言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

『解つてたまるか!』鑑賞?――福田恆存が斷念したこと その1

2010年01月28日 19時57分33秒 | 日記・エッセイ・コラム

劇団四季 解ってたまるか! [DVD] 劇団四季 解ってたまるか! [DVD]
価格:¥ 3,990(税込)
発売日:2009-03-27
 私事に亘るが、本日は私の奉職する学校の卒業式であつた。國公立をはじめとしてほとんどの大學の受驗がこれからといふ時で、未だ囘想する時期ではないが、年末に刊行された『昧爽』といふ同人誌に載せた文章をはなむけの言葉として掲載したい。執筆したのはもう一年前のことであるが、事情により發行がこの時期となり、それが幸ひして、卒業した生徒らとの一年前の體驗を思ひ出す機會となつた次第である。

 最終原稿は、手書きで校正したものになるので、データの形では私の手元にはない。したがつて以下のものは、刊行されたものとは違つてゐることを御許し願ひたい。

 卒業した生徒たちへ贈る。

 一昨年の年末年始にかけて京都で劇團四季による『解つてたまるか!』(福田恆存作・淺利慶太演出)が上演された。三年半前には東京で觀たが、そのときはどうして主人公が自殺してしまふのかが腑に落ちず、その結末が氣になつて十二分に樂しんだとは思へなかつた。何しろ主人公がライフルの銃口を自分の喉元に向けてドキューンと撃つて幕が下りるのである。たいへんな終り方で、觀客の一人としては心の處理の手掛りを見つけることが難しく、ただ茫然としてしまふばかりだつた。それでも役者の熱演に拍手を送つてゐるうちに、その手の動きに觸發されたのか素晴しい芝居だつたといふ思ひが意識の表面に出て來てどうやら落ち着いたといふぐあひであつた。

 さていきなりこんなところから話を始めるのでは、この芝居を觀たことも聞いたこともない方には何のことやらさつぱり解らないので、あらすぢを簡單に御紹介する。

 主人公の村木明男は、ライフル銃を持つてホテルを占據し人質を楯にして警察に謝罪を求める。理由は警察から前科者にたいする差別を受けたからである。また、籠城する前に醉つ拂ひ運轉手を二人殺してきたのだが、それは飮酒運轉による交通事故を減らすための「社會的正當防衞」だと言ふ。かうした言葉巧みな村木の言葉によつて人質たちとの間には妙な連帶感が生まれてくる。また、報道合戰で自社が勝拔くために少しでも早く部屋の内部の樣子をうかがはうと新聞記者が近づいてくる。さらに、その新聞記者を通して、村木の差別待遇に同情した進歩的文化人らが接觸してくる。ところが村木は、かへつて彼らの言動を逆手に取つてやり込めてしまふ。ころころと主張が變はる人間たちに嫌氣がさした村木は、人質すべてを解放し、一人だけになりたいと言ふ。そして、わざわざ搜査本部の部屋に行き、自分が持つてゐる原子爆彈を三十分後に爆發させるから、早くこのホテルから去るやうにと告げる。そして最後には、屋上に上がつて自らライフル銃で死ぬのである。

 下敷には「金嬉老事件」といふ、ライフル魔による旅館籠城事件がある。金嬉老は、暴力團關係者をまづ二人射殺し、その後逃走途中で旅館に立ち寄りそこにゐた主人や客十六名を人質にして立て籠つた。犯人の名前からも分かるやうに、在日コリアンによる差別への抗議、なかんづく警察への憎しみといふ側面が出て來ると、殺人といふ犯罪自體への批難は薄れ、マスコミや文化人らの言説、または國民の意識は感傷的な同情へと變化していく――福田恆存が注目したのはその點である。つまりは、殺人への斷罪はそつちのけで「誰も犯したくはないはず」の殺人を犯さざるを得なかつた「動機」を尊重してやらうといふ「僞善と感傷」を摘出したのであつた。  この事件が起きたのが昭和四十三年の二月である。そして、この作品が發表されたのが同年の『自由』七月號であつた。わづか三ヵ月といふ速さで執筆されたと言ふ。つまりは、福田には主題が始めから明確にあり、あとはエピソードを組み合はせるだけで良かつたといふことであらう。

 ただ、兩者の決定的な違ひは、現實の金嬉老は自殺をしなかつたことである。今も健在で韓國で暮らしてゐる。

 となれば、やはり福田が主人公の自殺と言ふ形でこの芝居を閉じた理由は氣になる。最初に觀て以來、その結末の附け方についての疑問が斷續的に私の意識にのぼつてきてゐた。そんな中、今度は京都でも上演するといふことを知り、どうしても觀たいと思つた。そして、今囘は私が教へてゐる生徒たち(高校二年生)にどうしても觀せたいと思つたのである。世代の違ひも、時代の變化も感じることができるし、福田の芝居を今の十代の若者がどう受け取るのかを知ることも、意義のあることであらう。その意味で、拙論は單なる『解つてたまるか!』論ではなく、鑑賞實踐?として書いたものでもある。(續く)

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國語教育とは何か。

2010年01月15日 21時22分28秒 | 日記・エッセイ・コラム

 高校生ともなれば、抽象的な言葉を使ふことに慣れ、むしろさうした言葉を使ふことが、知的であるといふ思ひがあるのだらうか、話し言葉ではともかく、文章を書かせるとさういふ言葉を使ひたがる。もちろん、文章は「少し気取つて書く」(丸谷才一)ものなのだが、それでも抽象化してしまふことによつて思考が曖昧になるといふこともこれまで多く見てきた。

 例へば、定期考査の折、西村清和氏の文章を題材に、「遊びをすら、企てと管理へと吸収し(   )される」といふ問題を作り、そこに入る言葉を選ばせたことがあつた。授業で取り上げた文章であつたため、正解の「一元化」は九割方が答へられた。が、後日の解説の折に、では「一元化」とはどういふことかといふことを書かせると、「支配すること」「統合すること」「包含すること」などと書いた生徒が多かつた。「企てが遊びを支配する」とは、もう一段階分かりやすくする必要はないだらうか、と問ひかけると、クラスの生徒らが知恵を出し合ひ「企てが企てであることがばれないやうに遊びのやうな雰囲気をかもし出す」といふ答へが出来上がつた。三十分ほど時間を要したが、抽象を抽象で還元するだけでは、意味の理解は深まらない。具体を抽象、抽象を具体と、思考を上下にめぐらせると意味が深まるといふことを体験するいい機会になつた。

 よく言はれるやうに、「赤い」といふ色を「赤」といふ言葉を使はないで説明すると、言葉の理解力と表現力が身につく。「ポストの色」「鮮血の色」などといふ具体例で述べる方法も、「はづかしい経験をしたときの顔の色」「冷たい水にさらされた母の手の色」などといふ経験から説明する方法も、言葉の抽象と具体の関係把握に役に立つ。

 むづかしいことを、むづかしい言葉で表現するのではなく、むづかしいことを分かりやすく説明する力は、とても大切な力であると思つてゐる。

 確かに近代化を成し遂げた日本の原動力は漢語の造語力に負ふところは大であるが、その力に支配されすぎ、内容が乏しくなつてゐるのを危惧する。

 当地では、今関西三空港のあり方が問題になつてゐるが、そこで「三空港一元管理」といふ見出しがどの新聞にも書かれてゐた。この一元管理といふ言葉も結局は曖昧な換言表現に過ぎない。三空港を管理する主体を曖昧にするために一元管理といふイメージ先行の言葉遣ひが使はれたのである。分かりやすく言へば「結論はこれから少しづつみんなで話し合ひませう」といふことなのである。

 もちろん、分かりやすいといふのは和語を使ふことを直ちに意味するのではない。例へば、環境保護のスローガンに「地球にやさしく」といふ言葉があるが、「やさしく」とは本来目上の者が目下の者に対して言ふ言葉であつて、「先輩にやさしい後輩」だとか「親にやさしい子供」だとかは言はないはずだ。それなのに「地球にやさしく」とはじつは、人間至上主義を隠蔽するオタメゴカシの言葉に過ぎなかつたわけで、和語=思考の深まりとはならない。

 最終的には、自分の話してゐること、書いてゐることを意識化し、言ひたいこと書きたいこととは何なのかを明確にする努力を怠らない言語人を育てたい。それをするきつかけは、具体と抽象、抽象と具体の関係把握と運用であると考へてゐる。

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高村光太郎の詩

2010年01月07日 22時16分27秒 | 日記・エッセイ・コラム

  大学時代に『高村光太郎詩集』を讀んでゐた。決して詩を愛稱するやうな學生ではなかつたが、高村の詩は好きだつた。たぶん思潮社といふ出版社のものであつたと思ふ。昨日、書庫を調べてみたが見つからなかつた。本は捨てれらない性分なのでどこかにはあると思ふが、新潮文庫や岩波文庫には輯録されてゐない次の詩が好きだつた。

 新しき日に


          新しき年 真に新たなり。

          東方の光 世界に東方の意味を宣す。

          幾千年の力 鬱積していま爆発するのみ。

          東方は倫理なり。

          東方は美なり。

          断じて西暦千幾年の弱肉強食にあらず。

          世界の人類 倫理に飢う。

          飢うるものにわが食を与ふるなり。

          わが食は道なり。

          道を体するもの 東方日出づる国に住む。

          その一挙一動は中正にして愛に満つ。

          死はかろく義はおもく、

          古来東方の女性 ことごとく美し。

          その美 驕らず出しゃばらず、

          内に湛へて堅忍の力あり、

          男子 みなその力に支へらる。

          世界の歴史 いま新たなり。

          東方の倫理 世界に布く。

          美しき東方の女徳 いよいよ凛たり。

 

 ずゐぶん大きな構への詩であるが、學生時代の私の氣分はかういふものに惹かれるのであつた。アジアといふものを意識してゐるのか、タゴールの詩なども讀んだ記憶がある。歴史を勉強してゐたが、土器がどうしたとか、借金證文がどうしたといふ細部に亙つた「歴史研究」への抵抗もあつたのだらう。それからキリスト教との出會ひも大きかつた。身を捨ててアジアへの宣教に向つた彼らの心情には、きつと歴史を動かす氣概があつたのだらうと思ふ。もちろん、かうした氣宇壯大な殉教精神とは比較にならない、一人よがりな私の氣分であるが、青年はこれぐらゐ大きな思ひを抱いてゐていいのだ、と今さらながら考へてゐる。

 さて、 日本に、世界に誇る倫理や美があるのだらうか。女性にそれがあるといふのは、本當だらう。

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昨年の収穫

2010年01月01日 13時37分26秒 | 文學(文学)

謹賀新年

 例によつて、昨年の文學的收穫を三つ擧げます。福田恆存の作品も麗澤大學から出てゐる評論集も續刊が決まつたり、文藝春秋からは戲曲集が出たり、ちくま文庫には『私の戀愛教室』が入つたりと「收穫」がありましたが、ここでは「時代と文學」といふ觀點から三作品を選びました。

村上春樹『1Q84』 

 昨年はなんと言つてもこの作品でせう。賣れてゐるからかもしれません。私の感覺からすればしだいに興味は薄れて行つてゐます。譬喩が少少鼻につくやうになりました。ノーベル賞をとるかどうかに關心が集中してゐるのは殘念です。國語といふものや自然といふものをこの作家がどう捉へてゐるのか、氣になります。日本語で書く必然性を感じませんでした。

 今朝の新聞の広告に「Book3」の告知が出てゐました。

平野曉臣『岡本太郎』

  毀譽襃貶の多い藝術家です。その大仰な表現が芝居じみてゐるので、フォニーにも映りますが、本書の大阪萬博當時の丹下健三とのやり取りを讀むと、その熱情の眞劍さを認めざるを得ません。大建築家の設計した屋根に穴をあけ、「太郎の塔(太陽の塔)」を造つたのです。繪畫から感じる無邪氣さは幼稚でもありますが、彫刻にはしなやかな厚みを感じます。

小林信彦『怪物がめざめる夜』

 新作ではありません。放送作家が創り上げた架空のコラムニストがしだいに實在の人物として動き出し、深夜放送で絶大な人氣を博して行き、しだいに大衆を動かしていく筋書きは、明確に、譬喩でせう。實在しないからこそそれに支配されてしまふものです。

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