劇団四季 解ってたまるか! [DVD] 価格:¥ 3,990(税込) 発売日:2009-03-27 |
最終原稿は、手書きで校正したものになるので、データの形では私の手元にはない。したがつて以下のものは、刊行されたものとは違つてゐることを御許し願ひたい。
卒業した生徒たちへ贈る。
一昨年の年末年始にかけて京都で劇團四季による『解つてたまるか!』(福田恆存作・淺利慶太演出)が上演された。三年半前には東京で觀たが、そのときはどうして主人公が自殺してしまふのかが腑に落ちず、その結末が氣になつて十二分に樂しんだとは思へなかつた。何しろ主人公がライフルの銃口を自分の喉元に向けてドキューンと撃つて幕が下りるのである。たいへんな終り方で、觀客の一人としては心の處理の手掛りを見つけることが難しく、ただ茫然としてしまふばかりだつた。それでも役者の熱演に拍手を送つてゐるうちに、その手の動きに觸發されたのか素晴しい芝居だつたといふ思ひが意識の表面に出て來てどうやら落ち着いたといふぐあひであつた。
さていきなりこんなところから話を始めるのでは、この芝居を觀たことも聞いたこともない方には何のことやらさつぱり解らないので、あらすぢを簡單に御紹介する。
主人公の村木明男は、ライフル銃を持つてホテルを占據し人質を楯にして警察に謝罪を求める。理由は警察から前科者にたいする差別を受けたからである。また、籠城する前に醉つ拂ひ運轉手を二人殺してきたのだが、それは飮酒運轉による交通事故を減らすための「社會的正當防衞」だと言ふ。かうした言葉巧みな村木の言葉によつて人質たちとの間には妙な連帶感が生まれてくる。また、報道合戰で自社が勝拔くために少しでも早く部屋の内部の樣子をうかがはうと新聞記者が近づいてくる。さらに、その新聞記者を通して、村木の差別待遇に同情した進歩的文化人らが接觸してくる。ところが村木は、かへつて彼らの言動を逆手に取つてやり込めてしまふ。ころころと主張が變はる人間たちに嫌氣がさした村木は、人質すべてを解放し、一人だけになりたいと言ふ。そして、わざわざ搜査本部の部屋に行き、自分が持つてゐる原子爆彈を三十分後に爆發させるから、早くこのホテルから去るやうにと告げる。そして最後には、屋上に上がつて自らライフル銃で死ぬのである。
下敷には「金嬉老事件」といふ、ライフル魔による旅館籠城事件がある。金嬉老は、暴力團關係者をまづ二人射殺し、その後逃走途中で旅館に立ち寄りそこにゐた主人や客十六名を人質にして立て籠つた。犯人の名前からも分かるやうに、在日コリアンによる差別への抗議、なかんづく警察への憎しみといふ側面が出て來ると、殺人といふ犯罪自體への批難は薄れ、マスコミや文化人らの言説、または國民の意識は感傷的な同情へと變化していく――福田恆存が注目したのはその點である。つまりは、殺人への斷罪はそつちのけで「誰も犯したくはないはず」の殺人を犯さざるを得なかつた「動機」を尊重してやらうといふ「僞善と感傷」を摘出したのであつた。 この事件が起きたのが昭和四十三年の二月である。そして、この作品が發表されたのが同年の『自由』七月號であつた。わづか三ヵ月といふ速さで執筆されたと言ふ。つまりは、福田には主題が始めから明確にあり、あとはエピソードを組み合はせるだけで良かつたといふことであらう。
ただ、兩者の決定的な違ひは、現實の金嬉老は自殺をしなかつたことである。今も健在で韓國で暮らしてゐる。
となれば、やはり福田が主人公の自殺と言ふ形でこの芝居を閉じた理由は氣になる。最初に觀て以來、その結末の附け方についての疑問が斷續的に私の意識にのぼつてきてゐた。そんな中、今度は京都でも上演するといふことを知り、どうしても觀たいと思つた。そして、今囘は私が教へてゐる生徒たち(高校二年生)にどうしても觀せたいと思つたのである。世代の違ひも、時代の變化も感じることができるし、福田の芝居を今の十代の若者がどう受け取るのかを知ることも、意義のあることであらう。その意味で、拙論は單なる『解つてたまるか!』論ではなく、鑑賞實踐?として書いたものでもある。(續く)