問い続ける教師―教育の哲学×教師の哲学 | |
多賀 一郎,苫野 一徳 | |
学事出版 |
表題の本を読んだ。教師といふ職業は、それぞれ一家言あるものだから、なかなか互ひのことを理解しにくい。それを最近よく感じる。「おいおいどうしてそんなに自信満々に語つてしまふのか」と思ふ場面に出会ふ。特に今の職場は高学歴の方が多いので、自分なりの成功体験が自分自身を縛つてゐるだけならともかく、生徒をも束縛してゐることが多い。
しかも、昨日今日教員になつたばかりの「先生」がその体で生徒に対応するものだから、見てはいられない。
さういふ場面に囲まれてゐると、もつと自分を相対化すればいいのにと思ふ。そこで本書である。
多賀一郎といふ方はベテラン教師のやうだ。引退して今は講演会を通じて後進を育ててゐるやうであるが、エピソードを読む限り「悩み苦しんでゐる人」のやうに思へる。上司とぶつかり、生徒とぶつかる、かなり角張つた感じの先生である。熱すぎてそばにゐたら火傷しさうであるが、魅力的な存在である。
苫野一郎といふ方は聞きなれない教育哲学の専門家。熊本大学の先生だ。「共通了解」を作り出し、「相互承認」できる関係を作り出すことの出来る人間を育てるのが教育の目的と考へてゐる。それこそが真の自由であるとも言ふ。仰る通りである。でも、これに反対する人との間にどう「共通了解」を作り出し、「相互承認」を得られる関係を作り出すかは論及されてはゐない。個人的には、それこそが教育界の課題であると思つてゐるので、「なるほど」と思ひながら「でもね」といふ言葉がつい出てしまふ。若い頃に躁鬱病で苦しんだやうだ。その苦しみから得た哲学の救ひは貴重なものである。だから、この方の発言は嫌ひではない。
苫野氏によれば、多賀一郎はカント的、そして自分自身はヘーゲル的らしい。定言命法で知られるカントは、無条件に従ふべき人倫があるといふ考へである。だから、多賀氏は子供に対して抑圧的であることもある。ただそれは本気でやつてゐるから、成果を挙げてゐる。もちろん、反発する子供もゐたやうだ。それについては断念と覚悟とを多賀氏自身も告白してゐる。一方、苫野氏は弁証法の哲学者ヘーゲル流である。共通了解を産み出すといふことは、自己の主張も絶対視しないといふことである。自分の意見 対 他者の意見 合 共通了解 といふプロセスにこそ真実があると考へるから、定言命法など決して言はない。 はずである。
だが、うつかりこんなことを書いてしまふ。
「今世界の教育のパラダイムが、いわゆる『コンテンツ・ベースからコンピテンシー・ベースへ』と転換をとげつつあることは、もはや疑いようのない事実です。」(本書88頁)
共通了解論者の氏をして、こんな「定言命法」を使つてしまふといふほど、現代の教育論は硬直化してゐるといふことである。上の言葉は、あくまでOECDによればであり、PISAの内容を見ればといふことにすぎない。日本的パラダイムを変へていく必要があるといふ論拠はどこにも示されずに、「もはや疑いようのない事実です」といふのには、思はず噴出してしまつた。
かういふ苫野氏のチャーミングさは、でも私は嫌ひではない。