言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

言葉の救はれ――宿命の國語26

2005年07月26日 20時47分22秒 | 日記・エッセイ・コラム
三 言葉に「當用」があるのか
 
 今囘から、新しい節に入る。

 私たちの近代は、傳統とのあひだに多くの斷絶を招いてきた。文化や生活のスタイル、家族や集團のあり方、國家の根本規範としての憲法、そしてそれらすべてを支へ、私たち人間そのものを作つてゐる「言葉」も過去との斷絶を迫られた。假名遣ひの改革といふものもさういふ文脈のなかで考へるべきものである。言語は道具だ、だから使ひやすいやうに變へるといふのは、文化といふものを一度も考へた事のない人の物言ひである。
 過去との斷絶の契機になつたものは明治維新でもあらうし、國内においては明治十年の西南戦争、そして對外的に起きた同三十七年の日露戰爭もその斷絶の契機であつたらう。あるいは、福田恆存が言ふやうに關東大震災もさうであらう。
しかし、それと共に大きな斷絶をもたらせたのは、やはり大東亞戰爭後の戰後處理であらう。
 六十年前より始る戰後處理は、紛れもない大斷絶であつた。そして、この斷絶がより深刻なのは、それ以前の時とは違ひ、餘儀のないものとして取つた行動ではなく、半ば進んで迎ひ入れた選擇であつた。
 確かに戰爭には負けた。アメリカに負けた。しかし、それはアメリカの軍事力いや正確に言へば、アメリカの經濟力に負けたのであつて、トータルなアメリカに負けたのではない。植民地獲得といふ帝國主義の段階にあつたのは、アメリカも日本も同じである。したがつてアメリカの民主主義とやらも軍國主義を制禦するものではなかつた。さうであれば、アメリカの民主主義に負けたといふのは、進んで迎へ入れた誤解である。
 しかし、私たちは簡單にトータルなアメリカに屈伏し、「Give me chocolate」などと言つてしまつたのである。なるほど、それは子供の言ひ種であつて、マッカーサーに「十二歳」と喝破されてしまつた次第である。
 昨日まで敵國として戰つてゐた相手にすぐに媚びるのは、「餘儀のないものとして取つた行動」であるはずはない。自ら負けたがつてゐたのである、さう結論附けて良いだらう。
 よくぞ、アメリカ軍よやつてくれたといふ思ひがあつたからこそ、戰後政策を戰前との斷絶といふ方向で邁進させることができたのであらう。
 負けたのは、どうやら精神なのかもしれない。
 精神主義が戰前日本の特徴のやうに言はれるが、實は觀念的であつたといふのが眞實に近いと思ふ。阿川弘之氏が指摘するやうな國のために死ぬことをあまりに強調する國家主義と、戰後のきはめて輕薄な個人の生命至上主義とが踵を接して存在するのは、いづれも精神の發露のものではないからである。衣裳を取り替へるやうに主義を變へられるのは、そこに自立した主體がゐないからである。
 もちろん、かうしたことが「近代」といふことなのかもしれない。黒船によつて開國を迫られ、幕府が大政奉還する形で始まつた近代化は、いつでもなし崩しであり、漱石言ふやうに「外發的」にならざるを得ないといふ側面はある。
 いさささ我田引水に言へば、日本の精神史として近代の文學史をみると、このことははつきりとした形で理解することが可能である。


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私は馬鹿であるか。

2005年07月25日 22時43分06秒 | 日記・エッセイ・コラム
 松原正先生のことについて觸れた2ちゃんねるのスレッドに、「前田は馬鹿だ」といふことが書かれてゐた。好きな批評家に西部西尾兩氏と松原氏とが併記されてゐるからである。
 結論を言へば、私は馬鹿だ。西部西尾兩氏を批判する松原氏のいづれをも好きな批評家として擧げるのが「馬鹿」といふのなら、正眞正銘私は馬鹿である。私のプロフィールを變更する必要を感じないからである。これは開き直りでもない。
 では、いつたいなぜその三者を私は好むのか、じつはそれを探るなかで、私の批評が深まると思つてゐるからである。
 西部氏に對しては、ずゐぶん論つたが、それだけ私はよく氏の文章を讀んだからである。文體の影響も受けた。直接話をする機會も何度かあつた。好きなのである。でもをかしいなといふ思ひもある。
 松原氏の文章もよく讀んだ。これまた直接話をする機會も何度もあつた。でも違和感もある。細部の叮嚀さが本當に全體の價値を高めるのか、あるいは逆に細部の杜撰さが全體の價値を下げるのか、疑問がある。
 兩者にたいするアンビヴァレントを未だうまく説明できてゐない。それは私の怠慢かもしれないし、思考の不徹底といふ意味で馬鹿だからかもしれない。しかし、さう簡單に結論を出せるものでもないとも思つてゐる。
 したがつて、今の私は馬鹿である。いつの日か馬鹿でなくなるかもしれないが、たぶん當分馬鹿のままであらう。

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言葉の救はれ――宿命の國語25

2005年07月13日 21時18分52秒 | 日記・エッセイ・コラム
 古人が使つてゐるといふ根據だけでは納得しかねるといふ人のために、次の文章を引用しておく。

 たしかに、戰後の日本では、いはゆる新仮名づかひが正式の表記法とされて今に至つてゐる。その「正式」にさからふからには、何かそれなりの理屈があつてしかるべきだ、といふことにならう。しかし、本当のところ、釈明をもとめられるべきは、なぜ新仮名づかひを正式の表記としたのか、といふことの方であつて、もしそれが、ただ単に<より簡便である>といふだけのことであれば――そして、それ以上の理由づけを私は聞いたことがない――それはまことに浅はかな変更であつたと言ふほかはない。
               長谷川三千子『バベルの謎』

 あるいはまた、かういふ一文をみるとき、國語を守るとは、どれだけ大切なことであるかが分かる。松原正氏は、自衞官への激勵と邦人の防衞意識の缺如を突いて、次のやうに記してゐる。

 我々の文化は、我々の日本語は、今ここに生きてゐる我々だけのものではない。我々は皆、最初は母親から日本語を學んだ。母親は祖母から學んで、祖母は曾祖母から學んだ。(中略)私はこれまでに何囘も、古めかしい漢字と假名遣にこだはるのは賢明でないと自衞官に言はれた事がある。なぜ私が「古めかしい漢字と假名遣」にこだはるか、それが正しいからである。なぜ正しいか。先祖がそれを用ゐて來たからだ。人は言葉によつて物を考へ、正と不正を辨別する。だが、その言葉は母の言葉であつて、生れながらにして私が知つてゐたのではない。母は私に正字正假名を教へ、「教へる」と書けと教へて「教える」と書けとは言はなかつた。母乳の品質を吟味する事無く受容した私が、なぜ母の教へだけは吟味しなければならないか。古い假名遣を守るのは祖母や母の流儀を守る事だが、それはそのはうが「賢明」だからではない。「最後の手段」として文化を守る軍人に、さういふ事が理解出來ないやうでは困る。正しくない假名遣を許容する者は、軍隊を虚假にする不正をも許容するであらう。自國の文化を守るべく「最後の理性」に訴へねばならぬ武人が、「賢明」に振舞つて何とか軍隊として認知されたいと願つて虚しかつた自衞隊が、文人の「賢明」ならざる意地とその虚しさを理解出來ない筈は無い。
    松原正『我々だけの自衞隊』

 もちろん、ここには註が必要だ。母が、歴史的假名遣ひを使つてゐたから子も使ふといふのでは、私のやうに親も使つてゐなければ、使はなくても良いといふことになるからだ。さうではなく、松原氏の主眼は「それが正しいから使ふ」といふことになる。
 何らかの理由でその正しい假名遣ひが使用されなくなつたと言ふことは、歴史に斷絶があるといふことである。


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言葉の救はれ――宿命の國語24

2005年07月11日 22時02分48秒 | 日記・エッセイ・コラム
 そして、かういふ熱情をもつて、國語に愛着を示す文章を見るとき、何が大事なことかは自づから明らかであらう。

 今後、私の仕事がどういふ方向に進むにせよ、私の目の黒いうちは、國語問題目附役の仕事だけは手放さない。私が自ら「私の仕事」と稱するものに全く無關心な人も、また政治的發言にしか興味を懷かぬ人も、せめて國語問題についてだけは私に附合つて戴きたい。明治以來、日本の近代化の過程において、僅かに吾々の手に殘された日本固有のものと言
へば、日本の自然と歴史と、そして、この國語しか無いのである。
                       福田恆存評論集7「後書」

 近代化とは西洋化のことであり、明治以來、日本を含めて「遲れた國々」は、どこも自國の文化を捨てて、西洋化への道を邁進した。國民國家の成立、貧困からの脱出、國民衞生の向上、個人の發見などを伴ふモダライゼイションといふものの力は、過去の文化を破壞しつくほどに激しくてしたたかであり、世界を變へてしまつた。その道は、決して惡いものではなかつたけれども、もう少し愼重であつてもよかつたであらう。これはもちろん後の祭りで、いや後知惠で、當事者でないものののんきな放言にすぎない。深刻さのない好い気なものである。
 しかし、それでも、いやそれだからこそ今更ながら、失つたものを取り戻さうと思ふのである。
 「僅かに吾々の手に殘された日本固有のものと言へば、日本の自然と歴史と、そして、この國語しか無いのである」とあるについては、感傷的かもしれないが、涙を流してしか讀めない言葉である。國語への愛着は、日本への愛着であり、それは觀念ではない、裸足で歩いたあの大地への感觸に由來しよう。ごつごつしてゐるし、雨が降ればぬかるんで足下を汚すが、雨が降りはじめたときのあの土のかをりは忘れられない。
 ノスタルジーといつて片附けられる問題はない。近代化の行過ぎが、自然環境を破壞してきたのであり、その環境保護の動きをノスタルジーとは言ふまい。だとしたら、國語の破壞への警鐘もまた、單なる郷愁であるはずはない。
 裸足で歩かなくなつた大人達が、そのアスファルトの路面を、我が國土と錯覺してゐるやうに、利便性といふローラーにならされた「現代仮名遣い」を國語と錯覺してしまつてゐるのだ。道路は必要だ、しかし大地はそれに比較できようか。國語の大地は、いまや「利便性」に破壞され盡くされてゐる。「通じればよい」の精神は、いつの間にか「解つてほしい人だけに解ればよい」に墮落する。國語は私語になるとは、さういふ意味である。
 ここで、もう一遍近代化を見直さう。「通じればよい」といふ能率性、合理性、そして現代人の視點のみでの判斷、それらを總じての「近代主義」への再考である。人間が言葉を使ふのではなく、言葉によつて人間が誕生する、といふのが本當であらう。人間中心主義への批判である。
 近代化、この痛恨事への葬送、それをどう始末するか。私が、この國語問題へ執する理由も、どうもそのあたりにあるやうな氣がするのだ。



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言葉の救はれ――宿命の國語23

2005年07月09日 20時41分57秒 | 日記・エッセイ・コラム
 私は、七年ほど前から、私自身の名前を記す文章は歴史的假名遣ひで書くやうにした。以前から歴史的假名遣ひに愛着を感じてをり、何度か書かうと試みたこともある。しかし、讀むことはできても、なかなか書くところまでは行かなかつた。それは技術的なことといふよりも、戰前生まれでもなく、學校で歴史的假名遣ひを學んだわけでもない私が書くことへのためらひである。だから、まづはそろりと私信において使つてみて、しだいに「文章」もそれで書くやうにした。今では、授業中の黒板にもついうつかり書いてしまふほどなじんでゐる。
 なぜ、歴史的假名遣ひを用ゐるやうになつたのか。それは簡單である。どう考へても現代人の發音にしか根據のない「現代かなづかい」で書くことにたいする抵抗が年を追つて強くなり、つひに使ふことを辭めたいと思ふやうになつたからである。「現代かなづかい」の理念からは、「あなたわ、そーあゆわなかった」と書くことを否定することができない。それにもかかはらず、「あなたは、そうはいわなかった」と表記する根據は何なのか。そして「あなたは、さうはいはなかつた」を間違ひとする根據はどこにあるのだらうか。
 そんなことを考へると、歴史的假名遣ひの正統性に心ひかれていくのである。
 今では、中學生に讀ませる文章にも、歴史的假名遣ひを使つてゐる。生徒や保護者からは、「困る」といふ文句は一向に出てこない。もともと讀むのに困るほど、難しいものではないのだから當然のことである。しかし、新聞をはじめとするマスコミや出版社は、何故か自主規制して「現代かなづかい」を使つてゐる。本来最も文字を尊重すべき文學の世界においてさへ、「自主規制」が行はれてゐるのであるから。
 戰後に出た「文學全集」は、それが個人全集であつても原文どほりではなく「現代かなづかい」を使ふものが多かつた。今ではそんなことはなくなつたが、もつとも今では「文學全集」自體が流行らなくなつてしまつたが。文庫は、いまでも原文を無視してゐる。しかし、それは本當にその人の作品と言へるだらうか。漱石や鴎外を「現代かなづかい」で讀んで、彼等を知つたやうに思つてしまふのは、何ともやりきれない思ひがする。
 假名遣ひは、單なる表記の手段ではない。それは日本人がどのやうに言葉を考へ、どのやうに言葉を使つてきたかといふ言葉の作法である。作法には約束がある。その約束を無視して、「發音」といふ現象を基準にした表現方法に還元するといふことは、作品をも台無しにすることであらう。

 契冲も、宣長も、漱石も、鴎外も、そして正宗白鳥も小林秀雄も福田恆存も使つてゐる。敬する人々が使つてゐる言葉遣ひの方が、現代人の發音を唯一の根據としたものよりも信頼できるから、私は使ふ。それで良いだらう。私がなぜ歴史的假名遣ひを使ふのか、さういふ質問には、これで答へた。



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