ものごとを悲観的に見れば、炊事の際にコップが割れるのも不吉な予感として考えられるし、誰かが私を呪つてゐるとも感じられる。ところがその逆に何事も楽観的に捉へれば、将来私に起きるはずだつた事故の代はりにコップが割れてくれたとも感じられる。すべてはものの見方次第とも言へる。
確かに悲観が悲劇を招き、楽観が幸福を招くこともあるだらう。拙い私の人生でもさういふ局面があつたことは事実である。事前の思ひが結果の大勢を決めるのだとは、ささやかな人生訓ですらある。しかし、それだけで人生の、あるいは社会の真実に突き当たるといふのも暴論であらう。最悪を想定してこそ、悲劇は免れるといふこともあるであらうし、目の前の障碍はどう見ても楽観視できない事態であつても、見えない未来に希望を見つめて現実を乗り越えることが人間にとつて大切だといふことも確かにある。それは信仰の境地かもしれない。
本能が壊れ、欲望の実現=幸福といふ図式には収まらない生を義務付けられた人類が、その不安定さをきつかけにむしろ、欲望の制御としての文化と、理想を抱いて希望を見出す信仰とを獲得できたのではないかと思ふのである。