自動車が好きで、新車情報をネットでほとんど毎日見てゐる。テレビでも自動車についての番組があれば、つい見入つてしまふ。購入意欲をかきたてられるが、もちろん資金には限界があるので、ただ見てゐるだけであるが、見てゐるだけでもいろいろと感じることがある。
第一に自動車評論家といふ仕事の成否である。書評ならば、出版社から本を受け取らずとも自分で買つて読める。だから、遠慮せずに言ひたいことが書ける(もちろん、その媒体が出版会社と何らかの関係があれば、さうもいくまいが)。しかし、自動車は自分で購入することなどできないから、当然メーカーから提供されたものであり、走る場所、時間も指定されることが多いやうだ。といふことは、メーカーに遠慮せずには物を言へないといふことでもある。
だから、マユツバが多い。発売当初はべた褒めしてゐたのに、しばらくしてからは酷評になるといふことが多い。たぶんレンタルでもして、自分で好きなだけ乗つたからであらう。メーカーに気兼ねしてずつといいことしか言はない人もゐる。さうなるとこの人の言うことは信じられないなといふ気になる。そんな提灯記事ばかり書くジャーナリストとは、自分自身でどう思つてゐるのだらうか。
第二に内容の偏りである。「走り」に関心がある人は、「走り」についてばかり書く。乗り心地といふのなら分かるが、「走り」の性能ばかり連呼されても、街乗りしかしないユーザーには必要な情報ではない。馬力やトルクならまだしも、時速100㌔まで○○秒などといふ情報や、コースに出てカーブを曲がるときの感触を熱く語ることなど、私にはどうでもよい。聴きたくなければ聴かなければよいのであるが、それ以外になくただ「いいのり味ですね」といふだけだから困るのである。デザイン性、居住性、使ひ勝手、収納の多寡、後席の座り心地、長距離運転での疲労感などなど、通常使用での「情報」こそ知らせてほしい。もちろん、その人の観点といふのがあるから、それが「真実」でなくてもよい。感じたままに書いたり言つたりしてくれればいい。写真や映像が同時にあるのだから、読者はそれらと合はせて自分で考へる。
そんな思ひを抱きつつ、この方の「評論」は信じられるなといふのが三本和彦氏である。テレビ神奈川で以前「新車情報」といふ番組をされてゐたのを、東京に住んでゐた頃に見て、じつに面白いと思つた。1931年生まれであるから、現在85歳。もうテレビにも出ないし、執筆もされてゐないのではないか(されてゐたらごめんなさい)。
この方は遠慮がない。メーカーの開発者にもずけずけ物を言ふ。それがいい。開発者も嫌な顔をすることもあるが、一目置いてゐる感じがあつた。それは三本氏の人柄とそれを言へるだけの取材があるからである。
こんなことがあつた。トヨタの初代セルシオの開発者との対談である。「何も新しいものはありません。それでゐて最高の高級車を作つたんだからすごい。ベンツもBMWもびつくりですね。鈴木さん(開発責任者)はどういふところに気を使はれたのですか」
「とにかく精度にこだはりました。」
(言葉はこの通りではありません。私の記憶によります)
従来の技術の精度を上げることで、それまでにない「最新」で「最高」の車を仕上げたといふ開発の「秘訣」をうまく引き出した。これを聴いてなるほどと思つた。しかも「この車には新しい技術は何もない」と言ひ切つてゐる。「えっ、そんなこと言つていいの」といふ切り込みである。その上でかういふ言葉を開発者から聴き出すのだから素晴らしい。これは車のことを語つてゐやうでゐて、生きる秘訣を語つてゐるやうに感じた。
今の自動車評論家でこんな話を聴ける人は、ゐない。技術のことは詳しいし、感想の言葉もうまい。しかし、そこにはあまり魅力がない。この人ならどう解説してくれるだらうと感じさせる人が乏しい。三本さんがいつまでもゐてくれれば嬉しいが、それは無理である。でも三本さんの「新車情報」をいつまでも聴いてゐたい。