(承前)
檢討してゐる、吉川の文章が書かれたのは、昭和二十六年である。その當時は作家や批評家の中から、吉川に對抗できるやうな見識と知識をもつて、歴史的假名遣ひの正統性を主張した者はゐない。哀しむべきことは、歴史的假名遣ひに關心を寄せる大學者であつても、その正統性を個人の「語感」に根據を置いてしまつてゐたといふことである。
ちなみに、福田恆存の『私の國語教室』が、季刊同人誌『聲』に連載され始めたのは、昭和三十三年のことである。その序は「誰に向つて書くか」であり、その對象の第一に擧げられてゐるのが「作家・評論家・學者、その他の文筆家」となつてゐる。福田恆存が何を考へ、國語問題において何が問題だと考へてゐたのかを含めて、當時の空氣がいかなるものであつたのかが、「序」を見ただけでも分かる。
吉川は、この論文のなかで「懶惰な私は、月月の雑誌の文章を読むことも少なく、旧かなづかいを墨守される文壇の諸氏が、その墨守の理由、したがってまた新かなづかいを使わない理由を、くわしく説明された文章を、まだ寓目しない」と書いてゐるが、それなら、さういふ文章を見つけた時には、それについて檢討する用意があると書くのが知的誠實といふことだと私は考へる。が、さういふことを吉川は書かない。やはり始めから結論ありきなのである。もつとも、「かなづかい論」の骨子が「語感」にあると斷言する吉川には、そもそも「新かなづかいを使わない」ことの理由の説明など、どうでもよいことなのかもしれない。
さう思つて改めてこの論文を見れば、吉川はこの論文の中ほどでかういふ疑念を提出してゐたのである。
「そもそも、かなづかいの異同となって現われる部分は、日本語の語感の形成に、そんなに重要な部分をしめるかどうか」。
また、岩波書店の「世界」に載つた三好達治の歴史的假名遣ひの文章をわざわざ新かなづかいに書き改めて、「書き改めた仮名は十字、どこが書き改められているかを数えるのに、ある時間がかかるであろう。それほど軽微な異同なのである」とも書いてゐる。
更には、鷗外の「小倉日記抄」を現代かなづかいに書き改めて、「新かなづかいにすれば鷗外は読めなくなるというのは、杞人の憂いであるように思われる」と記してゐる(ここでもう言つてしまふが、「読めなくなる」といふのは、皆が「新かなづかい」しか知らなくなつてしまへば鷗外が「読めなくなる」と言つてゐるのであつて、吉川のやうに新かなで鷗外が「読めなくなる」のではない。もちろん、新かなにしてしまへば、それは鷗外ではない。作者にとつて假名遣ひとは、決定的なものである)。
結論として、吉川はかう言つてゐる。
「要するに、かなづかいの異同となって現われる部分は、日本語の死命を制するやうな部分ではない。旧かなづかいを使うのと、新かなづかいを使うのとでは、語感に多少の差違がむろんあるであろう。しかし旧かなづかいによらないかぎり、ないしは新かなづかいによらないかぎり、詩が書ける書けないといった問題ではないと、私などには思われる。」
ここでもまた曖昧な態度なのである。