言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

「時事評論」6月号

2015年06月22日 10時36分50秒 | 日記
○時事評論の最新號の目次を以下に記します。
どうぞ御關心がありましたら、御購讀ください。
1部200圓、年間では2000圓です。
(いちばん下に、問合はせ先があります。)

                 ●



 6月號が発刊された。
 安保法案についてのことが一面に書かれてゐる。喫緊の課題であると与野党とも認めてゐるのに(共産党は違ふだらうが、しかし彼らも自衛隊廃止とまでは言はない。結構いい加減なのである。「一貫して護憲政党」などといふのは嘘八百だ)、審議を尽くしてゐないと言ふ。しかし戦後七十年、あるいは主権回復後の六十三年、安保について議論してきたはずだ。「何もしない平和」主義者には、「何もしない」が理想なのであつて、「何かする」こと自体がいけないのだから、安保法案を口に「する」こと自体に反対で、さういふ輩と議論を尽くしても何も出てくることはない。何千時間審議しても「それでも反対だ」で終はり。

 困りましたね、である。


 自説以外はダメと言ふ人は決して「信念の人」なのではない。我がままに近い。

 コラム「北潮」はわが郷土の代官「江川坦庵」に触れてゐる。韮山の反射炉が世界遺産に登録されるといふことで話題になつたが、先日帰郷するとやはり賑はつてゐた。明治日本の産業革命遺産といふことらしい。なるほど、さう言はれれば、といふのが地元の気持ちである。洋学者があのやうな田舎に誕生したといふのが面白い。文明の衝突する場所には、やはり逸材が生まれるといふことだらうか。

 今月号と来月号、留守先生のコラム休載。残念。松原正氏の全集、大詰めか。





   ☆    ☆    ☆

安保法案論議に欠けているもの

――相も変わらぬ「平和憲法」を守れの大合唱―― 

   ジャーナリスト 山際澄夫



イスラム過激派その歴史と現状

   イスラム研究家 小滝 透




教育隨想

「自虐史観の横行に歯止め」報道は誤り――歴史教科書を再考する(勝)




橋下劇場7年の功罪

『南木倶楽部全国』代表  南木隆治




コラム


     ベストセラー『家族という病』が教えてくれること(紫)

     「在外日本研究者声明」への対応(石壁)

     学校は市場主義では語れない(星)

     長い物に巻かれる國(騎士)



問ひ合せ

電話076-264-1119
ファックス 076-231-7009
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小野紀明『二十世紀の政治思想』

2015年06月15日 10時58分43秒 | 日記
 政治学の教科書であるらしいが、もつぱら「本当にあるもの」と「そう見えるところのもの」とのついて述べてゐる。ソクラテスから、カント、ニーチェを経て、ハイデガー、ポストモダニズムと筆が及ぶのは、さながら哲学史であり、かういふ政治学といふものがあるのかと驚かされた。

 京都大学の法学部には教へ子も何人かゐるから、感想を聞いてみれば良かつたと後悔してゐる。といふのは、このほど小野先生は退官をされたからである。無味乾燥な法律論にはまつたく関心がないが、この法学博士の講義は面白さうだ。

 前回、このブログで「近代的自我」について記したが、それに引き寄せて、小野先生の文章を引いてみる。

「ポストモダニズムの最大の問題は、それが一切の根拠を、したがって個人が根を下ろすべき土壌を奪ってしまうことにこそある、と私は考える。そこに広がる砂漠を、人間は果たしてよく生き抜くことができるであろうか、人間には、ツァラトゥストラが求める『鷲のつばさと蛇のかしこさを備えた勇気』をもつことが可能であろうか。巷間に瀰漫しているポスト・モダーン的な風潮とは逆に、真のポストモダニズムはきわめて苛酷な生き方をわれわれに要求する。ポストモダニズムを生み出した生感情は、意味を喪失したためにすべてが流動化し、すべてが深淵へと呑みこまれてしまったこの世界への幻滅と、にもかかわらずそこに生きる苦しみに耐えようとする決意である。」

 かういふ告白が、果たして明治以前に書かれることがあるだらうか。この「苦しみ」が「女に惚れて苦しむこと」と同じであるとはとても思へない。
 小野は、この後三島由紀夫の『鏡子の家』を引用するが、そのニヒリズムがまた私には胸痛く感じられた。ニヒリズムに耐へられるほど強くない人間が、それでも生きていくためには、せめて血をながさなければならない。しかも「あくび」をしながらである。ニヒリズムに十分に陥つてゐながら、その自分を信じることができない、さういふ生き方を迫られるのである。

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近代的自我とは何か

2015年06月13日 12時27分17秒 | 日記
近代的自我とは何か、そんな野暮なことを考へてゐる。

キツカケは小谷野敦の『日本文化論のインチキ』を読んだことである。





その中にかうある。

「近代的自我というのは、女を人間として見る男のことか、ということになる。存外、それで間違っていないのだが、そもそも『浮雲』のような、女に振られたこととか、女に惚れて苦しむこととかいうのは、徳川期文藝では描かれなかった。」

となれば、名称はともかく実質的には江戸以前には「近代的自我」があつたといふことになる。なんと馬鹿なと言ふのか、それが直観による印象だ。

近代になつて目覚めた「内面性」=「自我」は西洋との衝突によつて生まれたものだ。漱石が「淋しみ」として表現したのがそれである。それまでの常識が通用せずに、それでゐてそれを足蹴にするほどの新しい何かがあるわけでもなく、もがいて苦しんでゐる人が、ふと見上げた時に示す哀愁こそが「淋しみ」であり、それを感じた主体が「近代的自我」である。
 漱石がその感情を抱いた時の視線の彼方にあつたのが天である、それが私の見方であるが、たとへさうでなくとも、古代人の感情(女に降られて苦しむこと)と同じであるはずはない。もし同じであれば、古代人はすでに漱石の天と出会つてゐたといふことになる。
 では、なぜ古代の文學に『こころ』がないのか。


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