言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

『問い続ける教師』を読む

2018年06月28日 10時53分11秒 | 評論・評伝
問い続ける教師―教育の哲学×教師の哲学
多賀 一郎,苫野 一徳
学事出版

 表題の本を読んだ。教師といふ職業は、それぞれ一家言あるものだから、なかなか互ひのことを理解しにくい。それを最近よく感じる。「おいおいどうしてそんなに自信満々に語つてしまふのか」と思ふ場面に出会ふ。特に今の職場は高学歴の方が多いので、自分なりの成功体験が自分自身を縛つてゐるだけならともかく、生徒をも束縛してゐることが多い。

 しかも、昨日今日教員になつたばかりの「先生」がその体で生徒に対応するものだから、見てはいられない。

 さういふ場面に囲まれてゐると、もつと自分を相対化すればいいのにと思ふ。そこで本書である。

 多賀一郎といふ方はベテラン教師のやうだ。引退して今は講演会を通じて後進を育ててゐるやうであるが、エピソードを読む限り「悩み苦しんでゐる人」のやうに思へる。上司とぶつかり、生徒とぶつかる、かなり角張つた感じの先生である。熱すぎてそばにゐたら火傷しさうであるが、魅力的な存在である。

 苫野一郎といふ方は聞きなれない教育哲学の専門家。熊本大学の先生だ。「共通了解」を作り出し、「相互承認」できる関係を作り出すことの出来る人間を育てるのが教育の目的と考へてゐる。それこそが真の自由であるとも言ふ。仰る通りである。でも、これに反対する人との間にどう「共通了解」を作り出し、「相互承認」を得られる関係を作り出すかは論及されてはゐない。個人的には、それこそが教育界の課題であると思つてゐるので、「なるほど」と思ひながら「でもね」といふ言葉がつい出てしまふ。若い頃に躁鬱病で苦しんだやうだ。その苦しみから得た哲学の救ひは貴重なものである。だから、この方の発言は嫌ひではない。

 苫野氏によれば、多賀一郎はカント的、そして自分自身はヘーゲル的らしい。定言命法で知られるカントは、無条件に従ふべき人倫があるといふ考へである。だから、多賀氏は子供に対して抑圧的であることもある。ただそれは本気でやつてゐるから、成果を挙げてゐる。もちろん、反発する子供もゐたやうだ。それについては断念と覚悟とを多賀氏自身も告白してゐる。一方、苫野氏は弁証法の哲学者ヘーゲル流である。共通了解を産み出すといふことは、自己の主張も絶対視しないといふことである。自分の意見 対 他者の意見 合 共通了解 といふプロセスにこそ真実があると考へるから、定言命法など決して言はない。  はずである。

 だが、うつかりこんなことを書いてしまふ。

「今世界の教育のパラダイムが、いわゆる『コンテンツ・ベースからコンピテンシー・ベースへ』と転換をとげつつあることは、もはや疑いようのない事実です。」(本書88頁)

共通了解論者の氏をして、こんな「定言命法」を使つてしまふといふほど、現代の教育論は硬直化してゐるといふことである。上の言葉は、あくまでOECDによればであり、PISAの内容を見ればといふことにすぎない。日本的パラダイムを変へていく必要があるといふ論拠はどこにも示されずに、「もはや疑いようのない事実です」といふのには、思はず噴出してしまつた。

 かういふ苫野氏のチャーミングさは、でも私は嫌ひではない。

 

 

 

 

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書いてるソバから

2018年06月26日 21時04分46秒 | 日記

 

これからはあるくのだ (文春文庫)
角田 光代
文藝春秋

 

 昨日、5冊を並行して読んでゐると書いてゐて、「小説を読んでゐないな」といふことを感じた。

 最も最近読んだ小説は何だらうかと思ひ出してもなかなか思ひ出せない。井上靖の『傾ける海』を読みたくて机の横の積読コーナーには置いてゐるけれども。

 ただ今日になつて一編、角田光代の「まなちゃんの道」を読んだ。教科書に全文収録されてゐて、ふと読んだからだ。小学生の頃、圧倒される才能を持つた友人が身近にゐて、自分といふ存在の小ささを実感させられるといふことを回想風に書いた掌編である。とてもいいものだつた。ある種の中学生には、思ひ当たる事柄なのではないか。もつとも自尊感情ばかり強い生徒が中学受験勝ち組には多いから、さういふ連中はまつたく共感はしないだらうけれども。だが、文学はそんな連中は相手にしない。自分の心のひだを一枚一枚剥がすことにもためらふやうなさういふ時期が人生にはあるといふことを知つてゐる者だけが味はへばいい、さう思ふ。

 今日もまた5冊以外の文章を読んでゐる。活字の訪れを無下にはできない。

 

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5冊並行読書

2018年06月25日 21時39分42秒 | 日記
冒険者たち――ガンバと十五ひきの仲間
薮内 正幸
岩波書店
問い続ける教師―教育の哲学×教師の哲学
多賀 一郎,苫野 一徳
学事出版

 私の読書法を書いてみる。

 朝出勤前に、「その本」を5頁読むことにしてゐる。この時間は私にとつてとても大事な時間で、これはもう30年ほど続けてゐる習慣である。

 鞄に2冊。軽い本と重い本。今は、『問い続ける教師』(多賀一郎・苫野一徳/学事出版)と『「私」をつくる』(安藤宏/岩波新書)。

 家の机に2冊。『矢内原忠雄全集』第16巻と『批評の魂』(前田英樹/新潮社)。

 この5冊をときどきに読み続けてゐる。読み終はれば入れ替へる。面白いと思へば、この欄に感想を書く。本当につまらないと思へば、途中でも読むのをやめて入れ替へる。さういふこともときどきある。それでもしばらくしてから読み返すと面白くなるといふこともあるので、捨てたり売つたりはしない。でも、これからはすぐに売りに出さうかとも思ふ。書斎は狭い。

 私は、読むのがたいへんに遅い。それに雑誌やいろいろな印刷物も毎日届くし、何より仕事が文章の読み書きだから、昼間はそんなことばかりしてゐるので、帰宅しての読書がつらい時が多い。この頃思ふのは、朝の時間の読書が最も充実してゐるといふことだ。夜はとても実りが少ない。夕食後は眠い。そして、パソコンを開けばついつい調べ物をしてしまつて紙を読む時間が削られる。読むのがますます遅くなるはずである。

 ただ、この5冊並行読書は続けていかうと思ふ。子どもの頃の一冊を集中して読むといふ幸せな営みができなくなつたからでもある。忘れもしない、小学校6年生の時に『冒険者たち』を読んで友人たちと放課後感想を言ひ合つた(語り合つたといふほどのものではないが)思ひ出は胸熱い記憶としてある。が、もうああいふことは二度とないだらう。

 

「私」をつくる――近代小説の試み (岩波新書)
安藤 宏
岩波書店

 

批評の魂
前田 英樹
新潮社

 

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基督教会と共産党

2018年06月24日 10時46分39秒 | 評論・評伝

  1949年に大阪の中ノ島公会堂での矢内原の公演である。直接的には大学法案を巡つて共産党が勢力拡大の手段にしようとしてゐることへの非難である。共産党はその理念を曲げ戦術的に大衆迎合路線を引いて来てゐる。プロテスタントの赤岩栄牧師の入党はその術策にまんまとはまつてしまつた証である。しかしながら基督教会も同じやうに純粋さを失つてはゐないかといふのが、矢内原の主張だ。

  彼の念頭には、エレミヤがをり、イエスがをり、内村がある。だから、この長い公演文に何度もその名前が出て来る。迫害され、否定され、命まで奪はれることがあつても彼らには信仰があつた。その凄まじい力の源泉にしばし読む時間が止まつてしまつた。矢内原にもそれが明確に意識されるから、かうして口をついて出て来るのであるが、私には重かつた。

  学生時代、聖書を読んでエレミヤ書に感じた思ひそのままだつた。内村鑑三を卒論に選んだのも、さういふ生き方に惹かれたからであらうが、50歳を過ぎて今の私にはさういふ力はあるのだらうか。しかし、ここに来て矢内原を読むといふ巡り合はせとなり、何かを感じざるを得ない。

  引用する。

「地上に神の国を建設することはキリスト自身の目的とせられたところであり、また我々の努力すべき問題、我々の念願とすべき問題として示されたところでありますけれども、その目的を成就する方法は何であるか。それは有力な政治団体を作つて、盛んなるデモをやつて、共産党に敗けないやうな賑やかな活動をして、たくさんの代議士を出して、大衆運動に成功して、そえで地上に神の国を建てるといふのであるか。否、そんな方法では絶対に出来ないといふことを、イザヤ、エレミヤそのほか旧約の預言者は皆叫び、その主張のために彼らはことごとく孤独にこの世を去つたのです。キリストもパウロもヨハネもペテロも、その点に於いては旧約の預言者と同じことを教へ同じ道に立つたのです。我々の先輩である内村鑑三然り、藤井武然り、いづれもこの世を神の国と成すといふことを生涯の念願となしましたが、併しその目的を達成する道は、大衆の支持を得、大衆の賛成を得て、大衆から王として、リーダーとして崇められて、それでもつてこの世を神の国と成すものではない。かへつて反対に、この世から罵られ捨てられ嘲けられ十字架につけられ殺されて、それによつて此の世を神の国とするのである。この事実を、彼らは言を以てまた生涯を以て我々に教訓したのです。」

「一方的宣伝によつて大衆が動くといふことについては、戦争中に国家主義者・軍国主義者たちの一方的宣伝によつて、日本の国民、宗教家、大学教授や学生たちが如何に一斉に動いたかといふ事実を、私共は記憶するのであります。戦争が終つて後に、国民は言ひました。『我々はだまされてゐたのだ、軍国主義者に騙されてゐた。日本の国は本当に善いことのために戦争してゐると考へてゐた。そして戦争に勝ちつつあると信じてゐた。あとになつて、あれは皆だまされてゐたのだ、といふことがわかつた。我々は政府と大本営の発表する情報以外に何も知ることが出来なかつたから、それを信じる外に道がなかつた』と言ひます。けれども、だました者に責任はありますが、だまされた者にも責任がある。だまされたといふ責任があるのです。」

 だから、いますべきことを純粋にすべし、それが矢内原の叫びであつた。

エレミヤ書 (岩波文庫 青 801-7)
関根 正雄
岩波書店

 

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滝廉太郎青年は、「荒城の月」ただ一曲で対峙している。

2018年06月23日 17時22分02秒 | 評論・評伝
正論2018年7月号 (向夏特大号 平和のイカサマ)
日本工業新聞社
日本工業新聞社

 『正論』7月に、新保祐司先生が正論大賞東京講演会で話された内容を寄せてゐる。題は「日本人は日本文明を保持する意志があるか」である。

 文明を論じ、明治150年を主張するたいへん構への大きい論考である。しだいに憂色の濃さが際立つやうになつてゐる新保先生の文章である。しかし、文学の士であるからその味はひには滋味があつて、胸が焼けるやうな粘着質のものではない。なんと表現したらよいだらうか、覚悟を秘めてゐるが清々しいのである。その一つの例が、表題にあげた言葉である。

 明治期、滝廉太郎は23歳で夭逝した。ライプチヒに留学した折、下宿の主人に「タキ、おまへは日本といふ国からドイツに一所懸命西洋音楽を学びに来てゐるけれど、どんなものを作つてゐるんだ」と訊かれた。その時、滝は「荒城の月」をピアノで弾いて聴かせたといふ。司馬遼太郎はそのことに触れて「胸がつまりそうになる」と書いた。1685年生まれのバッハ以来、豊穣なる音楽の傑作を産み出してゐる国に応戦するのに、日本人「滝廉太郎青年は、『荒城の月』ただ一曲で対峙している」。この圧倒的な音楽の伝統に「ただ一曲で対峙した」青年に注目する司馬や新保には、同じやうな覚悟はないとは言へまい。

 明治といふ時代のその孤独で虚弱で、それでゐて気概だけはある、無鉄砲な姿。そこには短調がふさはしい響きなのであらう。明治の精神とは、「受けてゐるさまざまな挑戦に対して応戦する意志」である、新保氏の主張はそこにあると感じた。さういふ「意志」を受け継がうとしてゐる人の無言の伝達が、この近代日本を支へてきたのである。

 滝がこの曲を構想したのは大分県の竹田市にある岡城址であるといふ。小さい山で、こんもりとその山だけが周りとは別にある。私も九州にゐた折に二度ほど登つたことがあるが、石垣が部分的に遺る、あまりひと気のない静かな山である。

   滝は療養中の大分市で亡くなつた。その日は6月29日、間もなく命日である。

 

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