言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

言葉の救はれ――宿命の國語246

2008年02月29日 07時14分48秒 | 福田恆存

(承前)

檢討してゐる、吉川の文章が書かれたのは、昭和二十六年である。その當時は作家や批評家の中から、吉川に對抗できるやうな見識と知識をもつて、歴史的假名遣ひの正統性を主張した者はゐない。哀しむべきことは、歴史的假名遣ひに關心を寄せる大學者であつても、その正統性を個人の「語感」に根據を置いてしまつてゐたといふことである。

ちなみに、福田恆存の『私の國語教室』が、季刊同人誌『聲』に連載され始めたのは、昭和三十三年のことである。その序は「誰に向つて書くか」であり、その對象の第一に擧げられてゐるのが「作家・評論家・學者、その他の文筆家」となつてゐる。福田恆存が何を考へ、國語問題において何が問題だと考へてゐたのかを含めて、當時の空氣がいかなるものであつたのかが、「序」を見ただけでも分かる。

  吉川は、この論文のなかで「懶惰な私は、月月の雑誌の文章を読むことも少なく、旧かなづかいを墨守される文壇の諸氏が、その墨守の理由、したがってまた新かなづかいを使わない理由を、くわしく説明された文章を、まだ寓目しない」と書いてゐるが、それなら、さういふ文章を見つけた時には、それについて檢討する用意があると書くのが知的誠實といふことだと私は考へる。が、さういふことを吉川は書かない。やはり始めから結論ありきなのである。もつとも、「かなづかい論」の骨子が「語感」にあると斷言する吉川には、そもそも「新かなづかいを使わない」ことの理由の説明など、どうでもよいことなのかもしれない。

  さう思つて改めてこの論文を見れば、吉川はこの論文の中ほどでかういふ疑念を提出してゐたのである。

「そもそも、かなづかいの異同となって現われる部分は、日本語の語感の形成に、そんなに重要な部分をしめるかどうか」。

また、岩波書店の「世界」に載つた三好達治の歴史的假名遣ひの文章をわざわざ新かなづかいに書き改めて、「書き改めた仮名は十字、どこが書き改められているかを数えるのに、ある時間がかかるであろう。それほど軽微な異同なのである」とも書いてゐる。

 更には、鷗外の「小倉日記抄」を現代かなづかいに書き改めて、「新かなづかいにすれば鷗外は読めなくなるというのは、杞人の憂いであるように思われる」と記してゐる(ここでもう言つてしまふが、「読めなくなる」といふのは、皆が「新かなづかい」しか知らなくなつてしまへば鷗外が「読めなくなる」と言つてゐるのであつて、吉川のやうに新かなで鷗外が「読めなくなる」のではない。もちろん、新かなにしてしまへば、それは鷗外ではない。作者にとつて假名遣ひとは、決定的なものである)。

 結論として、吉川はかう言つてゐる。

「要するに、かなづかいの異同となって現われる部分は、日本語の死命を制するやうな部分ではない。旧かなづかいを使うのと、新かなづかいを使うのとでは、語感に多少の差違がむろんあるであろう。しかし旧かなづかいによらないかぎり、ないしは新かなづかいによらないかぎり、詩が書ける書けないといった問題ではないと、私などには思われる。」

 ここでもまた曖昧な態度なのである。

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言葉の救はれ――宿命の國語245

2008年02月28日 07時13分21秒 | 福田恆存

(承前)

 前囘引用した吉川幸次郎の文章で、彼が言ひたいことはかういふことだ。たとへば、雪の降る樣子を表す言葉を現代シナ語の擬態語で言ふと、hi-la-ha-laといふ口語があるといふ。しかし、子供でも四六時中使はれるこの言葉は、それを表記する漢字がないために、文章では出て來ることがないのだといふのだ。「記載語にはならない」とは、かういふ意味である。

  それにたいして、表音語(吉川の考へによれば、である。私はさうは思はない)である「かな」は、その音を表すことが容易なため、「きっちり」「ちゃっかり」「えげつない」「ワンマン」「アプレ・ゲール」などの口語をいつなんどきでも記載にのぼらせることができる。これは、「日本語は発音をそのままに表記しうることを、大きな特徴とし」てゐるからだと言ふのだ。

 そして、かうした「仮名による日本語の表記法の特徴」は、そのまま日本語の表記法の特徴となつたと見るのである。「行きてが、い音便で行いてとなり、行かむが、う音便で行かうとなった」のであり、「これは発音の変化を追って、表記の方法が変化した歴史的な事例である」としてゐる(論評はあとでまとめてしたいが、一言だけ。かういふ變化を「音便」とは言はない。あまりにも知識不足である)。

  また、「行かう」といふのは、實際には「イコー」と發音してゐるのであり、「行こお」の方が良いと言ふ意見もあらうが、少なくとも「行かう」と表記するよりも「より合理的である」と、吉川は言つてゐる。ただし、その一方で文學者や作家たちが、歴史的假名遣ひを使ひ續けることに對しては、

「文学こそはその国の言語の発達にいちばん寄与し影響するものであり、文学者がその国の言語のにない手であることは、学者、ジャーナリスト、ないしは文部省の役人以上であるが、それらの人人が旧かなづかいを墨守しているということ、これはたいへん重要な現象といわねばならない」と言つてゐる。

かういふ兩論併記的な論理展開を、學者の世界では「公正で、中立的」と言ふのであらう。そして、大人の態度であると持ち上げるのであらう。しかし、後世の人は、さうは見ない。何といふ知的怠惰であるか、さう見るに違ひない。自分たちの國語のあり方において、これが正しいと言ひ切らない態度は、唾棄すべきものである。聖書にあるやうに「熱いか冷たいか」をはつきりさせるのが、知的誠實といふものである。

  吉川の曖昧さの原因は、その視點の甘さにある。「旧かなづかいを墨守している」彼らが歴史的假名遣ひを使ひ續ける理由を「語感」の問題としてのみ理解してしまつてゐるが、單なる個人的な感性に依據するものととらへるから、國語のあり方にたいして曖昧になるのである。

「『思ふ』を『思う』と書けば、もはや『思ふ』ではなくなるばかりでなく、思考するという意味をいい表わすことばでもなくなるという、そうした感じであろう」と書いてゐるが、確かにかういふ「語感」「感覺」が、保守派の作家にあるのは當然である。福田恆存も同じ考へである。しかしながら、それのみで保守してゐるといふのは、誤解である。決定的な認識不足と言はれてもしかたないだらう。

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言葉の救はれ――宿命の國語244

2008年02月23日 07時24分03秒 | 福田恆存

(承前)

  ローマ字の使用を薦めるといふ點について言へば、そんなものは、これまでの國語の傳統において考へるべきものではなく、單なる技術的な作業なのであるから、それこそ「小さな問題」であらう。例へば、「のり卷」を「norimaki」と書かうが「nolimaki」と書かうが、それはきちんとルールを決めれば良いだけのことで、假名遣ひとは何の關係もない。

  それにたいして、「かなづかい」は、歴史との斷絶を意味する。「行かう」が「行かむ」から出來たのだから、「行こう」になつても良いと吉川は言ふが、それこそ全く論理的ではなく「感情論」より更にひどい「思ひつき論」である。「行かむ」と「行かう」とでは、「行か」は變化してをらず、「む」が「う」といふ助動詞に變化したといふことである。語幹(行)と未然形の活用語尾(か)とは維持され、四段活用といふ活用の種類に變更がなく、連續性を保持してゐる。それにたいして「行こう」は、「行こ」といふこれまでにない五段活用などといふ新たな活用の種類を作り出し、「う」は單にオ列の長音であるにもかかはらず(「現代仮名遣い」本文第一の5)、「う」を助動詞などと口語文法では説明するといふ大きな矛盾を内包してしまふことになつた。

實際にも、「行こう」は「イコオ」と發音する者が大半であらうに、オ列長音であるが故に「行こう」と表記してあるのは、「う」といふ助動詞があるといふ傳統保存の立場からの考へであるのに、それを知つてか知らずか「行こ」の方にだけ注目し、發音通りを印象づけるのは、感情論はおろか思ひつき論でさへもなく、デマである。

吉川といふ人も、ずゐぶんといい加減なことをおつしやるなと驚いてゐる。

次に、吉川幸次郎の論文の④「かなづかい論――一古典学者の発言」(昭和二十六年)についてである。

  最も長文の論文で、吉川のものの中で、「かなづかひ」について唯一まとまつたものであらう。今、私は「まとまつた」といふ言葉を使つたが、これを英語にするとどうなるのだらう。be collectedといふのか、be finished [completed]といふのか分からないが、日本語でも論理的に體系立てられたといふ意味にも、あるいはただ長いだけといふ意味にもなる。さて、ではこの論文はいづれの意味で「まとまつた」なのか――そのことについては私が評價すべきことではなく、以下の要約をお讀みいただいた讀者にしていただければ良いだらう。

  吉川は、もちろん「新かなづかい」の制定には反對する。冒頭に次のやうに記してゐる。

「日本語は発音そのままに表記しうることを、大きな特徴とし、かつそれの表記法の歴史は、この特徴を生かしつつ発展してきたと、観察するからである。」それは「いいかえれば、口頭の言語として発生した言語がいつでも必要に応じて、記載にのぼり得るということであるが、このことは他の言語と比較して見れば、たいへん明瞭である」といふ。

 それにたいして、氏の専門であるシナ語においては、全く事情が異なるといふことが根據になつてゐるやうで、

「中国では、口語の言語は、どんどん新しい言葉を作ってゆく。しかし文字の方は、それをおっかけてふえることができない。したがってその言葉は、記載語にはならないのである。」と書いてゐる。

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言葉の救はれ――宿命の國語243

2008年02月21日 12時39分27秒 | 福田恆存

(承前)

  私たちが戰爭に負けて、アメリカの教育使節團の指導の下、國語政策にかなりの程度の「支配」を受けたことに對しても、日本人はあまり關心を示さない。

しかし、これはやはり異常である。その點御隣りの韓國人は違ふ。國語への愛着は尋常ではない。いやむしろこれが自然なのかもしれない。今も、彼等は私たちを憎んでゐる。私たち日本人から見れば、幼児性丸出しの自己愛にも程があると思はれかねない。しかし、國を失ひ言葉を奪はれた人間の當然の行爲であり、心情であらう。むしろ、さういふ感覺を持たなすぎなのが、私たち日本人なのかもしれない。「お前たちが國語(ウリマル)を奪つた」と怒る韓國人の姿を見て、今の日本の若者なら何のことだか分からず、戸惑ふだらう。それどころか、「エッ、今の韓國語は、以前の韓國語と違ふの?」などとトンチンカンなことを言ふかもしれない。歴史を知らないからである。

  確かに、占領、植民地とはさういふものかもしれない。土地、人間、財産、言葉、そして主權、すべてを失ふことを意味する。しかし、そのことを唯唯諾諾と受け入れるかどうかは、その國の人人の考へである。言葉を失ひ、國語を變へられ、それでも何とも思はないといふのは、私たちの精神の中に、言葉を尊重するといふことがないからである。

私は、この文章の題を「言葉の救はれ」として來たが、それは、さういふ國語を愛する、當り前の心情を失つた人人によつて使はれてゐる言葉を、何とか救ひたい、一刻も早く蘇らせたいといふ思ひからつけたものである。

  こんな状況では、あまりに口惜しいことではないか。福田恆存の國語問題への取り組みも、あまり好きな言葉ではないが、さういふ憂國の情に貫かれてゐることだけは事實である。さういふ一筋の思ひが、私たちの國語を、國を守つてきたといふことは、歴史の本當の姿なのである。

 吉川幸次郎は、歴史的假名遣ひを保守する論は「単なる感情論である」と言つて論難する。そして續けて「さらにまた、今まで使いなれてきたものだからというのなら、懶惰な議論でさえもある。明晰で美しい日本語は、どうしても旧かなづかいでなければ書けない、新かなづかいではだめだという、はっきりした論議がでなければならない」とさへ言ふのである(昭和二十五年「日本語表記法の問題」)。

  どうしてこんなことを言ふのか。吉川の言語(國語)觀をあやしむが、なるほど彼はかう考へてゐるのである。

「かなづかいは、実はいちばん小さな問題である。漢字、ローマ字の問題は、もっともっと大きい。」(同右)

  國語のあり方に、大きな問題と小さな問題とがあるといふ認識も驚きであるが、この場合の問題といふのは、漢字を制限して、ローマ字の使用を薦めるといふことを、アメリカ教育使節團の勸告を受け入れる形で進めるのではなく、自らの主體的な意志に基づいてすべきといふことである。吉川は「小さい問題」と考へたのは、何のことはない、アメリカ教育使節團が歴史的假名遣ひの使用を薦めなかつた、といふことの言ひ換へに過ぎない。吉川自身も、その發言とは裏腹に國語のあり方を自らの意志で決めてゐないといふことの證左である。

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2008年02月20日 11時11分36秒 | 告知

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株価暴落と福田政權の不感症

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政局は民主党の「完敗」だ

  自民党の手のひらの上で踊らされる民主党

        産経新聞客員論説委員 花岡信昭

国史を顧みる

     西洋文明史へのアンチテーゼとして

                   伏見稲荷大社禰宜    黒田秀高

奔流            

ギョーザくらいは手づくりで

  ―中国の猛毒攻撃から守るために―    (花)

コラム

        『福田恆存評論集』出版の意義  (菊)

        空論と正論を考へる  (柴田裕三)

        「女房」としての作法 (星)

        日頃の「毎日」とはえらい違い(蝶)            

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電話076-264-1119    ファックス  076-231-7009

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