言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

自動車工場見学

2016年07月20日 12時25分11秒 | 日記

  今日は終日、自動車工場の見学。とにかく整理が行き届いてゐる。物作りは、生産量と生産効率を追求していくものであるから、整理整頓は必要から生まれた景色である。

 一台2分で組み立てると言ふから驚きである。さすがの一言である。

  道具や部品は、様々に工夫されたボックスに入れてあり、実によく計算されタイミングでふさはしい場所に置かれ、組み立てる上で最適化された位置にある。カイゼンの成果なのであるが、それを目の当たりにして感激した。

 

 しかしその一方で、工場生産とは異なる物作りのあり方もあるだらうし、私たちの仕事でもある人造りは、量と効率とは指標の異なるものである。

  連れていつた生徒らが、どう考へてゐるのか、いづれ聞いてみたいと思ふ。

  それにしても毎分ごと、ただいまの生産台数と計画台数、そして効率性について表示された電光板を見ながら仕事をするといふのは、神経のすり減る仕事だらうと想像した。

 

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視写の試み

2016年07月19日 09時44分32秒 | 国語学

  どこの学校よりも早い終業式を終へ、夏期講習も終はり、夏休みである。が、明日は企業訪問で、生徒を引率して東京都羽村市の日野自動車の工場を見学する。現地集合現地解散は、全国規模で生徒を募集する学校ならではのことだらう。私は一足早く上京して、いろいろと見て回はらうと思つてゐる。

  ところで、

  昨日、小学生に国語を教へる機会があり、視写といふことをやつてみた。長崎県の教育委員会が取り組んでゐることで、ひょんなことでそれを知り、視写の実践を試みた。
  条件は三つ。
1 字を丁寧に書くこと
2 正確に写すこと
3 改行は文節の切りの良いところで行うこと
のわづかな条件である。
  題材は、大岡信の『折々の歌』である。毎回200字で連載してゐた文章は授業で扱ふには持つてこいである。
  条件3の意味は分かりにくさうだつたので、ネを文節ごとに入れて皆で音読した。これがとても良かつた。面白がつてやつてゐた。小学生は身体性を目覚めさせながら学ばせないといけない。ここら辺りを分かつてゐない人が多い。教室から声が聞こえてこない授業は恐らく死んでゐる。
  時間は15分ぐらゐかかつた。内容の説明はしてゐない。感想まで書かせる予定で教材を作つたが、そこまではいかなかつた。反省である。むしろ感想欄はいらなかつたかもしれない。写す時間は7分まで縮めたい。
  説明をし過ぎてゐるのではないか、それが最近自分の授業に感じる反省である。噛んで含んで文章を理解させるのも大事であるが、硬いままの文章を生徒自身が自力で読めるやうになつてゐるかどうか、さういふ力を養ふやうな授業になつてゐるかどうか疑問が出てきた。
  写すといふことは精読することの方法である。黙読より音読。音読より視写である。それが精読に通じてゐる。さう思ふ。

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中村文則の小説はなぜ不吉なのか。

2016年07月16日 13時03分25秒 | 日記

  中村文則の小説を読んでゐる。と言つてもまだ『土の中の子供』『悪意の手記』『遮光』の三冊である。次に読む本を決めてゐるが、三冊を読んで、少しだけ書きたいことが生まれた。

 芥川賞作品の『土の中の子供』は、受賞時に読んだので、すつかり内容は忘れてゐる。しかし、歴代の芥川賞受賞作の中では気に入つたものの一つだつた。

 

 今回取り上げるのは、それ以外の二冊。『悪意の手記』も『遮光』も青年が主人公。二人とも人を殺めるてゐる。それだけでも不吉ではあるが、それ以上にこの青年が、そのことをあまり後悔してゐる様子が見られない。一言で言つて「心の闇」と作者も言つてゐるやうであるが、その闇は、光が当らない場所といふよりも、自ら光から遠ざかつてゐるゆゑにできる闇なのではないかといふことである。光が当れば陰はできる。心の陰は立体的な人間像に光を当てれば当然できるものであり、奥行きを感じさせるものともなる。しかしながら、光を遠ざけてできる闇は、できなくてもよい闇であり、闇のための闇である。それが現代の青年心理のなかに生じてゐるがゆゑに、それを描いてゐるといふのは分かるものの、さうだとすれば、不吉以外にはない。

 自らで闇を作り出し、そこに生きることを決めた者には、もはや言葉が通じない。言葉が存在のすみかになり得ない空間に生きてゐる者には、気分の浮遊に頼るしかない。こんな「声」が記されてゐた。友人が主人公に問ひただした言葉への返答である。

「お前な、いちいちうるせえんだ。何なんだよ、一体、あ? 何なんだよって聞いてるんだよ。どうだっていいだろう? お前は馬鹿なんだよ。嘘つき嘘つきってお前言うけどさ、じゃあ教えるよ。嘘はな、ついてる人間も傷つくとかっていうだろ、罪悪感とか、何だか知らねえけど、でも俺はそんなこと、考えたこともねえんだよ。いや、考えたこともあったのかもしれないけど、何百回ってやってると、感じなくなるんだ。俺は何だって言ってやるし、何だってやれるんだ。俺の中はぐちゃぐちゃなんだよ。めちゃくちゃなんだ。何が本心かだってわからなくなるくらいに。嘘ついてる時な、お前も試してみればいい、心の奥がさ、たまらなくうずくんだ。うずいてうずいて、たまらなくなる時だってある。ん? 何だよ、何が言いてえんだよ。おい、何か言ってみろよ、ん? 」

 まさに不吉である。中村は、かう書きながら、かういふ青年の声によつて救はれる若者がゐることをわかつてゐる。訳のわからない情念に引きずられてゐる青年たちが、かういふ声によつて形が与へられ、少しずつ自分の心の闇に気づいていくといふことに期待してゐるのであらうか。

 近代150年の変化において、この心の変化以上に大きいものはないだらう。自我を発見し、自我が頼りないものであることに気づき、そしてそんなものはないと断言した今日の状況を、敏感な青年が感じ取りそれを極めて正確に自己像として演じてゐる。さういふことなのかもしれない。だとすれば、この不吉は社会のものである。中村文則を読まうと思つたのは、さういふことなのだらうと感じてゐる。

 もちろん、さうでない青年も多い。さういふ青年には読むべき本はたくさんある。だが、さういふ青年は現代作家が書く小説の主人公にはならないのだらう。そして、さらに皮肉なのは、中村文則の描く世界を必要とする青年が、果たしてこの種の小説を読むだらうかといふことである。中村に限らないが、読書する青年が主人公になる小説は、意外と少ないのである。

 

 

 

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2018年に「太陽の塔」の映画が出来るらしい。

2016年07月15日 22時31分19秒 | 映画

 今日は、告知。

 太陽の塔をテーマにしたドキュメンタリー映画が出来るらしい。どんなものなのか、まつたく分からないが、少し楽しみではある。

 ただ気がかりなのが、「監督を募集する」といふ趣向である。映画は撮りたいと思つてゐる監督が撮つてこそのものであらう。それが監督を募集といふのであるから、初めに企画ありきである。それでは監督は、下請けになる。それでいい映画ができるかしらん。

http://taiyo-no-to-movie.jp/

岡本太郎記念現代芸術振興財団が、パルコと映像制作会社のスプーンと共同で、岡本太郎氏の「太陽の塔」をテーマにした長編ドキュメンタリー映画を制作する。監督は公募で選出し、6月1日から30日までの期間で1次選考の応募を受け付ける。

 「太陽の塔(仮)」製作委員会は、同プロジェクトを通じて「太陽の塔」の持つ意味を改めて世に問いかけるため、同作を愛する人たちで映画を制作したいと考え、監督を公募することに決めたという。応募条件は、年齢、国籍、性別を問わず、監督もしくは演出の立場で映像制作の実務経験者。2分以内のPR動画とプロフィール資料の1次選考、面接の2次選考を経て、公式サイト上で最終候補者が発表される。映画は、今秋から制作に取り掛かり、2018年春の公開を予定している。

「ファッションニュース&ライフスタイル」より引用。

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なぜ論理は嘘に結びつくか。

2016年07月12日 22時13分52秒 | 日記

 大事なことを書き忘れた。

 論理は、なぜ嘘に結びつくか。結論は簡潔で、正直でないからである。そのことを書かなければならない。

 嘘とは正直でないことを言ふのであるから、トートロジー(同語反復)だと思はれるかもしれないが、さうではない。正直に話さうとすれば論理はいらなくなるのである。

 嘘とは自己保身が目的であり、正直は自己否定の結果である。したがつて自己否定を目的としては正直にはならない。つまり、自己否定を目的としても嘘になるといふことだ。それを自己欺瞞と言ふ。少し分かりにくいかもしれないが、自己否定を公言し他者を意識して正直を演じてしまへば自己欺瞞である。それは更なる嘘であり、悪質である。偽善である。

 嘘はいけない。しかし、嘘をついてしまつたのに、それに気づかないのはもつといけない。卑怯である。

 理性の私的利用をカントは否定したが、まさにそのことである。論理の正否は、誠実不実とはなんの関係もない。論理的思考力の養成などといふことを聞くと、本当に腹が立つ。そんなものはどうでもいいことだ。正直であること。そして自分がさう生きられないこと。その二つを心して生きよ。それことが大事なことである。

 ちよつと道徳臭いですが。

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