言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

京都 堀川高校の奇跡の軌跡

2014年06月16日 21時03分48秒 | インポート

 先日、元京都市立堀川高校の校長で、大谷大学の教授をされてゐる荒瀬克己氏の講演を聞く機会があつた。

 以前、勤めてゐた学校では、この堀川高校の動向を気にしてゐたから、公立高校でどういふ指導をされてゐるのか気になつてはゐたので、突然の機会を得て、名古屋まで出かけてきた。

 国語の先生であり、御自身は洛南の出身であることもあつて、仏教の法話のやうな話で面白かつた。教師に話すといふのは思ひのほか緊張するのであらう。理路整然とといふより連想ゲームのやうに話が移り変はり、強引に結論に持つていくといふスタイルであつた。一時間半たつぷりと時計を一度も見ることなく聴けたのであるから、お話はうまい。自信がみなぎり、それでゐて威圧的でもなく、カリスマといふのだらうか、これでは普通の先生は適はないなといふ印象である。

 「生徒は、よーく先生を見てゐますよ」と言はれ、人の話を聞かない先生が、生徒には「話を聞け」と言つてゐる姿を何度も見ました、とは耳が痛い。誰にも心当たりがある事柄であらう。

 しかし、ころころ意見が変はるのはよくないといふ件で、現政権を批判してゐたのは、行き過ぎである。政治は妥協の産物だとは言はないが、事態を一歩前に進めるのが政治であるのだから、朝令暮改結構ではないか。さう思ふ。たぶん、御自身だつて、変節しながら改革を進めてきたはずである。それを取り上げて「生徒は、よーく見てゐますよ」と私が言つたとしても、それは当たらないのと同じである。口が滑つたのであらうが、反体制の親分的な雰囲気があつたから、政治的な本音がつい出てしまつたのであらう。

 今の職場の同僚に、京都の府立高校での教員経験者がゐて、彼から後日荒瀬氏について話を聞くと、すばらしい方だと聞いてゐますとのこと。ただ、市立高校で進学校を作るためには、相当に市立中学校に圧力をかけたといふことも聞いてゐますとのことであつた。それ以上は言はないが、教育とは理想的な教育制度によつてのみなされるのではないといふことは事実のやうだ。一人勝ちの発想では、どこかにひずみが起きるのも事実である。一つの高校の奇跡の中に見出すべきは、もつと違ふ何かであらう。もちろん、それは奇跡の主人公には見えないものであるかもしれない。京都市の教育がいまどうなつてゐるのか、少なくともそこまで視野を広げて見ることによつて、却つて見えてくるものがあると感じた。

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加藤典洋氏の迷言

2014年04月14日 18時17分41秒 | インポート

 安倍総理にたいして、保守派は手ぬるいと批判し、左翼は右翼反動だと非難する。かういふ批判が両サイドから出てくるといふのは、結構まともな政治をやつてゐる証拠だと思ふ。

 思想家が真剣に取り上げようと思ふぐらゐの政策がない総理には、批判は起きない。鳩山・管・野田氏とつづいた迷走内閣には、あきれる人は多かつたが、まともに批判する人はゐなかつた。さういふ気にさへならなかつたといふことであらう。国民が求めた政権交代なのだから、観念しなければならない事態であつたとは言へ、語る言葉を失ふほどの体たらくであつた。

 さて、先日の朝日新聞の「耕論」(かういふ造語は嫌ひですね。「(議論を)深堀りする」といふ言葉も好きぢあありません。討論でいいし、議論を深めるで十分であります)で、文藝評論家の加藤典洋氏が、こんなことを書いてゐた。

「安倍首相の靖国神社参拝から3カ月半。これだけの短期間で日本の孤立が深まった根本的原因は、日本が先の戦争について、アジア諸国に心から謝罪するだけの『強さ』を持っていないことです。」

 そして、例によつて、
「同じ敗戦国のドイツが謝罪を繰り返し、今やEUで中心的な役割を担っているのとあまりにも対照的です。」

 と宣ふ。

 今やいくら朝日新聞の読者でも、かういふ誤解(政治宣伝)を平気でする人は少ないのではないか。「日本の孤立」といふこともカッコ書きで書かなければならないし、それが昨年の暮れからであるといふのは、事実誤認も甚だしい。韓国の大統領が安倍総理に会はないと言つてゐたのは、それ以前からであるといふ一事を見ても、それがまつたくの嘘話であることは明らかだ。中国包囲網を作るべく、アフリカ、インド、東南アジアなどを歴訪した首相がゐる国を「孤立化」と言つてみせる言語技術は、どんな文藝評論家でも不可能である。かつて『敗戦後論』で論議を巻き起こした加藤氏であるが、あの折のキーワードであつた「ねじれ」といふのは今や加藤氏の論考の性格となつてゐるやうである。

 また、ドイツの「強さ」といふのも、責任をナチスに押し付けたゆゑの、言はばトカゲの尻尾切りの強さである。あれはナチスのせいです、ごめんなさいと言ふのが強さだとすれば、それは面の皮が厚い厚顔無恥の強さである。私たちは、さういふ生き方を潔しとしないから、忍耐して中国と韓国と付き合つていかうとしてゐるのである。

 馬鹿にされ、うそつき呼ばはりされながらも、忍耐してゐる私たちの国こそ「強い」のではないか。安倍総理はよくやつてゐる、それが国民の評価ではないか。

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哀悼 宮里立士さん

2014年03月30日 18時40分24秒 | インポート

 またしても訃報である。私よりも若い人の死は、どうとらへてよいのか分からないほどの戸惑ひが離れない。

 宮里立士さんは、3月26日故郷の那覇で47歳であつた。沖縄の状況を大手のマスコミとは違ふ視点で知らせてくれる貴重な言論人であつた。この訃報は知人の山本直人さんより知らされたが、私と宮里さんとは年に一回北村透谷研究会でお会ひする程度で、これまでの疎遠なお付き合ひが悔しい。彼は『表現者』の常連執筆者でもあつたので、その御活躍はいつも身近に見てゐるやうな気がしてゐたのがうかつであつた。
 透谷研究会では私はいつも外野席にゐるやうな立場だが、宮里さんは、そのお人柄もあつて、どんなお話にもつき合つてくれる。西部邁氏や富岡幸一郎氏とはよく会つてゐるやうなので、そのあたりの近況もいろいろと教へてくれた。

 透谷研究会も事務方を引き受けていらしたから、今後は橋詰会長もお困りになるだらうと思ふ。

 それはともかく、安らかにお眠りいただきたい。御冥福を祈る。合掌

北村透谷とは何か 北村透谷とは何か
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『ホムブルク』クライスト

2014年02月25日 17時32分46秒 | インポート

  時事評論の今月号に、留守先生が、クライストの『ホムブルク』を取り上げてゐた。恥づかしながら、このドイツの作家を私は知らず、そしてもちろん読んだこともなく、この記事でその内容を知ることができた。
  「外界の偶然に左右されない確固たる幸福を自己の?面に求めようとする靑年」といふ評価を得てゐた作者クライストの生き方に打たれた。そして、その一方で、「『外界の偶然に左右され』て激しく動搖する男である」クライストの現実の生き方にもなるほどと思つてしまふのである。理想と現実とを簡単に一致させることをもつて人格とするのが、道徳的に全うな人の生き方であるやうに思はれてゐるが、果たしてさうか。

 理想を掲げながらも、さう生きられない現実と闘ひ、それでも理想を捨てずに自己にたち向かうのが誠実であり、道徳的なことなのではないか。

 いかにも留守先生が選ばれた人物である。

 入手するのが困難な書であるが、ドイツ文学の名作であるに違ひない。



同じ作者の小説です。↓

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長谷川三千子『神やぶれたまはず』を讀む

2013年12月31日 10時12分23秒 | インポート

神やぶれたまはず - 昭和二十年八月十五日正午 神やぶれたまはず - 昭和二十年八月十五日正午
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 やうやくにして、表題の本を讀了した。
   おもしろかつた。それは、いま話題の『永遠の0』を讀んだ時のやうなおもしろさではもちろんない。同じやうに、大東亞戰爭時の人の生き死ににかかはるが、前者が使徒行傳であるとすれば、後者は福音書のやうであり、より「神學」的なものである。
  使徒行傳と言ひ、福音書と言ひ、神學と言ひ、その比喩はいづれもキリスト教の用語であるが、さういふ言葉を選ばせたのは、本書の影響である。
  長谷川氏は、どうしても日本の神學が欲しいやうだ。そして、あの八月十五日の意味を深めることによつて、イエスの死の意味を深めてキリスト教が誕生したやうに、日本の神學を誕生せしめることができるとお考へのやうであつた。しかし、私には少々無理があるやうに思へた。
  昭和天皇の果した役割の大きさや、その言動のすばらしさには感動はするけれども、それは到底信仰の要になるものではない。
  日本の神は當然ながらキリスト教の神ではない、さう斷言しながら、長谷川氏は、キリスト教(ユダヤ教)の聖書を用ゐて、日本の八月十五日正午の瞬間を神學的に意味付けようとする。しかし正直に言へば、滑稽であつた。聖書の記述にまるまる一章を割いてゐるが、その部分は、果して有效であらうか。私にはさうは感じられなかつた。
  聖書を讀まない人達には、たぶん讀み飛ばされてしまふだらう。事實、讀賣新聞に掲載された書評にも一切それへの記述はなかつた。しかし、長谷川氏の舊著『バベルの謎』を踏へて力強く力説したのが、この章である。
  その章の問題點は何か。それはキリスト教の原罪といふ思想に一切觸れずに、イサク奉獻、イエスの十字架を論じた點である。たしかに、キルケゴールやデリダの書を引用しつつ、キリスト教における通念に理解を寄せた上で獨自の解釋を施してゐるやうな體裁ではあるが、その解釋は、言つてよければ夜郎自大であり、噴飯物であつた。これでは「神學」になりやうがない。一言で言へば、それは所詮「人學」である。このあたりのことは、聖書の細部に入らなければ解らないかもしれない。そして急いで付け加へれば、私もまたその聖書の解釋をここですることはできない。ただ、長谷川氏の文章の一節を引用することで、私の傳へたいことが御解りいただけると思ふ。

        イサクの奉獻に對して眞の應答ができるのは「死にうる神」のみである。つまり、われわれの民族がもつやうな神々にしてはじめて、イサクの奉獻を正しく受けとると同時に、その命を返却する、といふことができるのである。

「われわれの民族がもつやうな」  「死にうる神」とは、キリスト教の神のやうな絶對者ではなく、全知全能でもない。キリスト教の神は、自ら死ねないから、イエスに「死を與へる」ことによつて、萬民救濟の道を切り開いた。確かにさうである。つまりは、神は死ねないから「死ぬことのできる息子」をつくり、それを十字架にかけたといふのが長谷川氏の理解である。面白いことを言ふ。さうかもしれない。しかしながら、その「死ねない神」だから「イサクの奉獻を正しく受けとる」ことができなかつたといふのは、まつたく見當違ひである。
  イエスの死も、イサクの奉獻も、人類始祖アダム以來の原罪が私たちにあつて、それゆゑに神は自ら手を出せないといふ嚴しい斷絶があるといふことをまつたく無視してゐる。その斷絶の向う側にゐる神だからこそ「神學」が誕生したのであつて、「死にうる神」だから、人間に應答できるのだと、これほど清々とそしてあつさりと言はれると、それは人間でせう、と言つて仕舞ひたくなる。長谷川氏の求めたのは、「人學」であるとはその意味である。

  どうして「われわれの神學」をそれほどに求めるのであらうか。日本の神道に神學が必要だらうか。私たちの國の傳統を信じ、この自然を愛する、それでいいのではないだらうか。敗戰によつて、折口信夫は「神   やぶれたまふ」と歌つた。そして戰後、近代化=西洋化はいよいよ進んだ。そのなかで日本人としての原點は何かをさぐる道は、尊いものである。矜持を持ち續ける根柢に何があるのかを探ることは大切である。しかし、それは決して神學である必要はない。直觀と眞情で感じ取つた天皇への敬意、それでいいのではないか。私はさう思ふ。しかも、もし神學が必要だとしても、キリスト教の言説を援用する必要は更にない。やぶれる やぶれないといふ次元で語られる神は、所詮キリスト教のやうな神學にはなり得ない。

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