言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

「進」撃のゴジラ

2016年07月29日 20時57分47秒 | 日記

 シン・ゴジラを観て来た。子供の頃に見たものは、大人になつても惹かれるものだ。今日は初日。しかも第一回目の上映。前々から予約して観に行つて来た。と言つても内心ではあまり期待してゐなかつた。前回見たハリウッド版のゴジラが秀逸だつたので、あれを越えるものは日本では作れないだらうと思ひ込んでゐたからである。CGにしても、どこか貧相な日本版を見せられるやうな予感があつたからでもある(私より若い人よりも、同年齢かそれ以上の人が多かつた。平日のこの時間に観に来られる人といふのは、さういふ年齢層だらうと思ふが、内容からしても子供が観て楽しめるかどうかは不明である)。

 しかし、予想は外れた。とても良かつた。何が良かつたと言つて、このゴジラには何も感情移入できないといふことの良さである。哀愁や憎悪が込められたこれまでの日本のゴジラはロマン的であつたが、さういふものとはまつたく異なる。叙事詩のやうな作りである。それがいい。それでゐて、明確なメタファーとなつてゐる。

 あるいはまた、事の当否は分からないが、今日の日本に正体不明の物体が来襲し、未知の事態が起きた場合に政府がどう行動するのかといふことに注力して作られてゐたことに興味が沸いた。ハリウッド版との差別化は明確であつた。平和憲法下の日本では、何が出来、何が出来ないのか、それを事実に基づいて描いてゐる。こちらはメタファーではない。

 現実と寓意とが織り合はされてゐる映画であつた。

 最後に、「シン・ゴジラ」の「シン」である。「新」や「真」もあるだらうが、内容からすれば「進」であらう。タイトルにした「進撃」の「進」でもあるが、もう一つの熟語「進〇」の「進」でもある。それを書いてしまふとこれから見に行く人が面白くないだらうから、それはしばらく経つてから明かすことにする。

 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする