言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

『プロタゴラス』を読む

2020年09月13日 16時36分15秒 | 本と雑誌

 

 

 高校時代の倫理社会の授業で、ソクラテスはソフィストにたいして問答を挑み、彼我の差を「無知の知の有無」としてとらへたといふやうな話を聞いた。確か『饗宴』だつたと思ふが、それが課題図書になり読まされた。もちろん、まつたく覚えてゐない。

 以来、ソクラテスには関心を持ちプラトンへも関心は広がつたが、その相手たるソフィストといふのは始めから分かり切つた存在として関心の外にあつた。もちろん、プラトンの問答にはソフィストが出てくるのだが、それは個別の誰々であり、「ソフィスト」といふ形には縁取られなかつた。ところが、この『プロタゴラス』を読んで、なるほどソフィストとはかういふ人のことを言ふのかと合点することができた。

 なかなかの知識人である。むしろ、ソクラテスつて嫌な奴だなと思はせるやうな「大人」である。

 話題の中心は「徳は教へられるか」といふことだ。ソクラテスはそれは知識に還元されるから教へられると述べ、プロタゴラスは教へられないと説く。この一冊だけでその決着がつけられるわけもなく、最後は時間切れで両者その場を去つて終はるのだが、ていねいにていねいに説明を施すプロタゴラスに共感することが多かつた。解説によれば、当然ながら真の知や真の徳とを明らかにしていく立場のソクラテス=プラトンの優位性が示されてゐるといふことなのだが、私にはあまりよく分からなかつた。一度読んで分かるわけはないとは思ふが、さて二回目が来るかどうかも分からない。しかし、たつぷりと付箋をつけておいたので、二度目はそこの解釈を巡つて自分の成長を確かめることができるかもしれない。

 それにしても今から2400年も前に、これだけの問答を交はす人間がゐたといふことは、全く驚きである。

 

 秋を感じるベランダで読んだ。間もなく雨が降りさうなので、読み終はつたところで家の中に入り、これを書いてゐる。

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日本にはキリスト教は伝はつてゐない その2

2020年09月08日 13時25分27秒 | 評論・評伝

 キリスト教には、南蛮と北蛮とがあると前回書いたが、正教もあるといふことを完全に失念してゐた。ずゐぶん迂闊であつた。最近私はネオ高等遊民といふ方のYouTubeを見ることがある。そこで先日見たのが現代ギリシャ哲学や思想史を専門とする福田耕佑氏との対談である。その中でビザンツ文化のことに触れてゐた。

 ギリシャの哲学は古代ギリシャ以来見るべきものはあるかないかといふ面白い疑問をネオ高等遊民氏が尋ね、それにたいして福田氏が答へてゐる。アリステレスはすつかり忘れられてゐたが、18世紀になつてイタリアの大学にギリシャ人が大挙して留学するやうになつて、アリストテレスの思想を再発見したのだと言ふ。プラトン主義や新プラトン主義は受け継がれてゐたのにである。

 翻つて、私たちの受け継いだ近代思想を考へると、その出自は西欧中心であつたので、プラトンもアリストテレスも含まれてゐた。しかしながら、ビザンツ文化なかんづく正教はすつぽりと落ちてゐる。

 それで福田氏にネオコツ等遊民氏が求めた、入門書が『ビザンティン神学』であつた。ちよつと手が出せないがかういふ書があり、私たちに伝はつてゐないキリスト教を知るには有効である。

 

 

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日本にはキリスト教は伝はつてゐない。

2020年09月06日 09時52分41秒 | 評論・評伝

 

 

 

 

 

 かつて中央公論社(現中央公論新社)から『世界の名著』といふシリーズが出てゐた。いまはその一部が中公クラシックスといふシリーズで復刊されてゐるが、前者と後者との間に大きな違ひがある。それは何か。前者にあつた付録が後者にはないことだ。

 当たり前のことであるが、この差は非常に大きい。

 今読まうと手にしてゐるのが『アウグスティヌス』であるが、その巻の付録にはこの巻の編集責任者である山田晶と作家の遠藤周作との対談がある。これが滅法面白い。

 それが標題に書いた、日本にはキリスト教は伝はつてゐないのではないかといふ疑問である。

 要約すると、次のやうになる。山田の発言。

 「キリスト教受容期は二回。一回目は、キリシタン時代。宗教改革期のカトリックが日本には入つて来たが、そこには近代思想的な流れが一切含まれてゐない。植民政策を背景にして、入信すれば火薬を渡すといふやうなしかたで入つてきた。パウロのやうなしかたでキリスト教が入つてゐれば違つたものになつたのでは。また、その当時の神父は極めて論争的で、大日如来とゼウスがどう違ふかなどと折伏的な態度であつた。教父たちもアウグスティヌスももつと謙虚であつた。当時の神父たちが謙虚に親鸞の思想を知れば、キリスト教と近いと分かつたはず。態度が悪い。

 二回目は明治以後。キリシタン時代が南蛮だとすれば、今回は北蛮。彼らが持つて来たのは、南蛮のキリスト教への敵意。」

 遠藤も「さうか、まだ日本にはキリスト教ははいっていないわけか。」と同意する。

 

 私の卒論は「明治期のキリスト教の移入について―内村鑑三を中心として」で、信者数100万人を越えない理由を探つたものだが、それは武士道的精神のない庶民には布教がうまくいかなかつたといふ趣旨で書いたものだつた。しかし、かうしてキリスト教の側からの分析でその「異質性こそ問題だつた」、日本には正統的キリスト教が入つてゐないといふ視点も面白いと思ふ。ただ、今その論を深めるのであれば、フィリピンや朝鮮半島に布教にきた宣教師たちのしかたとの差異も視野に入れる必要はあるだらう。

 キリシタンはイエズス会である。つまりトマスアクィナスの神学に基づいてゐる。しかし、キリスト教神学にはアウグスティヌスの流れもある。そしてこちらはまだ日本には入つてゐない。その意味ではキリスト教の理解を私たちは深めてゐないといふことになる。

 私は内村鑑三や矢内原忠雄には馴染んできた(北蛮キリスト教)が、正統的な流れを知らなかつたといふことかもしれない。遠藤によれば吉満義彦もトマス神学(南蛮キリスト教)のやうである。ならば岩下壮一はどうであらうか。

 また課題を見つけてしまつた。

(今、アマゾンでみたら「アウグスティヌス」は中公クラシックスにはなく、中公バックスといふシリーズにあるやうで、こちらには付録がついてゐるかもしれない。)

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