私は歴史的假名遣ひを用ゐるが、これは親が使つてゐたからでも、學校で教へてもらつたからでもない。もし保守の思想が、過去の傳統を保守するだけの謂ひなら、私は現代假名遣ひを保守しなければならない。歴史的假名遣ひで私は文章を書くが、西部邁さんや西尾幹二さんや亡くなつた江藤淳もそれを用ゐない。しかし、ともどもに保守を名乘る。松原正さんなら、西部や西尾を斬つて濟むが、私はそれも思考怠惰だと思ふ。彼我の保守の違ひを明らかにしなければならないはずなのに、假名遣ひを守らずに何の保守か、と言ふだけであるからである。松原さんは、御自身の母親が使つてゐる假名遣ひだから、私もそれを用ゐると書くが、それなら、私のやうな年代の者は、歴史的假名遣ひを用ゐる必然性がないといふことにならないか。
かつて、福田恆存は、これも保守派の渡部昇一さんを批判した時に、「過去と未來の時間を超える」「縱軸が全く見えないらしい」と書いた。まさにその「縱軸」があるかないか、私はそれをキエルケゴールの『現代の批判』を援用して「垂直軸」と名附けたが、その有無こそ、保守の思想の眞僞を分ける視點だと考へてゐる。
小谷野さんの、近世を捉へ直せといふ指摘は、その意味で、じつに有益な視點である。歌舞伎を愛した、福田恆存にあつた歴史感覺が、近年の保守にはないと言ふことである。
この項、もう少し續けます。
かつて、福田恆存は、これも保守派の渡部昇一さんを批判した時に、「過去と未來の時間を超える」「縱軸が全く見えないらしい」と書いた。まさにその「縱軸」があるかないか、私はそれをキエルケゴールの『現代の批判』を援用して「垂直軸」と名附けたが、その有無こそ、保守の思想の眞僞を分ける視點だと考へてゐる。
小谷野さんの、近世を捉へ直せといふ指摘は、その意味で、じつに有益な視點である。歌舞伎を愛した、福田恆存にあつた歴史感覺が、近年の保守にはないと言ふことである。
この項、もう少し續けます。