言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

ケイパビリティ(capability)って?

2016年07月31日 11時17分50秒 | 日記

  眠りの浅い日々が続いてゐる。暑いといふよりも、エアコンの切り忘れで寒いせいかもしれない。なんとも贅沢で間抜けなことだが、寝付けない苦しみを避けたい思ひが強い。

  昨日は、大切な友人に会つて少し興奮したせいなのかも知れない。深夜帰宅して時間と共に体が火照つてきた。まずいなと思つたが動悸もしてきたが、ともかく休まうと思ひ横になつたが、案の定寝付けない。

  こんなことをだらだらと書いても仕方ない。本題は、これからである。

 浅い眠りの中で、標題の言葉、ケイパビリティ(英語:capability)といふ言葉で起きたのである。意味も分からず、とにかく忘れないやうにと思つてネットで検索すると、かうあつた。


ケイパビリティ(英語:capability)とは経営学防衛産業での用語の一つ。これは企業組織が持つ、全体的な組織的能力、あるいは企業や組織が得意とする組織的能力のことを言う。


多分何かで読んだのだらう。今の私には、とても示唆的な言葉である。それ以上に、この言葉との出会ひを深めようとは思はないが、心に留めておかうとも思ふ。

 浅い眠りの呼び寄せた狂気である。夏の夜の夢。


  東京出張に向かふ車中にて。


 

 

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インスタントラーメン発明記念館へ行く

2016年07月30日 07時44分43秒 | 日記

 大阪にゐた頃には、行つたことがないところを少しずつ訪ねて行かうと思つてゐる。今夏は、池田市にある「インスタントラーメン発明記念館」を訪ねた。http://www.instantramen-museum.jp/jp/

 前々からその存在は知つてゐたし、オリジナルのカップラーメンを作ることもできるといふことも聞いてゐた。「いつでも行ける」といふ思ひと「カップラーメンなんて」といふ思ひとがあつて、ためらつてゐた。忙しかつたといふこともある。でも気にはなつてゐた。

 ジャンクフードといふものの定義は、「カロリーはあるが栄養のないもの」である。カップヌードルはその典型である。「カロリーと栄養」とがパラレルであつた時代には、かういふ食べ物は存在しなかつた。戦後の社会が生み出した正統な食べ物なのであらう。決して接客時に出される食べ物ではないけれども、市井の私たちには欠かせない食べ物である。さういふものへの評価をきちんとできなければならないとの思ひがあつた。

 カップラーメン作りには予約は必要なかつた。ものすごい人だかりで驚き、そのほとんどが外国からの観光客であるのも驚いた。説明を受ける時も「日本人ですか」と訊かれた。ちょっとポップなシャツを着てゐたからかもしれないが、それほどに外国人が多かつたのである。

 

 

 上は、発明に至るまでに実験を繰り返した部屋の再現。屋根に雀が二羽乗つてゐた。かういふところがいい。一人で孤独に作業を進めてゐた。時間はそれをはお構ひなしに進んでいく。自然と人為。その対比を象徴してゐるやうに思はれた。発明に至るまで家族はどう思つてゐたのであらうか。それをふと感じた。小屋は、完成の目途が立つた1958年3月5日の未明、安藤百福(ももふく)が眠りについた直後の光景を再現したものだと言ふ。

 カップラーメンができるまでを描いたアニメを見る部屋があつた。一つの製品が出来上がるまでには、ベールを一枚一枚はがしていくやうに、試練と克服との連続である。何かを始める前には気づくことができない試練が次々に現れて来、それを時間をかけて(時間がかかって)解決していく。構想が現実化していくまでの工夫が問はれていく。完成すれば、まさに「コロンブスの卵」と思はれるやうなことも、出来上がるまでには全く見えてゐなかつた事柄である。それが現れるまで忍耐し、工夫する。さういふ時間が尊い。物作りに求められることであり、喜びでもある。百福の精神をその後の技術者もまた受け継いでゐるのだらう。

 カップラーメンを作つた。カップ代として300円を払ふ。あとはカップに絵を描いて、入れる具材を選択すれば完成。広い部屋いっぱいに親子が座り、ワイワイ言ひながら絵を描いてゐた。作業であつた。

 二階には、安藤が毎年書いてゐたといふ年頭所感の書が並べられてゐた。その字が素晴らしかつた。書を愛好してゐたのであらう。経営者で字がうまい人。今はゐるのだらうか。

 外国から友人が来たら、一度案内してみたい。東京や地方の友人たちも関心があるなら連れて行つてもいいなとも思つた。製造過程には戦後の日本があつた。

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「進」撃のゴジラ

2016年07月29日 20時57分47秒 | 日記

 シン・ゴジラを観て来た。子供の頃に見たものは、大人になつても惹かれるものだ。今日は初日。しかも第一回目の上映。前々から予約して観に行つて来た。と言つても内心ではあまり期待してゐなかつた。前回見たハリウッド版のゴジラが秀逸だつたので、あれを越えるものは日本では作れないだらうと思ひ込んでゐたからである。CGにしても、どこか貧相な日本版を見せられるやうな予感があつたからでもある(私より若い人よりも、同年齢かそれ以上の人が多かつた。平日のこの時間に観に来られる人といふのは、さういふ年齢層だらうと思ふが、内容からしても子供が観て楽しめるかどうかは不明である)。

 しかし、予想は外れた。とても良かつた。何が良かつたと言つて、このゴジラには何も感情移入できないといふことの良さである。哀愁や憎悪が込められたこれまでの日本のゴジラはロマン的であつたが、さういふものとはまつたく異なる。叙事詩のやうな作りである。それがいい。それでゐて、明確なメタファーとなつてゐる。

 あるいはまた、事の当否は分からないが、今日の日本に正体不明の物体が来襲し、未知の事態が起きた場合に政府がどう行動するのかといふことに注力して作られてゐたことに興味が沸いた。ハリウッド版との差別化は明確であつた。平和憲法下の日本では、何が出来、何が出来ないのか、それを事実に基づいて描いてゐる。こちらはメタファーではない。

 現実と寓意とが織り合はされてゐる映画であつた。

 最後に、「シン・ゴジラ」の「シン」である。「新」や「真」もあるだらうが、内容からすれば「進」であらう。タイトルにした「進撃」の「進」でもあるが、もう一つの熟語「進〇」の「進」でもある。それを書いてしまふとこれから見に行く人が面白くないだらうから、それはしばらく経つてから明かすことにする。

 

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誰か止めてやれなかつたのか。佐藤優と灘校生との対話

2016年07月28日 22時18分01秒 | 日記

 新潮社のPR誌『波』の最新号が届いた。巻頭、佐藤優と東大教授の加藤陽子との対談が載つてゐた。私の読書生活にはまつたく影響を与へない二人であるが、灘校生への講義といふことだつたので読んでみた。

 今、世界が帝国主義化してゐるといふ時代認識で話ができあがつてゐるといふ。もうこの時点で付いていけない(ついていく気もないのだが)。さういふ兆候もあるだらう。しかし、かういふ世界認識からどういふ知識や能力を獲得していけばいいのかといふことが導かれるとすれば、それは大きな間違ひである。いつも書いてゐるやうに、中等教育といふのは何かの手段になるものではなく、それ自体が目的でなければならない。帝国主義化の当否にも問題はあるが、それ以上に中等教育がさういふ世界観に役立つやうにあるべきだといふ認識が的外れなのである。もちろん、中等教育全体のありやうとして論じたものではないといふ弁解も可能である。しかし、やはり教育には普遍といふものがあるのであつて、中等教育の普遍は、教育内容が何かの手段になつてはいけないといふことである。

 それから、このお二人は、現政権について「反知性主義」とレッテルを貼つてゐる。しかし、この言葉の誤用ももうそろそろ修正される必要がある。今年の東京大学の国語の入試問題の大問🈩評論の文章にも、まさしくこの「反知性主義」を論じた内田樹の文章が取り上げられてゐた。知性を駆使して相手に説明し続ける態度の真逆のものとして内田は反知性主義を理解してゐる。しかし、反知性主義といふのは、先日本欄でも取り上げた先崎の著書『違和感の正体』がきちんと定義してゐたやうに、「知性主義の独断を不断にチェックする」といふのが反知性主義の本質である。知性への冒涜が反知性主義の特徴なのではなく、知性は弾力性を失ひイデオロギーとなりやすいからそれを自省しようとすることを特徴とするのである。もし現政権を批判するのに「反知性主義」を使ふとすれば、じつは褒めてゐることになる。私はそれでも一向にかまはないが、それで佐藤や加藤や内田はいいのであらうか。

 佐藤の言動に私は信を置いてゐない。だから氏の本を読まないから一つ一つ引用して批判することはできないが、今見たやうな片言隻句でさへいい加減な言葉遣ひなのである。さういふ人に高校生が学ぶ機会を作るとは大人は何をしてゐたのかと思ふ。誰か止めてやれなかつたのか。

 灘校生に足りないのも、反知性主義である。佐藤や加藤や内田に足りないのも、それである。簡単に信じすぎである。知性の魔力を恐れよ。

 

 

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『ソークラテースの弁明』を讀む

2016年07月27日 15時24分05秒 | 日記

 田中美知太郎のやうな哲学者が果たして今ゐるのだらうか。それはどういふ意味かといふと、哲学が学問としてあるのではなく(つまりは現在を生きてゐる人間として)、日本人として(つまりはどこの国のどこの時代にも通じるやうな無国籍な発言をする人ではなく)、時代の流行思想とは何の関係もないところで(つまり思想の輸入業者としてではなく)、発してゐる人といふ意味である。

 哲学の研究者はゐなければならないし、どこの国の研究者とも疎通できる普遍的人間像を追究する必要もあるし、最先端の研究成果を日本に紹介する役割を担ふ哲学研究者はゐてもいい。しかし、さういふ人だけであることに一般の読者としては不満がある。もちろん、田中美知太郎が世界の哲学者に伍してゐないといふことを言つてゐるのでない。

 私の田中美知太郎評など何の意味もないのであるから、言ひたい放題であるが、とにかく碩学である。言葉に重みがあると言つては月並みだらうが、正確な語学力に導かれたプラトン研究と、それを通じた現代社会評に信を寄せてゐるのである。私は、論理は嘘をつくと思つてゐる人間だから、その人の論理の出発点が信頼するに足るか足りないかでその人の論理を信じるか信じないかを決めてゐる。その点で、田中美知太郎は信なのである。何を偉さうにと自分でも思ふが、生意気な私には今もまだかういふ表現しか浮かばない。

 『ソクラテスの弁明』が読みたくなつた。高校時代の夏休みに読んだ。たぶん。新潮文庫だつたと記憶する。しかし、まつたく覚えてゐない。それで1997年に読み直した。なぜ分かるかといふと、大阪の自宅の書棚から、そのとき読んだ中央公論の『世界の名著』に日付があつたからだ。そして、今回読んだ。新潮文庫版である。そのタイトルは『ソークラテースの弁明』である。中央公論も、新潮文庫も田中美知太郎である。岩波にも、光文社にも入つてゐるが、なぜか田中美知太郎でしか読む気がしない。といふのは嘘で、今回新潮文庫で読み終はるまで、『世界の名著』のことはすつかり忘れてゐた。読んだことすら忘れてゐた。本を開き、メモまでしてあるのにである。お恥づかしいかぎり。記憶がここまでなくなるのは痛快ですらある。

 その結果、三回とも田中美知太郎で読んだといふことになる。そこで、冒頭のやうな後付けが出てきたのかもしれない。いい気なものである。田中美知太郎の贔屓の引き倒しになつてしまふ。

 でも、私の田中美知太郎評など何の意味もないのであるから、言ひたい放題である。とにかく碩学である。

 本書から引く。今回は何も感じなかつたが、前回読んだ時には、線が引かれてゐた。

「よき人には、生きているときも、死んでからも、悪しきことは一つもないのであって、その人は、何に取り組んでいても、神々の配慮を受けないということはないのだという、この一事を、真実のこととして、心にとめておいてもらわなければなりません。」

 この「よき人」になるべく生きたいと思ふ。田中美知太郎は、その「よく生きたいとして生きた人」であると私は考へてゐる。

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