言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

『ヴィゴーツキー心理学』を読む

2021年02月26日 14時35分41秒 | 本と雑誌

 

 

 一般にはヴィゴツキーと日本語では表記されるが、この著者中村和夫氏は「ヴィゴーツキー」と書く。ロシア語はまつたく分からない私にはどちらが原音に近いのかどうか分からないが、ヴィゴツキーが言ひやすい。学会名もこちらである。

 それはともかく、この本はブックレット形式で非常に薄い(全体で98頁)が、とても分かりやすい。ヴィゴツキーの全体像を明らかにすることはいい意味で断念されてをり、タイトルのように「心理学」のみに焦点を当ててゐる。中でも「内言」といふ独特の術語の説明を中心にしてゐる。

 これがとても分かりやすかつた。人間には言葉にして口から出る前に、心のうちに漠然としてゐて、「非文法的で、主語や説明後が省略された、ほとんど述語の連鎖で成り立っている」ものがあり、それが「内言」である。

 そして、その内言を再構成して、自覚的随意的に表現することができるようになって生まれるのが書き言葉であり、子供の成長には、この書き言葉の教育が大事であるといふのだ。

 話し言葉と書き言葉の関係は、ヴィゴツキーによれば「算数に対する代数と同じ関係」であると言ふ。

 少し引用する。

「注意にしろ記憶にしろ算数操作にしろ、子どもがその心理過程を自覚し、随意的に支配できるようになるためには、それが生活的概念――偶然的な結合による非体系的な言葉の意味のまとまり――に媒介されているだけは不十分なのである。これらの心理過程が科学的概念――体系化された言葉の意味――によって媒介されたものになることがふかけてつなのである。」

「生活的概念」が「科学的概念」になるには、書き言葉の教育が必要だといふことだ。つまりは自然発生的にはその移行は起きないのである。「結合」から「体系」へと言ひ換へてもよいだらう。

 これは非常に面白い考へ方だと思つた。

 例へば、かういふ話し言葉はまだ複合である。

「その人が自転車から落ちたのは、落ちて大変な怪我をしたからです。」

 科学的に体系的に言葉で表現しきれてゐない。内言のままである。

 因果を言ふなら、「その人は自転車から落ちたので、大変な怪我をした」であらうし、あるいは「その人が大変な怪我をしたのは、自転車から落ちたからです」となる。

 書き言葉の訓練とは、心理学的に言ふと心理の過程を体系化するといふことになるやうだ。

 そして、その延長上に「人格」といふものが示される。教育において書き言葉の教育が必要な所以である。

 

 

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時事評論石川 2021年3月号

2021年02月23日 10時02分26秒 | 告知

今号の紹介です。

 一面は、拙論である。今思へば、タイトルは「揚げ足取りの国民とご機嫌取りの政治家と」の方が良かつたか。テレビをつければ、コロナ禍の話ばかり。それも政府の批判ばかり。一向に医療の状況が改善しないのは、政府の無策より医療従事者の怠慢であると思ふ。特にあの医師会の連中である。感染症の2類相当を5類に変更せよと医師会が言はぬかぎり、政府が変更をすれば批判の放火は政府に集中する。もちろん、政策実行は政治の決断である。政治家にその覚悟がないことを悲しむが、さうであれば二次的な手段としては医師が決断すべきである。「医師会に所属する民間医が地域内の医療を分担するので、コロナ患者を受け入れる病院は名乗り出てください」と宣言し、それを行へばよい。そして、その時にはロビー活動を行つて感染症患者を受け入れる病院には厚く手当てを出してほしいと政府に要求すればよい。さういふことができないのに、医師会が政府を批判ばかりしてゐる。そして、それに拍手喝采を送る国民はひどい。それを「自己家畜化」だとして批判した。

 「この世が舞台」はチェーホフの「いひなづけ」。冒頭に「神父の子息アンドレと婚約し、近々結婚することになつた」といふところで、目が留まつた。神父も結婚するんだなと思つたからである。ロシアではさうらしい。最後に留守先生が引用したヴィトゲンシュタインの言葉に心打たれた。「己を善くすること、世界を善くする為に我々に為し得るのはそれしかない」。

 どうぞ御關心がありましたら、御購讀ください。  1部200圓、年間では2000圓です。 (いちばん下に、問合はせ先があります。)
                     ●   

無自覚な利己主義の国民と土機嫌取りの政治家と

  文藝評論家 前田嘉則

            ●

コラム 北潮

            ●
事実を感情で読み解く愚――極論が競われる誰もが発信できる時代

  新聞記者 伊藤 要 
            ●
教育隨想  「土着倭寇」とは何か――日韓関係の新展開(勝)

             ●

コロナ禍で露わになる日本及び日本人の脆弱性

  元中村学園大学教授 青木英実

            ●

「この世が舞台」
 『いひなづけ』 チェーホフ
        早稲田大学元教授 留守晴夫
 
            ●
コラム
  日韓認識ギャップと米国(紫)

  ”専門家”という名の予言者(石壁)

  やせ細る保守思想(星)

  やはり「みなさまのNHK」に非ず(白刃)
           

  ● 問ひ合せ 電話076-264-1119  ファックス 076-231-7009

   北国銀行金沢市役所普235247

   発行所 北潮社

 

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『医療につける薬』を読む

2021年02月14日 11時08分10秒 | 評論・評伝

 

 

 タイトルからすると、医療界に対する指弾のやうにも思へる。確かに、代表筆者の岩田健太郎氏は現役の医師である。神戸大学大学院医学研究科で感染学を専門とする医学研究者でもある。コロナ禍の中、ダイヤモンド・プリンセス号に乗り込んだ医師と言つた方が分かりやすいかもしれない。

 しかし、氏が対談相手に選んだ鷲田清一、内田樹両氏は共に思弁家だから、医療に限つての話題ではない。ひろく人間学、世間学、日本社会論と広範にわたつてゐる。それがたいへんに面白かつた。休日一日この読書に当てたが、とても興奮した一日だつた。

 話が多岐にわたるので、まとめることはしない。箴言の連続といふことで、私が付箋を貼つた数は、ちやうど30。きらきらと思考を刺戟してくれた。かういふ読書は久しぶりだ。深い思考が出てくるわけではないが、「なるほどね」といふ気持ち良い感覚が幸福感を抱かせてくれた。

 一つだけ例をあげる。岩田氏は、以前から時間の前後と空間の前後が「逆」ではないかと感じてゐたと言ふ。つまり、日本語では過去を前と言ひ、未来を後と言ふ。12時より過去が午前で、未来が午後である。当たり前の話だが、これが空間的な表現になると、前は目の前のことを指し、後ろは視線とは逆の方向を指す。逆になつてゐる。これを空間に合はせるなら(私たちが時間をとらへるモデルは時計で、それは時間を空間化したものだから)、見てゐる未来を午前と言ひ、見えなくなつた過去を午後と言つた方が良いのではないか、といふのである。

 すると、すかさず鷲田氏は、かう言ふ。

「それは、ベンヤミンのイメージを使えば一発で説明できますよ。天使は過去のほうを向きながら風によって未来へと飛ばされていく、進歩とはそういうものだと言った。」

 つまり、時間は後ろを向きながら前に進んでゐるので、過去の方は見えてゐて未来は見えてゐないから、前と後ろが逆になるといふことだ。見えないところを後ろと言ひ、見えるところを前と言ふ。だから、時間的にも空間的にも見えてゐたところが前(午前、目の前)で、見えないところが後ろ(午後、背後)といふことになる。日本人の前と後ろの概念がバラバラではなかつたのである。

 ベンヤミンといふ補助線がすぐに出てくるのは鷲田氏さすがであるが(当然かもしれない、氏には失礼かな)、かうして日本人のものの理解の仕方がくつきりと浮かび上がつたことに驚いた。この種の驚きに満ちてゐる。

 2014年の出版だが、今頃にして読んで痛快であつた。

 

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逆説といふこと

2021年02月13日 16時04分38秒 | 日記・エッセイ・コラム

 「逆説」の説明を授業でした。

 一見間違つてゐるやうに見えるが、じつは真実を突いてゐる状態、またはその表現、と定義した。例へば、「急がば回れ」である。

 この言葉には起源があつて、元は歌である。連歌師の宗長の詠んだ「もののふの矢橋の船は速けれど急がば回れ瀬田の長橋」(諸説あり)であるといふ。武士が京都に行くときに、現在の草津市にあつた矢橋の渡し船を利用して琵琶湖を渡るよりも、現在の大津市にある瀬田唐橋を利用した方が着実であり、結果的には目的地に早く到着するといふことを意味したものであるさうだ。

 それはともかく、「では、同じやうなことわざを一つ挙げてみよ」と言ふと、しばらく考へて「紺野の白袴」だとか、「雨降つて地固まる」だとか、思ひ思ひのことわざを書いてみせるが、私としては「?」がついてしまふものばかり。

 以前の生徒ならかうはならなかつたが、やはり今の生徒は変化してしまつたのだらうか。

「負けるが勝ち」だとか「逃げるが勝ち」だとか、あるいは「可愛い子には旅をさせよ」だとか、が出てくるかと思つたが出てこない。

 彼らにとつて「矛盾」といふ表現はよく分かるやうだ。しかし、それを越えた先に真実が見えるものが「逆説だ」と言ふと、それは「先ではなく手前ではないか。なぜつて、矛盾してゐないんでせう。ならば、矛盾の前といふことになりませんか」と言ふ。「一見~、じつは~。」といふ説明は、「手前」で起きてゐるといふことらしい。しかし、考へてみてくれよ。「急がば急げ」が正説で、急ぐならば回り道などせずに最短距離で行けといふことだらう。それなのに、「回れ」なのであるから、まづは「矛盾」である。しかし、よくよく考へてみたら「間違つてゐない」から「逆説」になるのである。これは「矛盾の先にある」といふ表現の方が正しい。

 「逆説」といふ表現は、本を書く人でも間違つて使つてゐることが多い。今、いい例文が見つからないが、「逆に」と言へば済むのに、わざわざ「逆説的に」と使ふ場合である。

 ネットにあつた例……「最近、ソーシャル・メディアにより抗議活動が勢いづいていると言われています。その通りなのですが、十年来複数の社会運動の研究や参加を通して私が気付いたことは、テクノロジーは社会運動に力を与えると共に、逆説的ながら力を奪いもすることです。必ずそうなるわけではないとは言え、長期的に上手くいくものを模索する必要があります。そして、そのことは様々な分野にも当てはまります。」

 これなど「逆に」とすれば済むことだ。かういふ使ひ方(誤用)が増えてくれば、逆説の意味も曖昧になる。

 だから、正しく逆説を教へたい。

 

 

 

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鈴木孝夫氏の逝去を悼む

2021年02月12日 11時53分19秒 | 評論・評伝

 今朝の読売新聞で、言語学者の鈴木孝夫氏のご逝去を知つた。

 94歳といふから大往生であるが、喪失感はそれとは関係がない。英語教育について、全国民に4技能(読む書く話す聞く)を課すことの無意味を強く主張され、大事にすべきは日本語であることを熱弁される英語学者は貴重である。

 どうして、これほど英語教育に文部科学省は熱心であるのか。当の大臣は果たして英語が堪能であるのか私は寡聞にして知らないが、自分ができないことを全国民に課すといふことには、もう少し慎重であつて良い。もちろん、英語を勉強したいと言ふ人にやるなと言ふのもをかしいが、やりたいくないといふ人にやれといふのには、しつかりとした見識を開陳すべきであらう。これまた私は寡聞にしてさうした丁寧な説明を聞いたことがない。言はれるのは、これからはグローバル社会だから、といふ極めて貧しい社会観でしかない。世界のグローバルスタンダードがナショナリズムの再認識に至つてゐるのに、日本だけが周回遅れの英語化を目指す、しかも全国民に英語4技能を課すといふのは冗談話である。英語ができる人を徹底的に育てる、それは必要だらう。しかし、一生英語を使はないといふ人がゐることも事実である。そんな人に「4技能」を課すのは愚の骨頂。私もリスニングテストの監督をすることがあるが、気の毒だなと思ふ。

 「読む」「書く」を標準にして何の問題があるだらうか。しかも、文科省が目指す4技能といふものの正体もいびつである。今年の共通テストのリスニングテストの監督をした折に聞いたその内容はじつに幼稚園生の会話であつた。今年から「一回読み」もあつたが、そのレベルは「君が好きな果物はどれか」である。さういふ会話なら、「音声」ではなく実際の場面であれば、正確に聞き取れなくてもそこにゐれば分かる。それを音声に限つて「リスニング」テストにするといふのは、テストのためのテストといふことにならう。

 そもそも私などは耳が弱いから、日本語でも聞き取りが苦手だ。さういふ要素も「リスニング」にはある。しかし、「苦手」程度では免除にはなるまい。

 英語教育は何のためにするのか。それが崩れてゐるやうに思ふ。

 私たちの近代は、外国語を日本語に翻訳し、日本語で近代学問を論じることで成し遂げた。それを英語のできる国民にするといふことは、英語圏の下に自らの国を置くといふことを意味する。なぜなら、言葉を理解するには、その言葉を生み出した文化を知らなければならないからだ。その文化を知らない私たちが英語を駆使しても、それはいつまでも二流である。いやいや文化までも英語圏の下に置くのですよ、といふのであれば、筋は通つてゐるが、それは論外である。私たちの日本語文化を太らせるために英語教育があるのであつて、英語のために日本人教育があるのではない。

 鈴木孝夫は、かういふ表層的で極めて浅薄な言語観と戦つて来た。私は読売新聞で、氏が井筒俊彦に学んでゐたといふことを初めて知つた。「それはすげえや。さういふことか」と合点した。やはり哲学がある人が言語をやらないととんでもないことになる。

 残念でならない。

 ご冥福をお祈り申し上げる。

 

 

 

 

以上の新潮文庫は復刊を望む。

 

 

 

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