一橋大学准教授の安田敏朗氏の新著『漢字廃止の思想史』についてである。
大部なもので549ページもある。かういふ書物が、しかも平凡社といふ大手の出版社から出るといふことが驚きである。研究費で実費は出すから、まづは出版をといふことであるのかもしれないが、出版不況といふ巷間言はれてゐることと、かういふ専門書が出るといふことがどう両立するのか、とても興味深い。もつとも、その背景を論じようといふ気までは起きませんが(いい加減なものです)。
購入したまま私は結局読みませんでしたが、『民主と愛国』といふこれまた大部の著者小熊英二氏にしても、どういふ経緯でああいふ本が出るのか不思議でなりません。
図書館が買ふ。学生に教科書として買はせる。一部の研究者仲間の評判が高まり、知らない大学院生たちがさうと知らずに買ふ。さういふことなのかもしれない。
となれば、ほんたうに「読むべき本」といふのがますます分からなくなる。リテラシーを磨くことが必要になるが、読むべき本が分からないのに、本の洪水に放たれた市民にリエラシーを磨けといふのはずいぶん酷なことである。本来、その役割を出版社の編集者なり、新聞雑誌の書評家なりが担ふべきだが、先日も取り上げた山口謡司氏の『日本語を作った男』を各誌紙の書評家が絶賛するといふ体たらくは、その機能がマヒしてゐるとしか思へない。
さて、今回の書であるが、私は未読であるし、読むこともない。ただ出版に際して新聞社が行つた安田氏へのインタビュー記事にたいする異論である。しかし、かういふ認識で書かれた近代国語史に誠実なものを期待できるはずもない。まあ、次の言葉を一読してみてください。
「漢字について、能率ばかりを強調した議論は良くない。でも、日本に住む外国人が増えることへの対応や、識字障害をはじめ『漢字弱者』への視線などの時代の要求も考える必要があります。」
いつたい国語とは誰のための言葉なのだらうか。日本に住む人のためのものであらう。外国人が5割を超えたなら、それは仕方あるまい。今の状況で「漢字弱者」のために漢字を制限せよ、廃止せよといふことを考へるのは、過剰反応である。「時代の要求」とは、あまりに不適切である。時代に要求したり遠慮したりする意志はない。あるのは住んでゐる人の思ひとそれを作り上げた過去の人々の思ひである。閉鎖社会を造り出す必要はないが、かといつて「漢字弱者」とレッテルを張り、外国人の漢字習得を求めないのは異常である。できない人には、その対策を考へれば良いのであつて、国語の体系を壊す必要はさらさらない。
次にはこんなことも話してゐた。
「かつての人間は文字を使わず生活し、近代化後も人々は自由に文字を使ってきた。過度に漢字と伝統を結びつけるのは違和感がある。」
これは笑ひ話かといふほどの発言である。「かつての人間は文字を使わずに生活し」てゐたことを基準とするなら、「かつての人間は電気を使わずに生活し」、「かつての人間は自動車を使わずに生活し」、「かつての人間は本を讀まずに生活し」、「かつての日本人は外国語を使わずに生活し」てゐたことも基準になるのか。いくら「過度に漢字と伝統を結びつけるな」が主旨であるとしても、根拠となる例がひどすぎる。
そもそも漢字廃止の思想史をさぐつて何が言ひたいのだらうか。能率優先が問題で漢字を減らして仮名だけにせよといふかつての議論も、今日外国人が国内に増えて来たので漢字を減らせといふのも思想史と言へるものなのか。思想がないから、さういふ偏見が一定の力を持つに至つたのではないか。それが証拠に、前者はワープロといふ技術が解決してしまつた。そしていづれ後者も新たな技術が解決する。つまり、それは思想の問題ではないといふことである。したがつて私の結論は、漢字廃止の思想欠如史といふことでなければ、この種の研究書を国立大学の先生が研究費で出版するといふことが問題だといふことである。
人文社会学への軽視は、案外かういふことの連続が生み出した鬼子であると感じるのである。