九 田中克彦氏の言語観を嗤ふ
今囘からは、しばらく田中克彦氏の言語觀を取上げる。田中克彦氏といふのは、あまり知られてゐないかもしれないが、モンゴル語が専門で、各國各民族の文化や言語を尊重し、多様性を尊重する立場の言語研究者である。構造主義的な立場といつて良いだらう。岩波新書に『ことばと国家』『言語学とは何か』『名前と人間』、ちくま学芸文庫に『ことばのエコロジー』などがある。現在は、中京大學の教授である。
田中氏は、言葉が亂れるのは言葉が生きてゐるからだと言ふ。じつにさつぱりとしてゐて耳に心地よく大衆受けする結論であるが、こんな言語觀でそもそも言語學が成立つのかどうか疑問である。
田中氏は、『ことばと国家』で次のやうに書いてゐる。
「ことばがくずれていくのは、それが生きている証拠である。生きていくためには変化しなければならない。死んだことばは決してくずれず、乱れることがないのである。」
「死んだことばは決してくずれず、乱れることがない」といふのは眞實である。なぜならば、誰もその言葉を使はないからだ。つまり死んでしまつたといふことは存在してゐないのだから、存在しないものが生きてゐるわけがない。存在しないものは「決してくずれず、乱れることがないのである」。當然のことである。
では、田中氏に訊いてみたいが、古事記や萬葉集や源氏物語の言葉は決して崩れず亂れることもないけれども、死んでゐる言葉であらうか。もちろん、古語を使つて書いたり話したりしてゐる人はゐまい。したがつて、田中氏の傳でいけば死んでしまつた言葉といふことになる。しかし、それは本當だらうか。
あるいは、「生きていくためには変化しなければならない」といふのも本當だらうか。死んだ魚も變化はする。川を上り受精を終へた鮭たちは、全精力を使ひ果たし水流に乘つて流されていく。岩に當たり、全身傷だらけになり、まさに身は「くずれ」、形は「乱れる」。そしてどんどん下流へと移動していく。それにたいして、上流を目指してゐた頃の鮭は全精力を傾けて流れに逆ひ上流へと向ひ、體に傷をつけながらも上へ上へと上らうとしながらよじのぼつて行く。
いづれも移動であり變化である。しかし、その質はまつたく違ふ。前者は死んで、後者は生きてゐる。
つまり、變化そのものは生きてゐるかどうかといふことに關係がないのだ。變化の中身を見なければならないのである。生きていくためには變化しなければならないのではなく、生きていくためには變化を覺悟しなければならないといふこともあるといふことである。もちろん覺悟といふ言葉が適切ではないかもしれない。しかし、何等かの目的を持つて變化してゐる時に、それは生きてゐると言へるのであつて、變化そのものが生死を決めるのではない。これは眞實である。西周や福澤諭吉が飜譯語を作り出した時、何等かの必要があつて苦肉の策としてそれはあつた。それぞれの言葉の當否とは別の次元で、欠く可からざる必要があつたのである。再び鮭の比喩で言へば、川の流れに逆つてでも上へいかうとした、本能だか意志だかの力があつての變化なのであり、川の流れに身をまかせて死骸が下に移動してゐるだけの變化とは違ふのである。
名前と人間
価格:¥ 663(税込)
発売日:1996-11