一般にはヴィゴツキーと日本語では表記されるが、この著者中村和夫氏は「ヴィゴーツキー」と書く。ロシア語はまつたく分からない私にはどちらが原音に近いのかどうか分からないが、ヴィゴツキーが言ひやすい。学会名もこちらである。
それはともかく、この本はブックレット形式で非常に薄い(全体で98頁)が、とても分かりやすい。ヴィゴツキーの全体像を明らかにすることはいい意味で断念されてをり、タイトルのように「心理学」のみに焦点を当ててゐる。中でも「内言」といふ独特の術語の説明を中心にしてゐる。
これがとても分かりやすかつた。人間には言葉にして口から出る前に、心のうちに漠然としてゐて、「非文法的で、主語や説明後が省略された、ほとんど述語の連鎖で成り立っている」ものがあり、それが「内言」である。
そして、その内言を再構成して、自覚的随意的に表現することができるようになって生まれるのが書き言葉であり、子供の成長には、この書き言葉の教育が大事であるといふのだ。
話し言葉と書き言葉の関係は、ヴィゴツキーによれば「算数に対する代数と同じ関係」であると言ふ。
少し引用する。
「注意にしろ記憶にしろ算数操作にしろ、子どもがその心理過程を自覚し、随意的に支配できるようになるためには、それが生活的概念――偶然的な結合による非体系的な言葉の意味のまとまり――に媒介されているだけは不十分なのである。これらの心理過程が科学的概念――体系化された言葉の意味――によって媒介されたものになることがふかけてつなのである。」
「生活的概念」が「科学的概念」になるには、書き言葉の教育が必要だといふことだ。つまりは自然発生的にはその移行は起きないのである。「結合」から「体系」へと言ひ換へてもよいだらう。
これは非常に面白い考へ方だと思つた。
例へば、かういふ話し言葉はまだ複合である。
「その人が自転車から落ちたのは、落ちて大変な怪我をしたからです。」
科学的に体系的に言葉で表現しきれてゐない。内言のままである。
因果を言ふなら、「その人は自転車から落ちたので、大変な怪我をした」であらうし、あるいは「その人が大変な怪我をしたのは、自転車から落ちたからです」となる。
書き言葉の訓練とは、心理学的に言ふと心理の過程を体系化するといふことになるやうだ。
そして、その延長上に「人格」といふものが示される。教育において書き言葉の教育が必要な所以である。