言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

『硝子戸の中』『「日本人」という病』

2020年07月29日 21時55分06秒 | 本と雑誌

 このコロナ禍にあつて、最も不快なのは「ウィズコロナ」といふ言葉を聞くことである。

 その言葉が、この状況に耐へませう、といふ気概が少しでもあるのであれば、それはむしろ賛同したくなる。しかし、さういふ人は滅多にゐない。ほとんどの場合には、「今日の感染者の数は200人を越えました」と危機を訴へる人のセリフとして聞かれるのである。200人だらうか、300人だらうが、感染者がゐるといふ日常を常態として受け入れるのがそのウィズコロナであらう。自動車事故で年間1万人弱の人が亡くなつてゐるが、だからと言つて「今日も道路に自動車が走つてゐます。自粛してください」などとは言ふまい。それがウィズ交通事故である。いちいち言はなくてよいのが「with」といふ意味ではないか。

 さういふ中にあつても聴かなければならないのは医者の声である。最前線にあつて診察してゐる人の声である。どこかの大学の医学研究者で危機感だけを煽つてゐる人の声ではない。

 

 

 私には医者の知人や友人がゐる。そのひと方から長文のお手紙を頂戴した。定期的に送られてくる手紙の中身は文学に触れることが多いが、今回はやはりコロナ禍についての感慨が文学作品に重ねて記されてゐた。

 一つが、漱石の『硝子戸の中』である。漱石が家の窓から外を眺めて、その時その場で起きたこと、考へたことをつづつた随筆とも小説とも思へる小品である。ある友人から売りたい本があるからと言はれて買つた本が、翌日になつてやはりその値段では安いので買ひ戻したいと言はれ、どこにも持つていきようがない不快感を持て余してゐるところなど、漱石らしさがうかがへた。その上、「お金は取らない。持つて帰れ」と返事をするのもなるほどと思つた。一度購入したものは自分のものである。それをそのまま上げるのだからお金はいらない、とは理屈であるが、偏屈でもあらう。しかし、それが漱石である。

 本の裏表紙の日付を見ると15年も前の日付が書かれてゐる。読んだ形跡も本の角が折られてゐるところを見ると明白であるが、内容はまつたく覚えてゐなかつた。改めて読み直して、漱石が見た世界の姿が伝はつてきた。特に母親への思慕の強さも印象的である。

 この自粛下にあつて、硝子戸の中から現代の日本を見た文学を綴れる作家はゐるかしらん。苛立ちに耐へること、幸せを見出すこと、そんな文章がどこかで書かれてゐることを願つてゐる。

 

 

 もう一冊、河合隼雄の『「日本人」という病』についても書かれてゐた。不思議なことだが、『硝子戸の中』と同じ時期に私は読んでゐた。阪神淡路大震災の時のことを河合はかう書いてゐる。

「みんなが暴動も略奪もしないということと、政府の対応が遅いというのは、ひょっとしたら日本人の同じ心の在り方から来ていることではないか」

 今日の状況もまつたく同じである。日本人であることの病の内実を河合が描いてゐる。

 そのその知人が私にこの本を示されたことは、さういふ日本人であることを引き受けつつ、診療といふ行為を日々続けてゐるといふことの告白である。精神にひびが入りさうになることも、思はず涙ぐみさうになることもあるだらうが、それを抱へて生きていくといふ市井人の姿こそ「コロナと共に」の本当の姿である。口先だけの、言つてよければ危機感を煽つて視聴率を取らうとする「安全ファシズム」のインテリ連中とは金輪際関係のない生き方である。であれば、私もまた教へるといふ行為を日々続けていくことから逃れてはならないと手紙を読んで感じた。

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『高校生からのリーダーシップ入門』を読む

2020年07月27日 17時40分33秒 | 本と雑誌

 早稲田大学の日向野幹也氏の著書である。

 電通が出してゐる雑誌でこの方のインタビューを読み、「権限によらないリーダーシップ」といふ言葉を知つた。世の中で広く使はれてゐるリーダー論は、役職と権限とを持つリーダーはどうあるべきかといふことが大半である。現今の政治家に対する賛同も批判も、政治家として理想に照らしてそれぞれの人が批判してゐる文脈である。

 しかし、それでは埒が明かない。それほどに社会の変化は激しく、一元的な指導体制で何もかも決めるといふことでは指示の的確さも実現の速度も問題が大きくなりすぎる。身近なところで言へば、あのアベノマスクの惨状たるやその好例である。あのやうなことを政府が決める必要はない。

 日向野氏の言葉で特に力があつたのが、「不満を苦情として伝えるのは消費者。不満を提案に変えて持っていくのがリーダーシップ。」である。これに付け足す言葉はない。その通りである。当事者意識を持てとか、オーナーシップを持てとか言はれることの具体化である。

 本書は、高校生でも読める極めて分かりやすい本である。実際に高校生活のなかでどう生かすべきかといふことも書かれてゐる。ご自身の研究での失敗談も書かれてゐる。また、どうやつてリーダーシップを発揮するかといふことと共に、うまくいかない時にどうするかも書かれてゐるので実践的でもある。物足りないなと思へば、巻末の参考文献に進めばいい。

 権限がなくともその組織や集団を良くしたい、その組織を通じて社会にこのやうに貢献したいといふ思ひでもつてリーダーシップを取れる人物がゐる組織は大したものである。そして、さういふ人物は宝である。どうぞ人材などといふモノ化した言葉で表現しないでほしい。

 さういふ人物を育てるのが、私たちの仕事である。

 

 

 

 

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時事評論 2020年7月号

2020年07月21日 21時06分32秒 | 告知

 7月号の紹介です。

 教育随想が面白かつた。全共闘世代は本当に食へない連中である。しかも懲りない。現在70歳代の翁たちは、今も毒を社会に流し続けてゐる。コロナ禍で「安全ファシズム」のやうな空気を作り出してゐるのも、彼らが自分たちの安全を第一に考へてゐるからである。しかも、彼らは年金暮らしである。勤める会社もないし、二カ月に一度定額の収入があるから、社会がいくら止まつても、GO TO から東京だけを除外せよと叫ぶ。会社は無くなり、収入は激減し、旅行に行きたくても行けない人たちはますます苦痛を味はふはずだ。それらすべてが全共闘世代のせいだとは言はない。しかし、この「安全ファシズム」の空気は間違ひなく彼らの「安保反対」「赤い平和主義」の残滓である。

 じつに深刻である。日本のこの安全崇拝信仰をなんとかしないと大変なことになる。

 

 

 どうぞ御關心がありましたら、御購讀ください。  1部200圓、年間では2000圓です。 (いちばん下に、問合はせ先があります。)
                     ●   

検定済中学歴史教科書

これだけ違ふ 各社の歴史認識

 明星大学千五教育史研究センター 勝岡寛次

            ●
パンデミックと企業社会の行方    意識構造の激変

     駒沢大学教授 村山元理
            ●
教育隨想  全共闘の負の遺産(勝)

             ●

『開戦と終戦をアメリカに発した男』  加瀬俊一と激動の昭和

     東京国際大学教授 福井雄三

            ●

「この世が舞台」
 『筆賣幸兵衛』 河竹黙阿弥
        早稲田大学元教授 留守晴夫
 
            ●
コラム
  あれから確かに「戦争」はなかったが……(紫)

  新たな「ボケ」の出現(石壁)

  蝉鳴くやつくづく赤い風車(星)

  拉致問題進展を阻むもの(白刃)
           

  ● 問ひ合せ 電話076-264-1119  ファックス 076-231-7009

   北国銀行金沢市役所普235247

   発行所 北潮社

 

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コロナ禍を考へる

2020年07月03日 10時27分45秒 | 評論・評伝

 コロナ禍について、ここにきてやうやく長い目でとらへた論考が出てきた。

1 山崎正和「21世紀の感染症と文明」(『中央公論』7月号)

2 京都大学オンライン公開講義「立ち止まって、考える」

 である。

 

 

 1はいつもながらの山崎節とも言へさうであるが、それだけに心地よい。近代人の傲慢を指摘しつつ、日本人的な無常観を涵養するよい機会とすべしといふのも極めて穏当で力強い発言である。はつとさせられたのは「死体の処理は専門家の手に委ね、葬儀でさえしだいに簡略化する方向を選んできた」といふ指摘だつた。なるほど、安全と長寿命化が当たり前になれば、死や病への恐怖は当事者だけのものになりがちで、社会的に死とどう付き合ふべきかといふ文化の厚みはどんどん削がれていき、死の弔ひ方も生の過ごし方も無作法になりがちであつた。しかし、そんな中でありながらも奇跡的に現代日本人はこのコロナ禍を「自粛」といふ美徳で封じ込めようとしてゐる。そこを山崎は無常観の涵養につなげられればと考へてゐるやうである。美徳と言へば、近年の災害にたいするボランティアの風土である。そのことも新たな公共心として称揚するが、その行為は文字通り「する」文化であつたが、今回の「自粛」は「しない」文化であり、ここにも画期的な公共心の誕生を見るのである。いつもの逆説性をとらへた山崎論であり、少々鼻につく感もある。私は、自粛といふ美名に隠れた国家への依存心の膨張を危惧するが、そこへも山崎は視線を向けてゐるやうで、「市場は富の分配には貢献するが、富の再分配に役立つのは国家だけだ、という」のは「永遠の真理」であるとまで言つてゐる。グローバリズム批判としては肯ずべき定義であるが、個人の自立といふことが近代のもう一つの柱であることを思ふと、違和感がないでもない。しかし、山崎の冷静な論は読ませてくれる。

 2は、京都大学が全体として取り組んでゐるオンライン講義である。始まつたばかりではあるが、そのタイトルが示すやうに「立ち止まって、考える」といふ姿勢は、それこそ大学が社会にたいして示すべき事柄である。かつて福田恆存も、「立ち止まって初めて出てくるもの、それが思考である」と書いてゐたが、その通りであらう。中で面白かつたのは、第一弾の藤原辰史(人文科学研究所准教授)と出口康夫(文学研究科教授・ユニット長)の対談である。4月2日に行われたといふのあるが、それ自体が素晴らしい。緊急事態宣言が発令されたのが4月7日であり、それ以前にかうした世界史的文脈と100年単位で考へる場を世間に示してゐた京都大学はさすがである(NHKはマルクス・ガブリエルやユヴァル・ノア・ハラリやジャック・アタリやイアン・ブレマーばかりを多用するが、日本の知性ももつと紹介してはどうか)。二人の対談の問題意識は、20世紀の初頭に起きたスペイン風邪(正確にはスパニッシュ・インフルエンザといふらしい)への対応と、それがなぜ私たちの記憶から忘れられてしまつたのかといふことであつた。是非ともその対談は見てみてほしい。人文社会学の知見が物事を深く考へるにはたいへん有効であるといふことを知らせてくれる好機となならう。

 日常は、極めて流動的である。目の前のことをこなしていくだけで一日が終はつてしまふ。だからこそ、ときどきかうして大きな視点で考へるといふことを実践したい。

 さて、昨日は東京では感染者が100名以上出たといふことで大騒ぎであつた。しかし、どうしていつまでも感染者の数だけを報道するのだらうか。私たちが知りたいのは、彼らがどんな症状で、病院がいまどういふ状況にあるのかといふ2点である。感染者の数は、それは調べれば調べるほど増えるに決まつてゐる。100名以上出たといふことは、集団検診をしましたといふことと同義である。誰かが書いてゐたが、がん細胞が体中に見つかればその人をがん患者と言ふのか。言はないだらう。鼻の奥にウィルスが見つかつたらもう「はい、感染者1」と叫んでゐるやうなポンチ絵が浮かんでしまふのである。政治家も一月には、桜を見る会の話で持ち切りだつたのに、ここに来て大騒ぎ。昨日、久しぶりに福島瑞穂が国会内で息巻いてゐる姿を見たが、滑稽どころか哀れにさへ見えた。もちろん、その発言にたじろぐ加藤厚生労働大臣もみじめではあつたが。

 香港での大激震にマスクをしながら戦つてゐる彼の国の市民を前に、私たちの狂想曲は今も鳴り響いてゐる。

 

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