高校時代の倫理社会の授業で、ソクラテスはソフィストにたいして問答を挑み、彼我の差を「無知の知の有無」としてとらへたといふやうな話を聞いた。確か『饗宴』だつたと思ふが、それが課題図書になり読まされた。もちろん、まつたく覚えてゐない。
以来、ソクラテスには関心を持ちプラトンへも関心は広がつたが、その相手たるソフィストといふのは始めから分かり切つた存在として関心の外にあつた。もちろん、プラトンの問答にはソフィストが出てくるのだが、それは個別の誰々であり、「ソフィスト」といふ形には縁取られなかつた。ところが、この『プロタゴラス』を読んで、なるほどソフィストとはかういふ人のことを言ふのかと合点することができた。
なかなかの知識人である。むしろ、ソクラテスつて嫌な奴だなと思はせるやうな「大人」である。
話題の中心は「徳は教へられるか」といふことだ。ソクラテスはそれは知識に還元されるから教へられると述べ、プロタゴラスは教へられないと説く。この一冊だけでその決着がつけられるわけもなく、最後は時間切れで両者その場を去つて終はるのだが、ていねいにていねいに説明を施すプロタゴラスに共感することが多かつた。解説によれば、当然ながら真の知や真の徳とを明らかにしていく立場のソクラテス=プラトンの優位性が示されてゐるといふことなのだが、私にはあまりよく分からなかつた。一度読んで分かるわけはないとは思ふが、さて二回目が来るかどうかも分からない。しかし、たつぷりと付箋をつけておいたので、二度目はそこの解釈を巡つて自分の成長を確かめることができるかもしれない。
それにしても今から2400年も前に、これだけの問答を交はす人間がゐたといふことは、全く驚きである。
秋を感じるベランダで読んだ。間もなく雨が降りさうなので、読み終はつたところで家の中に入り、これを書いてゐる。