言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

読書会の難しさ

2023年03月31日 11時19分27秒 | 評論・評伝
 先日、ある読書会に参加した。4年ほど前にも参加したことがあるが、どんな風に進めていくのかもすっかり忘れてゐたのでしばらくは様子を見てゐた。
 テーマとなつた本について順々に感想を述べてゐるやうだつた。それはまあ普通に答へて、一巡し終はつたところで、何か仰りたいことがある方は御自由にといふので、少しのべさせてもらつた。
 すると70歳ほどの常連らしきお方が、「そんな事を発表者に訊いて時間をかけてここで話し合ふ意味があるか」と言つて来た。
 話し合ふ意味とはどういふ意味なのか、私には全く分からなかつた。意味なんかないと言へばない。そもそも読書会にいやいや読書自体に意味があるのかどうかも分からない。意味がなければ何もしないといふのが私には暴言のやうに思へた。
 何のことはない。その御仁は自分の話がしたいといふことに過ぎないといふのがその後の様子を見てゐて分かつた。

 読書会にはかういふ仕切り屋といふ人がゐるのだらう。その人の意向に添へるかどうかで読書会が楽しいものになるのかどうかが決まる。私にはこの会は合はないやうだつた。論争的なやり取りが全て素人談議。どこかで誰かが書いてゐることをさも自分の意見のやうに言つて自己満足に耽つてゐる。こんな趣向よりは、それぞれの感想を聞くだけの方がいい。
 自我の権化を量産する読書会には警戒したい。
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スマホと老婦人

2023年03月29日 16時08分12秒 | 評論・評伝
 先日スマホの料金プランの見直しに行つた。コロナが明けて再び出張が増えると、スマホを使ふ機会が増えると見込んでのことだ。結果的にはこのままでいいといふことになり、疑問に思ひながらもそのままにしておいた。
 それはそれで終はりなのだが、店先で気になる場面に遭遇した。それが老婦人と店員さんとのやりとりである。
 八十を過ぎた彼女がスマホを契約したいといふことで来店したやうだつた。「知らないうちに解約されてゐて困つてゐる」とのことだつた。
 しかし八十歳を越えた人の契約には家族の同意が必要で、家族に電話をかけて欲しいと言はれてゐた。それで電話をかけたのだが、娘さんは「これから出かけるところなので今晩家でね」といふことになつたらしい。
 なぜこんなに詳しく知つてしまつたのかと言へば、とにかく耳が遠いその御婦人相手に店員さんの声は店に響きわたつてしまつた。しかも何度も聞き直すので、少し刺々しいニュアンスがあつて聞きたくなくても聞こえてしまつた。
 重苦しい空気が店中に漂つてゐる。

 店員さんを責める気持ちもないし、老婦人を擁護する気持ちもない。ただきつと家人によつて老婦人の承諾の下スマホを解約されたのだらうといふ予感が私にはあつて、この悲劇にそれを知らない振りをしながら店員さんが巻き込まれてゐるといふことを感じて辛かつた。

 かういふことは将来誰にも起きる事柄であらう。それだけに「辛かつた」では済まされない事柄ではある。
 辛い時間から逃げるやうにして私は店を出た。
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時事評論石川 2023年3月20日(第827)号

2023年03月22日 21時04分27秒 | 評論・評伝
 今号の紹介です。
 国会の議論のくだらなさは、昨日今日のことではないが、最近のものは最早「くだらない」ではすまされないほどの酷さである。
 小西議員の議論は、附き合ひきれない。だから、ここでも細かいことには触れないが、根拠も示さずに憶測で言ひがかりをつけるのはいい加減にせよ。それから杉尾議員の高市氏への批難も全く当たらない。それに対して「信じないなら質問しないでいただきたい」は私には正論に思ふが、如何。議論とは「よりよきもの」を巡つて交はされるところに意義があるだが、自分は絶対正しく相手は絶対間違つてゐるといふ決めつけで交はされるのは最早議論ではない。折伏である。自分と他者とが共に真実に至らうと努力するから議論が成り立つのだ。他者不信=自己絶対化なのだから、さういふ図式の中では議論は成立しない。高市氏は正しい。発言を撤回したのは政治的判断だし、謝罪しないのは倫理的判断である。それも極めて正鵠を得てゐる。近年まれに見る痛快事である。

 今号の紹介は、荒井勝喜首相補佐官のオフレコ発言を毎日新聞が報じたことへの批判である。1面の記事と4面のコラムであつかつてゐる。全くその通りである。その場で果たしてその記者は批難したのであらうか。それなしに、報道するといふのは、卑怯である。かういふ「正論」は偽善である。いつも自分を安全地帯に置いたまま、正義をかざして悪を懲らしめる。それで果たして世の中は良くなるか。直観で言へば、全体主義を引き寄せて行くやうな気がするのである。

 どうぞ御關心がありましたら、御購讀ください。  1部200圓、年間では2000圓です。 (いちばん下に、問合はせ先があります。)
            ●   
「毎日」のオフレコ破り
 「やったもん勝ち」の無法行為が野放しに
    ジャーナリスト 伊藤要
            ●
コラム 北潮(大江健三郎と国学思想の関係)
            ●
壮大な虚説「強制連行」「強制労働」を広めた元凶 朴慶植
  麗澤大学国際問題研究センター客員教授 勝岡寛次
            ●
教育隨想  日米同盟と国体の間にある、深刻な亀裂(勝)
             ●
『南京事件はなかった』
  捏造を確信、決定版と言ふに相應しい
    団体職員 清水明彦
            ●
コラム 眼光
   機能しない放送法(慶)
        
            ●
コラム
  保育所増設で出生数増加?(紫)
  いつまで続く、解釈改憲(石壁)
  無知のヴェール(星)
  偽善といふ病(梓弓)
           
  ● 問ひ合せ     電   話 076-264-1119    ファックス   076-231-7009
   北国銀行金沢市役所普235247
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土屋陽介『僕らの世界を作りかえる哲学の授業』を読む

2023年03月20日 16時54分32秒 | 評論・評伝
 子供のための哲学教室、といふものにとても興味がある。
 もう50年も前のこと、自分自身の子供時代を振り返ると、私は考へるといふことが生きるといふことだと感じてゐたのだらうと想像される。
 何となく格好いい表現だが、実態はさうではない。哲学の作法も分からないから理屈つぽい少年といふことでしかない。「屁理屈屋さん」といふ言葉を「格好いい表現」とは思はないだらうから、まさにさういふ存在だつた。
 それでも小学5,6年生の担任の先生は、さういふ私を妙に可愛がつてくれて、すべての生徒と交換日記をやつてくださる先生だつたので、私の面倒くさい「屁理屈」にもていねいに付き合つてくださつてゐた。そのノートは今もどこかにあるやうな気もするが、今の自分はそんな屁理屈屋はうんざりだから、見返したくはない。
 
 なぜこんな思ひ出話を書いたかと言へば、ゲームに時間を奪はれてゐる現代つ子たちも、案外屁理屈屋さんはゐるもので、さういふ屁理屈に付き合つてくれる大人を待つてゐるのではないかと考へるからである。生きるためには考へるといふことをしなければ二進も三進も行かない少年はゐるからである。
 しかも、その「考へる」が屁理屈に終はらず、ちやんと「考へる」スキルを身に着けさせれば、立派な「考へる人」になれるからである。
 感情でものを言ふ大人になるのではなく、あるいは自己顕示欲だけで主張する大人になるのではなく、立派な「考へる人」になつてほしい。
 先日もある読書会に参加したが、どこかで読んだことをさも自分で考へたかのやうに台詞のやうに朗々と話したり、露骨に自分の考へと異なると不快な表情をしたり、自分の職業や経歴を話してその分野では俺の主張に一日の長があるとばかりに発言したりする人たちを見たが、考へる振りは出来ても「考へる人」にはなれてゐないなといふことを感じた。

 本書の紹介にはついにならなかつたが、この本は、さうした「考へる人」になるための哲学教室のつくり方を指南してくれてゐた。哲学こそが世界を変へるといふことはひとまづ置いておくとして、考へることの大事さを私もまた感じてゐるので、是非ともそのことに賛同する人は読んでほしい。
 哲学教室を主宰するのに私は向いてゐない気がするが、その実践に憧れてはゐる。

 
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