新潮社のPR誌『波』の最新号が届いた。巻頭、佐藤優と東大教授の加藤陽子との対談が載つてゐた。私の読書生活にはまつたく影響を与へない二人であるが、灘校生への講義といふことだつたので読んでみた。
今、世界が帝国主義化してゐるといふ時代認識で話ができあがつてゐるといふ。もうこの時点で付いていけない(ついていく気もないのだが)。さういふ兆候もあるだらう。しかし、かういふ世界認識からどういふ知識や能力を獲得していけばいいのかといふことが導かれるとすれば、それは大きな間違ひである。いつも書いてゐるやうに、中等教育といふのは何かの手段になるものではなく、それ自体が目的でなければならない。帝国主義化の当否にも問題はあるが、それ以上に中等教育がさういふ世界観に役立つやうにあるべきだといふ認識が的外れなのである。もちろん、中等教育全体のありやうとして論じたものではないといふ弁解も可能である。しかし、やはり教育には普遍といふものがあるのであつて、中等教育の普遍は、教育内容が何かの手段になつてはいけないといふことである。
それから、このお二人は、現政権について「反知性主義」とレッテルを貼つてゐる。しかし、この言葉の誤用ももうそろそろ修正される必要がある。今年の東京大学の国語の入試問題の大問🈩評論の文章にも、まさしくこの「反知性主義」を論じた内田樹の文章が取り上げられてゐた。知性を駆使して相手に説明し続ける態度の真逆のものとして内田は反知性主義を理解してゐる。しかし、反知性主義といふのは、先日本欄でも取り上げた先崎の著書『違和感の正体』がきちんと定義してゐたやうに、「知性主義の独断を不断にチェックする」といふのが反知性主義の本質である。知性への冒涜が反知性主義の特徴なのではなく、知性は弾力性を失ひイデオロギーとなりやすいからそれを自省しようとすることを特徴とするのである。もし現政権を批判するのに「反知性主義」を使ふとすれば、じつは褒めてゐることになる。私はそれでも一向にかまはないが、それで佐藤や加藤や内田はいいのであらうか。
佐藤の言動に私は信を置いてゐない。だから氏の本を読まないから一つ一つ引用して批判することはできないが、今見たやうな片言隻句でさへいい加減な言葉遣ひなのである。さういふ人に高校生が学ぶ機会を作るとは大人は何をしてゐたのかと思ふ。誰か止めてやれなかつたのか。
灘校生に足りないのも、反知性主義である。佐藤や加藤や内田に足りないのも、それである。簡単に信じすぎである。知性の魔力を恐れよ。