昨年の収穫3冊といふことを例年やつてゐるが、今回はそれはできなかつた。不作であるわけではない。単に私の読書不足ゆゑである。
昨年暮れに、中国のある大学とのテレビシンポジウム(正式にはなんといふのか失念した)を見に出かけた(ネットでつながるので、費用はかからないといふのだからびつくり)。両国の教授が一人づつと、学生数人づつの会合で、私はオブザーバー参加。とてもこじんまりとしたもので(日本側は観客三人!)、中国の観客は十人ぐらゐで、テーマは岡倉天心の思想についてであつた。
予習のつもりで、『東洋の理想』を読んで行つた。なかに、かういふ表現があつた。
「征服の観念は、人間自身の外にあるものから内にあるものへと移ることにおいて、完全に東洋化した。剣を用いることではなくて、剣であること――純潔で、清澄で、不動で、常に北極星を指す剣であること――が、足利武士の理想であった。」
「〇〇を用いることではなくて、〇〇である」といふ比喩は、手段ではなく目的であるといふことを示してゐよう。さらにその目的は「北極星」であるといふ比喩は、それが現実的な目標なのではなく「理想」であるといふことをも意味してゐる。つまり、かうだ。何かを体現していくといふことは、それを手段とするのではなくたえず自分自身を確認するための理想とするといふことである。
この比喩を岡倉の有名な一句「アジアはひとつ」に当てはめれば、アジアが一つであると言ふのは、明治の時代も今日も現実の認識なのではないといふことになる。アジアといふ概念自体が現実を表現してゐないのは、文化、習慣、宗教、さらには政治経済体制、どれひとつ取つても明らかである。「アジアはひとつ」と言へる証拠は「ひとつ」もない。
岡倉がこのことを主張する五十年も前に、マルクスが生産様式の定義に「アジア的」といふことを唐突に書いた。奴隷制、封建制といふ生産様式とは別のスタイルがあるといふ意味で用いたものであつたが、その意味は、ヨーロッパ以外の国々といふ意味にすぎない。エジプト、トルコ、インドから日本までを含めて、「アジア」と呼べる理由は「非ヨーロッパ」といふ以外には見つからない。
さうであれば、岡倉が言はうとしたことをどう解釈すればよいか。かつて山崎正和が「脱欧入亜」といふ巧みなスローガンで言つたが、遅れて近代化してきた国々がこれからは「アジア」として「ひとつ」の文明を築き上げていきませう、といふ意味でとらへることにある。それは手段としてではなく、理想として掲げようといふことである。そのなかで、中国と、北朝鮮だけは、しばらくはアジアとは違ふ国として見て行く以外にはない。
昨年、韓国政府はずゐぶん理不尽なことを国際社会において日本にした。しかし、私は朴大統領を今も支持したい。問題は、中国である。あの国が共産主義国である以上、そして軍事力を背景にして威圧的な外交を展開してゐる以上、警戒すべき第一の国である。今年は、どうなるか。「アジアは一つ」を理想として現状が改善されることを願つてゐる。
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年頭のあいさつを、失礼させていただいてをります。