言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

「答ふ」はなぜ「ことう」と讀まないのか。

2011年09月25日 14時11分01秒 | 悩み

 古文を讀む時に、現代の音に近い形で讀むといふことをする。例へば、「今は昔、竹取の翁といふものありけり。」とあれば、「いまはむかし、たけとりのおきなというものありけり。」とする。どうして「いふものありけり」と讀んではいけないのか、じつを言ふと分からない。もちろん、「じつを言ふと分からない」は「じつを言うと分からない」と言ひながら、この文章を書いてゐるのだが、古文の場合にはそのままでいいではないか。それでゐて「月日は百代の過客にして」は「つきひはひゃくたいのかかくにして」と讀めといふのも矛盾してゐる。字音語は當時の讀みを基準とするといふのかもしれないが、一つの文章のなかで、字音と假名とで讀み方を變へるといふのも何だかへんだ。現代の學校教育における古文の扱ひの疑問の第一は、まづここにある。

 次に疑問なのが、少少煩雜でなるが、歴史的假名遣ひの「あう」または「あふ」は、「おう」と讀むと教へてゐることについてである。

 例へば、「仕うまつるべき人人、皆難波まで御送りしけり。」とあれば、「つこうまつるべきひとびと、云云」と讀む。「tukau」は「tukou」と讀むべきだといふからだ。

 例へば、の2。「行かふ年もまた旅人なり。」とあれば、「ゆきこうとしもまたたびびとなり。」と讀む。「yukikafu」は「yukikou」と讀むべきだといふのだ。

 ところが「答ふ」は「ことう」と讀むことはあまりない。「こたう」に近い。なぜなのか。分からない。

 案外、理由は簡單なのかもしれないが、今の時點でそれが分からない。どなたか御教示いただければ幸ひである。

 古文は、音讀が大事である。しかし、その讀み方については結構惱みが多い。

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