言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

悲観と楽観と

2019年05月26日 11時02分33秒 | 日記

 ものごとを悲観的に見れば、炊事の際にコップが割れるのも不吉な予感として考えられるし、誰かが私を呪つてゐるとも感じられる。ところがその逆に何事も楽観的に捉へれば、将来私に起きるはずだつた事故の代はりにコップが割れてくれたとも感じられる。すべてはものの見方次第とも言へる。

 確かに悲観が悲劇を招き、楽観が幸福を招くこともあるだらう。拙い私の人生でもさういふ局面があつたことは事実である。事前の思ひが結果の大勢を決めるのだとは、ささやかな人生訓ですらある。しかし、それだけで人生の、あるいは社会の真実に突き当たるといふのも暴論であらう。最悪を想定してこそ、悲劇は免れるといふこともあるであらうし、目の前の障碍はどう見ても楽観視できない事態であつても、見えない未来に希望を見つめて現実を乗り越えることが人間にとつて大切だといふことも確かにある。それは信仰の境地かもしれない。

 本能が壊れ、欲望の実現=幸福といふ図式には収まらない生を義務付けられた人類が、その不安定さをきつかけにむしろ、欲望の制御としての文化と、理想を抱いて希望を見出す信仰とを獲得できたのではないかと思ふのである。

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画家・郷倉和子の言葉

2019年05月11日 21時16分13秒 | 日記

 昨年暮れに近くの美術館で郷倉和子の絵画を観た。私は、それほど惹かれたわけではないが、隣で見てゐた家内が彼女の言葉に引き寄せられてメモをしてきてゐた。今日になつて、そのメモが出てきたので、引き写すことにする。

 長生きをしますと、若い時に出来たことが出来なくなることがたくさんあります。出来なくなることを嘆くのではなく、異なる角度から自分を眺めることで、今まで見えなかったものが見えてくることもあります。それは歳を重ねたからこその賜と考えると、長生きするのも悪くないと思えてきます。生きる喜びを描くことは、感謝を描くことであると近頃思えるようになりました。

 94歳の時の言葉のやうだ。先日、私の両親も老人ホームに入ることになり、そのホームに行つた。90歳の母はほぼ寝たきり。三カ月ほど入院してゐたが、もう出られないのではないかといふ所まで行つてゐたが、医者の誤診なのか、母の生命力なのかは分からないないが、退院するところまで恢復したのは幸ひであつた。その母が果たしてかういふ感慨を持つてゐるかどうかは分からない。「生きる喜び」や「感謝」などといふ感慨を半分認知症にかかつてゐる今の母から聞くことはできない。画家の94歳とは、やはりこの言葉だけでも人生の深みを醸してゐるやうに感じた。そして、妻がこの言葉をメモしたのはいつたいどういふ思ひからであらうか。訊いてみてもいいが、訊かない方が良いやうにも思ふ。

 さて、私はどうか。それも書かない方がいいだらう。

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