このコロナ禍にあつて、最も不快なのは「ウィズコロナ」といふ言葉を聞くことである。
その言葉が、この状況に耐へませう、といふ気概が少しでもあるのであれば、それはむしろ賛同したくなる。しかし、さういふ人は滅多にゐない。ほとんどの場合には、「今日の感染者の数は200人を越えました」と危機を訴へる人のセリフとして聞かれるのである。200人だらうか、300人だらうが、感染者がゐるといふ日常を常態として受け入れるのがそのウィズコロナであらう。自動車事故で年間1万人弱の人が亡くなつてゐるが、だからと言つて「今日も道路に自動車が走つてゐます。自粛してください」などとは言ふまい。それがウィズ交通事故である。いちいち言はなくてよいのが「with」といふ意味ではないか。
さういふ中にあつても聴かなければならないのは医者の声である。最前線にあつて診察してゐる人の声である。どこかの大学の医学研究者で危機感だけを煽つてゐる人の声ではない。
私には医者の知人や友人がゐる。そのひと方から長文のお手紙を頂戴した。定期的に送られてくる手紙の中身は文学に触れることが多いが、今回はやはりコロナ禍についての感慨が文学作品に重ねて記されてゐた。
一つが、漱石の『硝子戸の中』である。漱石が家の窓から外を眺めて、その時その場で起きたこと、考へたことをつづつた随筆とも小説とも思へる小品である。ある友人から売りたい本があるからと言はれて買つた本が、翌日になつてやはりその値段では安いので買ひ戻したいと言はれ、どこにも持つていきようがない不快感を持て余してゐるところなど、漱石らしさがうかがへた。その上、「お金は取らない。持つて帰れ」と返事をするのもなるほどと思つた。一度購入したものは自分のものである。それをそのまま上げるのだからお金はいらない、とは理屈であるが、偏屈でもあらう。しかし、それが漱石である。
本の裏表紙の日付を見ると15年も前の日付が書かれてゐる。読んだ形跡も本の角が折られてゐるところを見ると明白であるが、内容はまつたく覚えてゐなかつた。改めて読み直して、漱石が見た世界の姿が伝はつてきた。特に母親への思慕の強さも印象的である。
この自粛下にあつて、硝子戸の中から現代の日本を見た文学を綴れる作家はゐるかしらん。苛立ちに耐へること、幸せを見出すこと、そんな文章がどこかで書かれてゐることを願つてゐる。
もう一冊、河合隼雄の『「日本人」という病』についても書かれてゐた。不思議なことだが、『硝子戸の中』と同じ時期に私は読んでゐた。阪神淡路大震災の時のことを河合はかう書いてゐる。
「みんなが暴動も略奪もしないということと、政府の対応が遅いというのは、ひょっとしたら日本人の同じ心の在り方から来ていることではないか」
今日の状況もまつたく同じである。日本人であることの病の内実を河合が描いてゐる。
そのその知人が私にこの本を示されたことは、さういふ日本人であることを引き受けつつ、診療といふ行為を日々続けてゐるといふことの告白である。精神にひびが入りさうになることも、思はず涙ぐみさうになることもあるだらうが、それを抱へて生きていくといふ市井人の姿こそ「コロナと共に」の本当の姿である。口先だけの、言つてよければ危機感を煽つて視聴率を取らうとする「安全ファシズム」のインテリ連中とは金輪際関係のない生き方である。であれば、私もまた教へるといふ行為を日々続けていくことから逃れてはならないと手紙を読んで感じた。