義」の一体何が問題か。

 それは、自分の主張を絶対視してしまふといふことである。すべての思想や価値を相対化するといふことは、「いにしえの著述家」の思想も自分の感想も同価値であるといふことである。さうであれば、各自の思考も人格も鍛へられる機会を失つてしまふといふことである。そのことが問題である。「いにしえの著述家」の思想が何も完全である必要はない。しかし、それが自分の思考に勝るものであると思ふときに内省や人格の陶冶が始まる。その契機を相対主義は奪ふのである。そしてその行為を正当化するのが民主主義といふ制度である。民主主義といふ制度が人をよくしてゐない、このことは結構おそろしいことである。

正論2014年09月号

正論2014年09月号
価格:¥ 780(税込)
発売日:2014-08-01

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有吉佐和子を讀む

2014年08月12日 07時01分22秒 | 日記・エッセイ・コラム

江口の里 (中公文庫 A 21-4) 江口の里 (中公文庫 A 21-4)
価格:¥ 441(税込)
発売日:1975-08-10
 引き続き、有吉佐和子を讀んでゐる。

短篇を三つ。

「江口の里」カトリックの信者として、教会のあり方を問ふ。とても知的な会話が興味深い。

「ともしび」私には全く縁のないバアのママとその従業員たちの会話。とげとげしいところのない、自由な心遣ひが印象的。

「孟姜女考」中国の伝説についての話。中国訪問団の一員として行つた時の経験をもとに書かれたものである。やはり有吉は才媛なのである。

「江口の里」が良かつた。

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