どうやらまた石が出来たらしい。
あの苦しみがやつて来る。不穏な鈍痛が脇腹にある。困つた。
古文を讀む時に、現代の音に近い形で讀むといふことをする。例へば、「今は昔、竹取の翁といふものありけり。」とあれば、「いまはむかし、たけとりのおきなというものありけり。」とする。どうして「いふものありけり」と讀んではいけないのか、じつを言ふと分からない。もちろん、「じつを言ふと分からない」と書いてはゐても「じつを言うと分からない」と発音せよとされてゐる。しかし、古文の場合にはその文字の通りに発音してもいいではないか。私はサウオモウ。それでゐて「月日は百代の過客にして」は「つきひはひゃくたいのかかくにして」と当時の発音で讀めといふのも矛盾してゐる。「ツキヒハヒャクダイノカキャクニシテ」でいけないのは、字音語は當時の讀みを基準とするといふことなのかもしれないが、一つの文章のなかで、字音と假名とで讀み方を變へるといふのも何だかへんだ。現代の學校教育における古文の扱ひの疑問の第一は、まづここにある。
次に疑問なのが、少少煩雜でなるが、歴史的假名遣ひの「あう」または「あふ」は、「おう」と讀むと教へてゐることについてである。
例へば、「仕うまつるべき人人、皆難波まで御送りしけり。」とあれば、「つこうまつるべきひとびと、云云」と讀む。「tukau」は「tukou」と讀むべきだといふからだ。
例へば、の2。「行かふ年もまた旅人なり。」とあれば、「ゆきこうとしもまたたびびとなり。」と讀む。「yukikafu」は「yukikou」と讀むべきだといふのだ。
ところが「答ふ」は「ことう」と讀むことはあまりない。「こたう」に近い。なぜなのか。分からない。
案外、理由は簡單なのかもしれないが、今の時點でそれが分からない。どなたか御教示いただければ幸ひである。
古文は、音讀が大事である。しかし、その讀み方については結構惱みが多い。