言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

松原正先生の講演会

2005年04月17日 22時55分42秒 | 日記・エッセイ・コラム
 5月29日(日曜日)、大阪市内で松原正先生の講演会があります。詳細は後日。月曜評論が休刊してしまひ、この講演会はどうなるのかと思つてゐましたが、今年も継続するといふことでうれしい限りです。

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言葉の救はれ――宿命の國語18

2005年04月13日 20時34分04秒 | 日記・エッセイ・コラム
 しかしながら、それは國語の「すがた」を本當に捉へてゐるのだらうか。そこに何か違和を抱くのはなぜだらうか。そのことは、次の文章を讀んでいただいくのが、早道であらう。もう一つ一つ説明する氣持が起こらない。

 いわゆる「国語・国字問題」と呼ばれる、我が国固有の言語論争は、すでに一世紀をこえる歴史をもっており、耳に聞いてうんざり、くちにするのもてれくさいほど、すり切れた話題になってしまった。それは、守るも攻めるも打つ手が決まっていて、論理よりは力ずくの議論だ。力でどうにもならなくなると、こんどは型どおり、伝統という神様を持ち出してきて始末をつけることになる。力や神様が現実を動かすという現象は、パワー・ポリティックスの対象ではあっても、もはや科学の居られる場所ではない。
 本来機能を発揮すべき、習慣や伝統を相対化するためのささやかなる学問も、我が国ではまだ足腰が弱く、それに従事する人は、こういうくたびれ損にかまけているわけにはいかないとばかり、さっさと自分のねぐらに引きあげてしまうということになる。今回、編集者から表記の題を受けたとき、私はこうしたすり切れ疲れをおしてでも、なお書くねうちのあることは何だろうかと考えた。そして、あるとすれば、「国語・国字問題」は、細部にわたる技術をあげつらう問題にとどまることではなく、むしろそこで明言されないことがらの中に、階級闘争とでも呼ぶべき性格の論点がひそんでいるということを、やはりこの際、てれずに示すことにあると思った。
          田中克彦『国家語をこえて』所収「ことばと権力」

 ここで示された主張は、毎度田中氏によつて示されてゐることであるから、なぜ「てれる」必要があるのか。それは心の底でじつは國語問題を「階級鬪爭とでも呼ぶべき性格の論點」を論ふことが、時代錯誤であることに氣付いてゐるからである。しかし、顯在意識はそれを否定しようとするから内面の論理(心理)をごまかして、國語問題の舊態依然たるを否定しにかかるのである。大事なのは國語ではなく、自己の言語學者としての立場である。言ひ續けてきたことを今更否定することなどできない。
 自分はいつでも正しく對象である國語問題は間違つてゐる、しかし、じつは時代錯誤だと感じてゐるから、それを言ひ續けることに「うんざり」してゐるのだ。知識人獨特の自己欺瞞である。しかし、國語問題はなにも「すり切れ」てはゐない。いや言つてよいなら、まだ始つてもゐない。福田恆存が投げかけた問題を、未だ國語改革者は正面から(假名遣ひ論にまで踏込んだ論立てをして)論じてはゐないからである。
 複雜にはなつてゐるが、それはかういふ一面的な文章が跋扈するからである。どうして假名遣ひ論に「階級鬪爭」などといふ言葉が必要になるのか、私には一向に分からない。



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言葉の救はれ――宿命の國語17

2005年04月08日 22時15分16秒 | 日記・エッセイ・コラム
 「戰後文學」は、私には活字のなかでしか知りえないものであるが、それでも、その時代を懷かしく囘想したい思ひになる。新古典派のみならずその時代の人々には、郷愁を感じてしまふのだ。
 それはなぜか。
 今は、それがないからである。歴史や國語への愛着が失はれてしまつたのだ。

 私たちは親を自由に選べぬごとく、自分の國語を自由に選ぶことは出來ない、日本に生れ育つたことは私たちの宿命なのだ。
                    『福田恆存全集』第三卷覺書三

 さらに、福田恆存のかうした姿勢を、同時代の小林秀雄は、数学者の岡潔との対談集のおしまひのところで、かう記してゐる。

 古典の現代語訳というものの便利有効は否定しないが、その裏にはいつも逆の素読的方法が存するということを忘れてはいけないと思う。古典の鑑賞法という種の本を読んでみても、鑑賞ということは形式で、内容は現代語訳的な生き方をしているものが多いと思っているのです。やかましい国語問題というものの根本にも同じことがあります。福田恆存君なんかが苦労してもなかなかうまくいかない。私なんか運動というようなものは甲斐性がなくて一向だめでお役に立てないが、問題の中心部は大変よく感ずる。国語伝統というものは一つの「すがた」だということは、文学者には常識です。この常識の内容は愛情なのです。福田君は愛情から出発しているのです。ところが国語審議会の精神は、その名がいかにもよく象徴しているように、国語を審議しようという心構えなのです。そこに食い違いがある。愛情を持たずに文化を審議するのは、悪い風潮だと思います。愛情には理性が持てるが、理性には愛情は行使できない。そういうものではないでしょうか。
                   小林秀雄・岡潔『人間の建設』

「国語伝統というものは一つの『すがた』だということは、文学者には常識です」。この言葉は、再讀三讀すべき言葉だと思ふ。「すがた」に愛着を持たせず、「意味」や「文字」にだけ、それも分析的に「審議」するのでは、「國語傳統」といふものが現はれてこない。「愛情」とはいささか月竝で、はばかれるが、國語への愛情が、文學者の出發點、いや國民の出發點であるだらう。
 親と子との世代で、言ふことが變はり、行動が異なる。そして、食べるものさへ違ふなかで、家族といふものがその「すがた」を變へようとしてゐる。血の繋がつた、同居してゐる家族でさへ、破壞が續いてゐるとすれば、私たちの國や國語がその破壞から免れてゐるとは言へまい。破壞を變化と言ひ換へて、現代人を誤魔化すことは容易である。しかし、國語を愛する者には、その欺瞞は見え透いてゐる。
 悲しいことに、私たちの國の國語・言語學者の主流は、破壞を變化として肯定する。金田一京助春彦兩氏をはじめ、辭書を作る人々もまた、「言葉は變はる」を唯一の眞理であるかのやうに信じ、喧傳する。そのうへ、國語を「日本語」と表記することで、あたかも客觀的な科學の姿勢を見せるのが流行のやうである。



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大阪万博を懐かしむ

2005年04月05日 22時59分50秒 | 日記・エッセイ・コラム
 現在、愛知縣で萬博が開かれてゐるが、私の年齡で萬博と言へば、當然昭和45年の大阪萬博である。この年は、三島由紀夫が自刃した年でもあり、水俣病などの公害も社會的に暗い陰を落してゐたが、吹田千里丘陵には明るい未來が廣がつてゐた。私は當時靜岡縣にゐたので行くことはかなはなかつたが、今は萬博公園の近くに住んでゐるので、ときどき出かけては太陽の塔を拜んでゐる。さう、私の、太陽の塔にたいする接し方は「拜んでゐる」といふ表現がふさはしいのである。岡本太郎の、あの塔は昭和の藝術の金字塔だと思つてゐる。
 そして、今日、三洋電機の博物館に出かけて、萬博當時の出品である「ウルトラソニック・バス(人間洗濯機)」を見に行つてきた。現在の介護用御風呂に實現されたアイディアの先見性を、サンヨーは言ひたいのかもしれないが(事實それは素晴しいことであらうが)、私には當時の技術者の眞劍な思ひと多少の遊び心とに何とも無邪氣で明るい聲が聞えてくるやうな樂しい邂逅であつた。館内にはその他萬博當時の品物もいくつかあつて、嬉しくなつてきた。
 そこで、次には大阪城に行き、松下が埋めた「カプセル」を見に行つた。5000年後に掘り起こすといふ何とも壯大な計畫にドギモを拔かれ、事實隣にゐた若い女性が「5000年後に地球があるのかな」などといふ發言の方に、妙に眞實みがあつた。今から5000年前に私たちの國に「文化」らしきものは何もなかつた。そして今後5000年後はどんな時代になつてゐるのか分からない。少なくとも大阪城はないであらうし、日本列島も今の形であるかどうかも分からない。それなのに5000年後を考へてカプセルを埋めた松下の心意氣は、十分に大阪萬博の精神に合致してゐるのである。
 私は本當に大阪萬博が好きである。太陽の塔が好きである。なぜなの、と家内に聞かれて、答へは明確にならなかつたが、好きなのである。

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言葉の救はれ――宿命の國語16

2005年04月02日 07時20分22秒 | 日記・エッセイ・コラム
 三島は、正月に芝居をみるのが一番正月らしいといふことを言ふために、踊りの構造を分析してゐるのだが、そこらあたりを省いた以上の引用では、なんだかしかつめらしい主張になつてしまつた。機會があれば、全文をお讀みいただきたい。新潮社版の全集の第三十卷に收められてゐる。
 「自由意思が、われわれの肉體の本來持つてゐた律動を破壞し、その律動を忘却させたのだ」といふ指摘は、そのまま戰後の國語政策への批評たりえると言つてしまつては牽強附會と言はれようか。しかし、國語の「律動」を失ひ、制約を奪ひ表音といふ「自由意思」が國語の生命力を失つた過程は、踊れない現代人そのものを映してゐると言へよう。私たちは、身體感覺を失つてしまつたのである。そして、なほもそのことに氣附かうとしないから、ただちに、精神の自由も失ふことになつたのである。
 三島由紀夫は、福田恆存や中村光夫を評して「新古典派」と言つた。政治と文學とを對立するものとして論じた荒正人、平野謙、佐々木基一、本多秋五らの「近代文學」の人々、とは一線を劃した、古典主義者といふ意味である。何が「古典」か。それは人間にたいする見方がである。思想と實生活と、精神と身體と、文學と政治とを、「演戲」といふ視點で見つめた彼らの在り方は、『文學の救ひ』で論じた。なるほどそれは、言つてみれば常識のものであり、傳統に基くものであり、古典派の構へである。
 もちろん、「派」とは言つても徒黨をくむやうなことを彼らはしない。「雲の會」といふサロンはあつたが、「君の考へが僕の考へに似てゐるから握手しようといふほど愚劣」(三島由紀夫)なものではない。常識に通じ、傳統を重んじ、古典を共有するところから、自然に集つてきた人々である。したがつて、同情的で容易な連帶を求めるやうな微温的なものではなく、それらを斷念したうえで、なほ結つく孤獨の結集とでも言ひたいやうなものであらう。
 改めて確認すれば、福田も中村も三島も、いづれも戲曲を書いた。この共通點は、ことのほか興味深いもので、彼らが現實と理想との平衡をとる場所を演劇の舞臺に求めたといふ性質は、この「派」の特徴を象徴してゐるやうに思はれる。
 私は、三島の「新古典派」といふ短いエッセイを讀んで、今この文章を書いてゐる。私が六歳のときに亡くなつたこの作家にたいする私の接し方は、幾つかの小説とエッセイとを散讀したぐらゐでしかない。『仮面の告白』を愛読したが、『太陽と鐵』『英霊の声』は分らなかつた。『近代能樂集』には心打たれたが、『豐饒の海』には抵抗を感じた。その程度の理解力で、三島を語ることは嚴に謹まなければならないが、ただその文學のなかに潛む哀愁には、否定できない心情の聲を聞くことができた。そして、三島の世代にはあり、現在の作家には感じられないもの、それが「國語への愛着」といふ言葉で的確に表現できてゐるかどうかは分からないが、少なくともさういふ眞情が傳はつてくることだけは確かである。



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