言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

AIについての過剰反応

2016年09月30日 09時14分36秒 | 日記

 自動翻訳機、自動運転、いまAIについての情報が飛び交つてゐる。チェスは以前から、そして今や将棋や囲碁までもコンピュータに負けてしまふやうになつたといふことで、私たちは「焦り」と「恐れ」を抱いてゐる。

 9月14日の産経新聞「正論」で、学習院大学の伊藤元重氏がかう書いてゐた。

「先日、政府のある会議で人工知能(AI)の専門家が『あと10年もすればほぼ完璧な自動翻訳・通訳が可能になる』と発言していた。それだけ、ディープラーニングの手法を活用した人工知能の進歩のスピードは速いのだろう。」

 翻訳とは、単語の置き換へだけで成立するのではなく、「手を焼く」を文字通り英単語に置き換へてもその意味にはならない。なるほど慣用句ならそれを覚えさせればできるが、「柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺」を英訳しても味はひは届かない。そんなことは分かりきつてゐるはずなのに、くだんの「専門家」は「あと10年もすればほぼ完璧な~」と言つてのける。さういふ人は言葉とは何かが実は分かつてゐないのである。すべてをアルゴリズムで説明できるといふのがかういふ人の頭にある言語観である。

 それに対して、9月28日の読売新聞の「論点」では、東京経済大学の西垣通氏はかう書いてゐた。

「外国語の自動翻訳にしても、データベースの中にある訳語について、用例を統計的に分析して、一番確率が高いだろうと推定されるものを出力する。データ量がふえれば確かに精度はあがる、だが、統計というのは本来、集団の傾向を知るためのもので、論理的に正確な解を得られるとは限らないので、注意が肝心だ。(中略)要するに、今のAIとはその程度のものなのだ。機械がものすごく偉くなったという話しではない。AIが感情を持つというのもの間違いだ。」

 

 伊藤氏も西垣氏もそもそも東京大学の先生である。発信力のある方々である。

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モータージャーナリスト 三本和彦といふ人

2016年09月29日 09時01分07秒 | 日記

 

 自動車が好きで、新車情報をネットでほとんど毎日見てゐる。テレビでも自動車についての番組があれば、つい見入つてしまふ。購入意欲をかきたてられるが、もちろん資金には限界があるので、ただ見てゐるだけであるが、見てゐるだけでもいろいろと感じることがある。

  第一に自動車評論家といふ仕事の成否である。書評ならば、出版社から本を受け取らずとも自分で買つて読める。だから、遠慮せずに言ひたいことが書ける(もちろん、その媒体が出版会社と何らかの関係があれば、さうもいくまいが)。しかし、自動車は自分で購入することなどできないから、当然メーカーから提供されたものであり、走る場所、時間も指定されることが多いやうだ。といふことは、メーカーに遠慮せずには物を言へないといふことでもある。

 だから、マユツバが多い。発売当初はべた褒めしてゐたのに、しばらくしてからは酷評になるといふことが多い。たぶんレンタルでもして、自分で好きなだけ乗つたからであらう。メーカーに気兼ねしてずつといいことしか言はない人もゐる。さうなるとこの人の言うことは信じられないなといふ気になる。そんな提灯記事ばかり書くジャーナリストとは、自分自身でどう思つてゐるのだらうか。

 第二に内容の偏りである。「走り」に関心がある人は、「走り」についてばかり書く。乗り心地といふのなら分かるが、「走り」の性能ばかり連呼されても、街乗りしかしないユーザーには必要な情報ではない。馬力やトルクならまだしも、時速100㌔まで○○秒などといふ情報や、コースに出てカーブを曲がるときの感触を熱く語ることなど、私にはどうでもよい。聴きたくなければ聴かなければよいのであるが、それ以外になくただ「いいのり味ですね」といふだけだから困るのである。デザイン性、居住性、使ひ勝手、収納の多寡、後席の座り心地、長距離運転での疲労感などなど、通常使用での「情報」こそ知らせてほしい。もちろん、その人の観点といふのがあるから、それが「真実」でなくてもよい。感じたままに書いたり言つたりしてくれればいい。写真や映像が同時にあるのだから、読者はそれらと合はせて自分で考へる。

 

 そんな思ひを抱きつつ、この方の「評論」は信じられるなといふのが三本和彦氏である。テレビ神奈川で以前「新車情報」といふ番組をされてゐたのを、東京に住んでゐた頃に見て、じつに面白いと思つた。1931年生まれであるから、現在85歳。もうテレビにも出ないし、執筆もされてゐないのではないか(されてゐたらごめんなさい)。

 この方は遠慮がない。メーカーの開発者にもずけずけ物を言ふ。それがいい。開発者も嫌な顔をすることもあるが、一目置いてゐる感じがあつた。それは三本氏の人柄とそれを言へるだけの取材があるからである。

 こんなことがあつた。トヨタの初代セルシオの開発者との対談である。「何も新しいものはありません。それでゐて最高の高級車を作つたんだからすごい。ベンツもBMWもびつくりですね。鈴木さん(開発責任者)はどういふところに気を使はれたのですか」

「とにかく精度にこだはりました。」

(言葉はこの通りではありません。私の記憶によります)

 従来の技術の精度を上げることで、それまでにない「最新」で「最高」の車を仕上げたといふ開発の「秘訣」をうまく引き出した。これを聴いてなるほどと思つた。しかも「この車には新しい技術は何もない」と言ひ切つてゐる。「えっ、そんなこと言つていいの」といふ切り込みである。その上でかういふ言葉を開発者から聴き出すのだから素晴らしい。これは車のことを語つてゐやうでゐて、生きる秘訣を語つてゐるやうに感じた。

 今の自動車評論家でこんな話を聴ける人は、ゐない。技術のことは詳しいし、感想の言葉もうまい。しかし、そこにはあまり魅力がない。この人ならどう解説してくれるだらうと感じさせる人が乏しい。三本さんがいつまでもゐてくれれば嬉しいが、それは無理である。でも三本さんの「新車情報」をいつまでも聴いてゐたい。

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藤井聡『プラグマティズムの作法』を読んで

2016年09月28日 08時52分26秒 | 日記

 藤井聡氏と「プラグマティズム」といふのはつながらないなと思つて手にしたが、なるほど氏はプラグマティズムの体現者(少なくともそれを目指さうとしてゐる人)であつた。

  藤井氏が一躍有名になつたのは、3.11直後に「列島強靭化」を標榜し参議院予算委員会で3月23日に公表して、それをネットで全国に配信したことによる。

 京都大学土木工学科を卒業し、都市工学、経済学、心理学を研究し続けてゐる。イラチな感じはするものの、じつに誠実で真剣で真理だと思ふものには謙虚に振舞ふ姿勢は見てゐて気持ちよい。信頼できる文筆家=行動家である。

 さて、その方のこの本は新著ではない。2012年に出版されたものである。たまたま見た動画でこの本の出版記念イベントを見て、そこでの話が面白かつたからである。

 第一章から第四章までが特に面白い。閉塞感漂ふ組織や国家において、どこからどういふ手順で手直しをしていけばいいのかを考へるには最高の書である。知的にも、行動的にも刺戟的である。プラグマティズムといふと、その「道具主義」といふ翻訳によつて、いかにも二流の哲学であると思ひ込んでしまつてゐたが、それは誤解であることが十二分に知らされた。「道具」ならちゃんと手入れして整備しておくのが職人の作法である。道具としての正しい使ひ方を知らずに、道具なんて単なる手段にすぎないと言つては道具も生きてこない。

 プラグマティズムの作法とは、

「一つに、何事に取り組むにしても、その取り組みには一体どういう目的があるのかをいつも見失わないようにする。

 二つに、その目的が、お天道様に対して恥ずかしくないものなのかどうかを、常に問い続けるようにする。」

だと言ふ。この二つの作法に基づいて、さまざまな問題に処方箋を示していく。それが痛快であり、心が躍動してくる。とても力のある言説である。第四章の例話はとても説得的である。読んでみてほしい。

 社会学者マートンの「目的の転移」、ヴィトゲンシュタインの「生きるとは恐ろしいほど真剣なことなのだ」といふ言葉に出会はせてくれただけで、私には十分によい本である。

 

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吉田修一『路(ルウ)』を読んで

2016年09月27日 11時31分08秒 | 日記

  言ふまでもなく芥川賞は新人賞である。だから、そのまま消えていく作家もあれば、その後も小説を書き続けることができ大家となつて残る作家もゐる。

 大岡信の息子の玲も、大鶴義丹の父親の唐十郎も、モブノリオも三浦清宏も書かなくなつた。一方、中上健二、村上龍、丸谷才一、辻原登などは、大家と言つてよいほどの活躍を見せた(見せてゐる)。

 吉田修一は、2002年に受賞してゐる。受賞作『パークライフ』はなんといふこともない小説だが、読みやすい小説だつた。人物が絡み合ひながら、一つの舞台を作り上げてゐるといふ印象を、自然に抱かせてくれるといふのは、それだけで小説としては優れてゐるのだと思ふ。思想も語らず、文章も見せつけるとこがなく、じつにあつさりとしてゐて、時に重厚なテーマを滲ませてゐる。さういふ作風はとても大事なものだと思ふ。

 今、上映されてゐる『怒り』も心をザハツカセルところがあつて、評価するにはためらひもないわけではないが、私の好悪の感情とは別に優れた作品であることは多くの人が認めるところであらう。

 そして、この『路(ルウー)』は、台湾新幹線を作る日本人と台湾人との小説である。物(システムも含めて)を作るといふことに関はる人々の、ある人は出会ひ、ある人は別れ、あるところには誕生が、あるところには死が訪れるといふ話である。新幹線完成に至るまでのぎりぎりの日程的戦ひを縦軸に、さまざまな個人、家庭がそれにからみながら、一つの結論に収斂していく書きぶりは手練のものであるが、いやみはない。技で書いてゐる印象はあるが、ぎりぎりのところで味はひが優つてゐる。

 いつもながら読後感がいい。切ない思ひを抱くのは作者の心の柔らかさに由来するものであらうか。この方は長編作家である。いい作品を書き続けてほしい。

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E.T.A.ホフマンについて

2016年09月26日 14時21分24秒 | 日記

 今月号の『時事評論』の「この世が舞台」で取り上げられてゐたのが、ホフマンの「隅の窓」である。ホフマンといふ人物はチャイコフスキーの「くるみ割り人形」の原作にあたる『くるみ割り人形とねずみの王様』の作者と言へば、「ああなるほどね」と思はれるかもしれないが、あまり読まれる方もゐないであらう。

  「隅の窓」は、岩波文庫の『ホフマン短篇集』に収録されてゐるが、恥づかしながら私は読んだことがない。老いを感じて生きてゐる「私」の従兄が、わづかに社会に接することができるのは、窓から見る広場の景色である。「人間観察」が作家にとつては重要な仕事であるが、ホフマンの文学にとつて「鋭い自己観察」こそが重要であつた。その象形がこの従兄になつたのであらう。この作品を後述した二ヵ月後、ホフマンは亡くなる。

 未読であるが読んでみたいと思つた。

 「広場」といふことでは、ポール・フライシュマンの『種をまく人』があつた。ゴミ捨て場であつた広場に、一人の少女がライマメを植えそれが育ち人々の憩ひの場になつていくといふ話。おばあさんが、その広場を見つめてゐた。人間模様の観察は、ホフマンとは違ふだらうが、これもいい小説であつた。

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