言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

言葉の救はれ――宿命の國語299

2008年10月30日 15時23分58秒 | 福田恆存

(承前)

  明治期の國語問題に話を戻す。

『「国語」という思想』によれば、改革派の中心人物であつた保科孝一の著作には、「すべて優秀なる国民の言語が、一般に強大な感化力を有するものであるから、共栄圏の盟主たる日本の言語が、当然その資格を具備してゐるので、これに対して圏内の民族に、不満や反対のあるべきはずがない」(二八七頁)といふ文章があると言ふ。改革派がきはめて帝國主義的な言語政策を推進したといふこの事實も、事態の複雜さを示してゐよう。

今日で言ふ改革派は、政府の政策にたいして批判的であり、ましてや「帝國主義」的な政策を推進するなどといふことはあり得ない。といふことは、「近代化」といふテーマは、各人の思想信條を超えた喫緊の課題としてあり、それが明治といふ時代にとつてどれほどの切實な問題であつたのかを物語つてゐるのである。

更に言へば、「國語」は文化の問題であると同時に、いやそれ以上にきはめて深刻な「政治」の、あるいは「思想」の問題になつてゐたといふことである。

  かうした「國語」の「思想」を讀み解くことから學ぶものは多い。「正統假名遣ひを保守せよ」といふことを連呼するだけでは、今日の國語問題はきつと解決しまい。なぜならば、そこに「思想」問題があるからである。明治期の言語政策立案者(俗に言ふ「改革派」)が、進んで取り組んだ課題にたいして、私たちもまた何らかの具體案を提出する必要がある。が、保守派においての檢討は正直に言へばこれまで不十分であつたと言へる。

またさう言ふ指摘をここでしてゐる私にも、その問題を體系的に論ずる能力も資格もない。ただここではその斷片を「覺書」にしておく。それだけが出來ることの一切である。

 標準語と方言の問題

 言語學と國語學との今後のあり方

 國家語としての歴史的假名遣ひの制定

かうした問題點の解決には、その前提として一人でも多くの人が日常で標準語を歴史的假名遣ひで書くといふことを求めたい。そしてその「活動」にたいして批判的な人が身近にゐれば、その意見に耳を傾けて聞くことが大切である。また、互ひの違ひを自覺して、その溝を明らかにし埋めてゆく努力を惜しまないことである。

「話せば分かる」などといふことを私は言ひたいのではない。正統假名遣ひを強制したり、それ以外を拒否したりすることは、「國語」が思想的に語られてゐる現在、問題を矮小化してゆくだけだらう。現代假名遣ひを日常的に使用してゐる人に、「おや、もしかしたら現代かなづかいっておかしいのか」とその使用を迷はせるだけで十分である。言葉遣ひに敏感になり、歴史性に氣附かせ、先に見た「ねじれ」を自覺させることが大事だからである。その意味では、高島俊男氏の一聯のエッセイ(『お言葉ですが・・・』文春文庫)などを讀ませることは有益である。また、最近萩野貞樹氏が、上梓した二册の本も絶好の書物である。それは、『旧かなづかひで書く日本語』(幻冬舍新書)と『舊漢字書いて、覚えて、楽しめて』(文春新書)である。御手輕だが、侮れない。そして、かういふ書物が今日出版されるといふことに、正直驚いてゐる。日本語ブームもここまでくれば本物である。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

時事評論石川  最新號

2008年10月22日 07時26分02秒 | 告知

○最新號の目次を以下に記します。どうぞ御關心がありましたら、御購讀ください。編輯長は、ながらく「月曜評論」の編輯長を務めてをられた中澤さんです。「諸君!」「正論」では取上げられない話題と、鋭い視點を毎號讀者に提示する得難い新聞です。1部200圓、年間では2000圓です。

 今こそ「月曜評論」の復刊を期待してゐます。また、今號では西尾幹二氏と松原正氏との論争について拙文も載せていただきました。ぜひとも御読みください。

公明党・創価学会が政治混乱の元凶

    ――早期解散を唱えた公明党の真意は――

                  評論家  山際澄夫

政局の行方

 政界再編含みのかつてない動き

  政権運営に苦慮する麻生政権、対応の「拙劣」な小沢民主党

             ジャーナリスト   花岡信昭

奔流            

「中山発言」どこが悪い

  ―失言騒動に見るメディアの体質―

                ジャーナリスト 花岡信昭

コラム

        公明党・学会の専横に終止符を  (菊)

        『べし』と『べき』は違ふ (柴田裕三)

          西尾幹二氏の皇室論の是非(前田嘉則)

        身の処し方、感慨一入(蝶)            

  問ひ合せ

電話076-264-1119    ファックス  076-231-7009

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

言葉の救はれ――宿命の國語298

2008年10月20日 16時41分42秒 | 福田恆存

(承前)

ちなみに言へば、今このことを書いてゐる私の念頭には、近年「日本語」について論じてゐる言語學者、加賀野井秀一氏のことがある。『日本語の復權』『日本語は進化する』といふ書名を見て、私の氣になるのは「日本語」と「進化」といふ言葉であるが、それはともかく、この著者は國語への處方箋を提示しようとする意圖が強い。つまりは、情緒的で感傷的な言語を論理的にせよといふのがその趣旨であるが、全面的に反駁するつもりもないが、どうにも皮相である。言つてみれば、言葉の使ひ方の問題が、そのまま言葉の問題になつてしまつてゐるのである。

例を引く。

デリダのグルントは、やっぱりディフェランスですね。

わがセクションは、ワールドワイドなストラテジーをデベロップいたします。

あのゲーセンにいるロンゲのヤンキー、チョー、ウザイじゃん。

 つまりはここには、テニヲハさえ整っていれば、どことなくそれらしい日本語となり、「詞」の部分に入った言葉が実際には一知半解のものであったとしても、いつのまにか分かったような気がしてしまうという大変な落とし穴があるわけだ。

(「『日本語ブーム』を超えて――論理的な日本語を構築するために」)

最初の三行については、意味など判らずとも良いであらう。單に現状を告發するために作つた例文であらうから。一つだけ説明すれば、「詞」である。「詞」とは日本語が中國語に出合つたとき、それを取入れるためにテニヲハ(これを「辭」と言ふ)の上にくる言葉である。

確かに、加賀野井氏が言ふやうに、「詞―辭」の構造が私たちの國語にはある。しかし、氏が擧げた例文が國語の問題であると見るのは、短絡にすぎる。福田恆存はそんな文章を書かないし、私もさう書いてゐないつもりだ。何よりも、御自身がさういふ文章を書くまいと心掛け、事實(あまり品のある文章ではないが)さうなつてゐないといふ事實が、氏の考へを見事に裏切つてゐる。

氏は、和辻哲郎の『日本語の特質』から、次のやうな文章を引用してゐるが、それを讀んでも和辻自身がさういふ文章を書いてゐないのであるから、それは使ふ主體の問題であることを證明してゐる。一應引用しておく。

日本語には理論的認識への強い性向は現はれてをらない。だから日本人がこの方面においてなした仕事は、日本語をもつて表現せられなかつた。そのことがまた日本語のこの方面における發達を沮害した。しかしこの方面の未發達は日本語が全體として發達の度の低いものであることを示すのではない。日本語は情意的體驗の表現において優れ、知的の分別において劣つてゐるのである。

(同右)

言葉の使ひ手に迫らない言語學のあり方といふのは、どうにもソシュール流なのかチョムスキー流なのかは分からないが、さういふ西歐流の言語學では、私たちの國語には迫れない。「研究」といふのは、どうしてかういふ形になるのか、分からない。科學的といふことへの誤解であらう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

言葉の救はれ――宿命の國語297

2008年10月16日 21時32分47秒 | 福田恆存

(承前)

『「国語」という思想』といふ書を讀み、私なりにそこで指摘された問題をまとめると、次のやうになる。

  統一國家を築き上げるためには標準語を早急に制定しなければならなかつたといふ政治的な理由があつたこと。

  近代化といふものが一〇〇%歐米化を意味する時代においては手本となる言語學が、話し言葉(音聲言語)である歐州語において發展したものであつたといふこと。

  植民地を抱へてその同化政策を進めてゆくには、その主體となる國家語として、「國語」を確立させなければならなかつたといふこと。

これら三つは、いづれも相互に關聯する問題でもあり、假名遣ひの新舊を單純に歴史性の否定肯定といふ色分けだけではとらへられないことを教へてくれる。このことは從來の歴史的假名遣ひ論者も指摘してきてゐないことであり、「その後の植民地主義」學がもたらした學問成果であるとは言へよう。

端的な例を擧げれば、植民地においてもしも歴史的假名遣ひを國家語として制定すれば、植民地の人人は歴史的假名遣ひを使用することになる。しかしながら、歴史を共有しない人人が「歴史的」假名遣ひを強制されるといふことには、本來保守派の國語學者は反撥しなければならないはずである。歴史的假名遣ひの理念を純化すれば、植民地においても現地の言葉を使ふべきだといふことになるからである。したがつて言語政策といふ觀點からすれば、保守派は歴史的假名遣ひでない假名遣ひを新たに作り出さなければならない。さう考へてみると、保守派の重鎭時枝誠記が、京城帝國大學の國語學の主任教授であつたといふことは、きはめて皮肉な出來事なのである。もちろん、「植民地政策」において、相手の國の文化を認めるといふことを徹底する必要はないといふ考へも十分にあり得る。といふのは、相手の文化を認める原理を「文化の保守」にするのなら、その原理を徹底すればそもそも植民地化自體を否定せざるを得ず、文化の保守といつても、所詮は植民地化の肯定の前提の上に立つた方便にすぎないと考へざるを得ないからである。したがつて、文化の保守といふ思想は、近代化の過程の前提ではなく、手段であるといふあり方を、國内に適應すれば、假名遣ひの歴史性の保持も方便であり、假名遣ひを新たなものにしても十分に可能であるといふ主張もすることが出來る。かうした歴史的假名遣ひ方便論ともいふべき主張は、從來の新假名論者からも出て來てゐないものであり、「その後の植民地主義」學以降の國語問題を考へる上で、重要な論點になるだらうと思はれる。

ただ、念を押す必要があるのは、私たちの假名遣ひの正統性が、さういふ近代學問の論理の綾にからめ取られる必要がないといふことである。現代學問に私たちの假名遣ひがどうあるべきかを左右する力は與へられてゐないからである。ただ、國語學といふものが大學の學問領域として存在する以上、「流行思想」にさらされ、喜んで學者は國語を弄ぶ。そしてそれが「研究」と稱して大手を振つて社會に認知されるのである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

福田恆存戯曲全集 全5巻・別巻1

2008年10月12日 17時22分18秒 | 福田恆存

福田恆存戯曲全集 全5巻・別巻1

福田恆存戯曲全集を 2008年11月より、 順次刊行予定するとのことです。

監修/(財)現代演劇協会
発行/(株)文藝春秋
A5判・上製/9ポ2段組・平均350頁
予価/各2500円+税

第1回配本 2008年11月末予定
【第5巻】
解つてたまるか!/ ドン・キホーテ 日本に現る
総統いまだ死せず/河童/靴は一足なのに

------------------------------------------------------------------

2009年5月刊予定
【第1巻】
別荘地帯/最後の切札/キティ颱風
堅塁奪取/わが母とはたれぞ


2009年11月刊予定
【第2巻】
龍を撫でた男/幽霊やしき/現代の英雄/〈放送劇〉幽霊やしき
失はれた時間/とりかへばや/チャタレイ夫人の恋人(脚色)


2010年5月刊予定
【第3巻】
幕切れ/明暗/一族再会
〈放送劇〉崖のうへ/〈脚色〉武蔵野夫人/罪と罰


2010年11月刊予定
【第4巻】

明智光秀/有馬皇子/億万長者夫人
〈放送劇〉蘇我馬子の陰謀/大化改新/歌行燈(脚色)


2011年5月刊予定
【別巻】
劇場への招待/劇と生活/演出論/私の演劇白書
チェーホフの劇場見聞 記/自作解説
〈戯曲〉恋愛合戦/福田恆存演劇関係年表

(現代演劇協会のホームページより転載)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする