言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

真理は相対的であるといふこと。

2014年01月31日 10時37分41秒 | 文學(文学)

 アラン・ブルームは、『アメリカンマインドの終焉』の冒頭をかう始めてゐる。

 大学教授がこれは絶対に確実だと言えることがひとつある。大学に入ってくるほとんどすべての学生は、真理は相対的だと信じていること、あるいはそう信じている、と言うということ。

   「真理は相対的だと信じてゐる」、はともかく、「さう信じてゐる、と言ふといふこと」とはとても丁寧な観察による言葉だ。現代人は、信じる信じないといふことをあまり吟味しないで使つてゐるといふことである。つまりは、信不信といふことを軽率に使ふといふこと自体が、真理に対して曖昧であり、相対的な感想しか持ち合はせてはゐないといふことである。

 1986年のアメリカの大学とその学生への感想であるが、そのまま現在の私たちの状況である。

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追悼 たかじん

2014年01月09日 23時07分51秒 | 日記・エッセイ・コラム

 追悼の文章が続いてしまふのはじつに悲しいことだ。


 大阪にゐれば良かつた。さうすれば、もつとその死の哀しみについて共有できただらうに。そんなことをふと感じてしまつた。

 昨日の朝、顔を洗つてリビングに来ると、点いてゐたテレビが彼の死を伝へてゐた。春には復帰するだらうと思つてゐたのに。

  私は毒舌家が好きである。本音かどうかなどどうでもいい。ただその毒が自分に降りかかつて来ることを覚悟しながら、それでも言葉を磨いて巧みに発する言葉の使ひ手が好きなのである。

 東京にゐた時も、九州に住んでゐた時も、昨年から住み始めたこの愛知県でも、さういふ芸人はゐなかつた。たけしも、談志も嫌ひではないが、どこか抑制的である。もちろん、たかじんだつて抑制してゐる。しかし、そのぎりぎりのところが両者の違ひである。芸人ではないが野村監督も好きである。が、たまにしかテレビでは見かけない。

 大阪にゐれば、その死を悼んで多くの映像が見られただらう。そしていろいろな人が悼む思ひを言葉にしてゐるのを見聞きできたであらう。でも良くも悪くもたかじんは大阪の人間である。この地の人の口の端に上ることはまつたくない。

 もちろん、彼の死を家族だけで悼んでもいいのであるが、もつと知つてゐてもらつてもいいのではないかとも思ふ。とても残念だ。享年64。合掌

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追悼 遠藤浩一先生

2014年01月06日 23時02分29秒 | 告知

 今朝、遠藤浩一先生が亡くなられたことを知つた。友人からのメールである。言葉がない。まさか、そんなことがといふ思ひである。

 先日、正論で「『観念的戦後』に風穴開けた参拝」といふ文章を讀んだばかりであつた。事の本質を正確に射抜いた論考で、安倍総理の靖国神社参拝についてのどんな評言よりも納得のいくものであつた。安倍首相に「現実的な目標を達成するには、粘り強さと周到さが求められる」と書いてゐるが、遠藤先生にもそれを求めたかつた。体調のことを思ふと、きつと御無理をされたのはないかと想像される。55歳でのご逝去はあまりに早すぎる。

 人が言葉の存在である以上、政治も経済も言葉に宿る心の表裏をつかまへた文學の徒でなければ扱ふことのできない領域である。そのことを知つてそれらを評言することのできる方は、あまりゐない。遠藤先生のご逝去は、日本にとつて損失である。今、この人の文章が讀みたいと思へる人の死は、あまりにも悔しい。御冥福をお祈り申し上げますとは、今はまだとても言へる心境にはなれない。

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センター試験と小林秀雄

2014年01月02日 11時42分16秒 | 日記・エッセイ・コラム

 昨年のセンター試験の国語の一番、評論の出題は、小林秀雄の「鍔」であつた。たいへんな驚きで早速解いてみた。そしてさらに驚いた。設問の意味も答へも分からないのである。註もやたらに多い。怒りすら湧いてきた。小林秀雄の愛読者として、そして、受験生を送り出す教員としてである。言葉がある面では情報であるとしても、小林秀雄の文章を読ませて、その情報処理をさせようといふ魂胆が気に入らない。情報には、量的なものと質的なものもあらう。情報学者の西垣透氏にならへば、機械情報と生命情報である。機械的な情報の一致不一致を正確に測ることが入学試験の現代文の目的だとしても、その題材に小林秀雄を用ゐるとはどういふことだらうか。出題者はきつと小林秀雄の読者であらう、だからこそ全国の青年50万人に一斉に、しかも寒い冬の朝に真剣な読解をさせたいといふ衝動にかられたのであらう。しかし、それは不幸な出来事であつた。その日の読者(つまりは受験生)は、きつと嫌な思ひ出を小林秀雄に抱いてしまつたのである。


 私の学生時代は、小林秀雄全盛の時代であつた。小林秀雄の随筆には、娘が持つてきた自分の文章の出題を見て、「こんなひどい文章を書くやつは誰だ」と言つたといふ冗談話のやうな実話があるが、それでも小林は、自分の文章を出題するなといふことは言はなかつた。書かれた物は、作者の手を離れれば作者の物ではないといふ自覚があつたからであらう。

 しかし、小林秀雄の文章を大学入試で使ふといふのは、やはり問題がある。教科書で扱ふのならまだいい。しかし、やはり入試にはそぐはない。小さい声で言へば、私はセンター試験には現代文はいらないとも思つてゐる。その代はりに、二次試験でどの学部も現代文を課すべきだと考へてゐる。それは要約問題でいい。試験時間も30分程度でいい。書かれたものを正確に読み取るといふことは、細部のささいな読み取りではなく、ざつくりとでいいから、主旨をとらへるといふことである。さういふ問題は全学部でなされていいと思ふのである。

 政府は、入試を改革するといふと、大きな枠組みの変更を目指すが、さういふ大事にかかる前に、小さな改革=ピースミールエンジニアリングといふのでいいのではないか。

 書きたいことが何であつたか忘れてしまつた。小林秀雄について書きたかつたのだが・・・・・・

 新潮文庫に、対談集が入つた。その紹介だつたか。

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岡倉天心『東洋の理想』

2014年01月01日 09時57分58秒 | 日記・エッセイ・コラム

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 昨年の収穫3冊といふことを例年やつてゐるが、今回はそれはできなかつた。不作であるわけではない。単に私の読書不足ゆゑである。

 昨年暮れに、中国のある大学とのテレビシンポジウム(正式にはなんといふのか失念した)を見に出かけた(ネットでつながるので、費用はかからないといふのだからびつくり)。両国の教授が一人づつと、学生数人づつの会合で、私はオブザーバー参加。とてもこじんまりとしたもので(日本側は観客三人!)、中国の観客は十人ぐらゐで、テーマは岡倉天心の思想についてであつた。

 予習のつもりで、『東洋の理想』を読んで行つた。なかに、かういふ表現があつた。

「征服の観念は、人間自身の外にあるものから内にあるものへと移ることにおいて、完全に東洋化した。剣を用いることではなくて、剣であること――純潔で、清澄で、不動で、常に北極星を指す剣であること――が、足利武士の理想であった。」

「〇〇を用いることではなくて、〇〇である」といふ比喩は、手段ではなく目的であるといふことを示してゐよう。さらにその目的は「北極星」であるといふ比喩は、それが現実的な目標なのではなく「理想」であるといふことをも意味してゐる。つまり、かうだ。何かを体現していくといふことは、それを手段とするのではなくたえず自分自身を確認するための理想とするといふことである。

 この比喩を岡倉の有名な一句「アジアはひとつ」に当てはめれば、アジアが一つであると言ふのは、明治の時代も今日も現実の認識なのではないといふことになる。アジアといふ概念自体が現実を表現してゐないのは、文化、習慣、宗教、さらには政治経済体制、どれひとつ取つても明らかである。「アジアはひとつ」と言へる証拠は「ひとつ」もない。
 岡倉がこのことを主張する五十年も前に、マルクスが生産様式の定義に「アジア的」といふことを唐突に書いた。奴隷制、封建制といふ生産様式とは別のスタイルがあるといふ意味で用いたものであつたが、その意味は、ヨーロッパ以外の国々といふ意味にすぎない。エジプト、トルコ、インドから日本までを含めて、「アジア」と呼べる理由は「非ヨーロッパ」といふ以外には見つからない。
 さうであれば、岡倉が言はうとしたことをどう解釈すればよいか。かつて山崎正和が「脱欧入亜」といふ巧みなスローガンで言つたが、遅れて近代化してきた国々がこれからは「アジア」として「ひとつ」の文明を築き上げていきませう、といふ意味でとらへることにある。それは手段としてではなく、理想として掲げようといふことである。そのなかで、中国と、北朝鮮だけは、しばらくはアジアとは違ふ国として見て行く以外にはない。

 昨年、韓国政府はずゐぶん理不尽なことを国際社会において日本にした。しかし、私は朴大統領を今も支持したい。問題は、中国である。あの国が共産主義国である以上、そして軍事力を背景にして威圧的な外交を展開してゐる以上、警戒すべき第一の国である。今年は、どうなるか。「アジアは一つ」を理想として現状が改善されることを願つてゐる。

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年頭のあいさつを、失礼させていただいてをります。

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