言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

年末に福田恆存生誕百年記念公演があるやうだ

2012年03月27日 22時17分13秒 | 告知

以下は、現代演劇協会のホームページからの引用です。

年末に『明暗』が再演される。

平成八年の「福田恆存回顧」以来、16年ぶりの上演です。

     ☆    ☆    ☆

福田恆存 生誕百年記念公演

 明 暗 めいあん

    作:福田恆存
   演出:福田逸
   出演:田中正彦 寺内よりえ 要田禎子 林佳代子 服部幸子
      鳥畑洋人 岩田翼 吉田直子 舞山裕子(以上劇団昴)他

       - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - 
         失明した男の眼(まなこ)が目覚めた時、
         人々の過ぎ去った日いつが暴かれ、
         家族のいしずえが壊れていく……

       - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - 

◎公演日程
■前売開始10月15日(月)
2012年11月28日(水)~12月2日(日)

◎会場
紀伊國屋サザンシアター

◎料金(全席指定席)
一般=5,500円
学生=3,000円

◎お問合せ
演劇企画JOKO 03-6907-9213



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この時代に何を讀むべきか

2012年03月25日 12時30分51秒 | 文学

 時事評論の編集長の中澤茂和氏の御厚意により、今月號の拙稿を掲載することが出来るやうになりました。御高覧いただければ幸ひです。

 

この時代に何を讀むべきか――理性=良心の發動が試金石<o:p></o:p>

 

文藝評論家 前田嘉則<o:p></o:p>

 

文明の「世界化」が人間を引き裂いてゐる<o:p></o:p>

 

 大變な時代である。「世界」といふ存在がこれほどに人人の意識に上り、その觀念が私たちの生活や趣味どころか思想や生き方にまで滲透してゐる時代はほかにない。この場合の「世界」とは、單に地理的な範圍の極大値を意味するのではなく、言語・習慣・衣服・食物・社會制度・法大系・季節・生活時間・居住空間など自然環境から文化環境に至るまで一切が私たちのものとは異なる所に由來しながら、同じ時代にこの地球にあることにおいて同一位相にあると考へる空間把握のことである。さうであれば、人間はズタズタに引き裂かれて行くのであつて、自由なものと平等なもの、合理主義的なものと經驗論的なもの、個人主義的な思考と公共主義的な思考などなど樣樣な立場の言説や行動によつて人人の心身は統一を失つて行く。<o:p></o:p>

 

もちろん、大局的にはかうなるのが文明の必然であり、アフリカのどこかの一箇所で誕生した人類が、散り散りになつて擴がり、それぞれの地域でそれぞれに合つた多樣な人工環境=文明を作り出しながら發展して來たのであつたが、それらがやうやく混り合ふ時代を迎へたといふことでもある。一七五〇年にフランスの經濟學者テュルゴーが預言的に語つた「人間精神は啓發され、バラバラだつた諸民族は互ひに接近する。(中略)人類全體がゆつくりとした歩みであるにせよ、より大いなる完全性に向かつてたえず歩んでゐる」との言が現實となつたといふことである。言つてみれば現代は「歴史の終はり」である。その意味は、單一文明誕生前史の終はりであり、單一文明の始まりである。<o:p></o:p>

 

したがつて、何事にも始まりには起きるはずの「産みの苦しみ」を味はつてゐるのが現代でもある。振り返れば、二十世紀になつて私たちは二度の世界大戰によつて文字通り世界化された。「世界」は戰爭によつて生まれたのである。その兆しは植民地主義として現はれ、次にその批判として共産主義や全體主義が生まれた。かうした「世界化」の力は、すこぶる強いものであつた。それらは國家を築き、更に世界を二分する國家群同志の戰爭を起こし、冷戰を經ながら今日に續いてゐる。もちろん今日でも共産主義の國は存在する。したがつて、東アジアでの彼等との對立解消には「戰爭」が必要であらう。もちろんそれが熱戰になるか冷戰に終はるかは不明だが、戰爭といふ視點での對處がなければこの對立解消は難しい。<o:p></o:p>

 

ところが、日本では、この點でも人人の意見は多樣であるし、バラバラになつた國論によつていよいよ産みの苦しみが深まつてゐる。これまでのやうに日米同盟の保持によつて對處する、あるいはG8諸國の政策に歩調を合はせるといつたやり方では、うまくいかなくなり始めた。TPPの交渉に參加するかしないかといふ問題を取上げてみても、保守派と言はれる人人の中にも贊否がある。革命を標榜する地方の一政治家を革新陣營が批難し、保守陣營が擁護すると言つたねぢれた構圖も混亂の象徴である。<o:p></o:p>

 

解決モデルのない時代<o:p></o:p>

 

 確かにかういふ時代に生きてゐる私たちには、モデルにするものがない。一氣に解決する處方箋を誰も持つてもゐない。いやさういふ言ひ方が既に適切ではない。「神は死んだ」と言つて幕を明けた二十世紀は、モデルや處方箋などいらないといふことを選んだ時代なのであるから、さういふものを求める意識さへないのである。<o:p></o:p>

 

ところが、現代は迷ひや不安の時代である。端的な例を擧げれば、日本では毎年三萬人を越える自殺者がをり、それが十年以上續いてゐることだ。その原因の大半が經濟問題で、多くは五十代だといふ。このことを考へると、「迷ひや不安」の内實は明らかだ。現代のそれは、以前の豐かさや安定が失はれたといふことなのである。もちろん、なんだそんなことかと笑ふわけにもいかない。喪失感は確かに重い。皮肉なことに、現在において、お金、知識、人脈、地位、權力を持つてゐない人には、迷ひや不安はない。『絶望の國の幸福な若者たち』を著した社會學者の古市憲壽氏は若干二六歳だが、「將來、これ以上幸せになれないと思ふから、現状に滿足する。經濟成長の止まつた社會しか知らない、今の二〇代はさう考へてゐる」と語つてゐる。何も持たない者は、喪失感を抱くことがない。<o:p></o:p>

 

 實にきれいな説明である。社會學者は御氣樂な稼業だから、説明ができればそれで良いのだらうが、問題はここにこそある。現實に滿足してゐるとは社會や自己の變革の必要を感じないといふことである。さういふ人人が果たしてこの社會を維持できるだらうか。もちろんできるはずがない。「二番では駄目ですか」と言つた政治家がゐたが、上を目指さなくても發展や成長はあると信じてゐる人が多いことが問題だ。<o:p></o:p>

 

 氣分が時代を作り出すから、かういふ氣分が學者や政治家を含めて若者に廣まつてゐるとすれば問題である。だから、その點ではもう一度啓蒙の精神が必要である。滿足が幸福と同義語なのではなく、善く生きることが幸福なのである。つまり人間とはどうあるべきか、どう生きるのが正しいのかといふことを知らせる必要があるのだ。<o:p></o:p>

 

脱世俗化の啓蒙が必要<o:p></o:p>

 

 ズタズタに引き裂かれた社會を作り出したのも、魔術や啓示を否定した理性や知識に基づく啓蒙の精神である。宗教も決して否定されるものとはならなかつたが、個人の理性による選擇として信仰されるものに過ぎなくなつた。西洋の教會のやうな絶對的な權威への服從ではないものの、私たちにも世間と神佛を畏れる心性があつたが、それらも啓蒙の精神によつて無力化あるいは弱體化した。日本の啓蒙思想家たる福澤諭吉の言葉に代表されるやうに、學問(知識)のみによつて人間の價値は決まるといふのが、その精神である。しかし、どうだらう。その結果、私たちの社會はずゐぶんと世俗化してしまつた。負けたくないから勝ちさうな人をつぶす、さういふ意識が人人を支配し、人間の粒を小さくしてしまつたといふのは、誰しも心當たりがあることだらう。<o:p></o:p>

 

文學にしても、自身の子息二人を含め七萬名の兵士を戰場で死に追ひやり、ひ弱な近代國家を思ひ知らされながらもその絶望的な状況と鬪ひ、ひたすら軍令を服膺し續けた乃木希典にたいして、一言「無能頑迷」と言つてのける作家を國民作家と稱する時代は、人間を小さなものとしか考へない。その作家の據つて立つところは合理主義や知識であると言ひたいだらうが、つまるところは利己心の正當化である。少なくとも私にはさう思へる。多くの人を犧牲にした戰略家を批難する筆は、作家自身の戰爭體驗への怒りが滲み出てゐる。私憤を公憤として表明するところに自己欺瞞や僞善はありはしないか。文學にしてこれだから世俗化とは抗し難い。<o:p></o:p>

 

 もちろん、脱世俗化とは過去への囘歸のことではない。しかも、啓蒙の精神でそれを行ふとは語義矛盾であるが、さういふ逆説を通らなければ、この時代を乘り越えられない。なぜなら私たちには理性=良心しか殘つてゐないからである。ずゐぶんと照れ臭いが次のやうな言葉を手がかりにする以外にない。「君の意志の格律が、いつでも同時に普遍的立法の原理として妥當するやうに行爲せよ」である。言はずと知れたカントの『實踐理性批判』の「純粹實踐理性の根本法則」であるが、この十八世紀の啓蒙思想家の發言を思ひ出すべきだ。もちろん「普遍的立法の原理として妥當するやうに行爲しない」者にたいする手段は別に考へる必要はある。しかしながら、個人の行爲の規則がすべての人の行爲の規則になつても社會を破壞することにならないかどうかを善惡の基準とすることによつてのみ、僞善的な振舞ひは峻別される。私が讀んでほしいものもまた、この基準に適ふものである。<o:p></o:p>

 

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時事評論――最新號

2012年03月20日 10時57分25秒 | インポート

○時事評論の最新號の目次を以下に記します。どうぞ御關心がありましたら、御購讀ください。1部200圓、年間では2000圓です。 (いちばん下に、問合はせ先があります。)

   今年最初の時事評論である。字が大きくなりレイアウトも少し変はつた。もちろん、「編集の指針」に変更などあり得ないから、従来通り、独自の視点で現代社会を論じてゐる。改めて、「編集の指針」を掲げ、新たな読者への便宜としたい。

1 国家目標の実現と確立

2 日本の歴史と文化の正しい継承

3 21世紀を拓く人間教育への転換

4 国際的視野からの正論報道

5 地域共同体(コミュニティ)精神の再確認

 国家目標(national goal)がない(「ない」わけはないのであるから正確には「見えない」のだらうけれども)時代のなかで、それをあたかもあるかのやうにして「正論」を述べるといふことは、きはめて困難なことである。しかし、それを引き受けるのが私たち(現代に生きる人々)の仕事であらう。それを自覚するかしないかが問題なのである。

 

 さて、今回の内容であるが。次の通りである。特筆すべきは、やはり一面の潮匡人氏の論考だらう。沖縄における米軍の「政策」の変化はいつたい何故か。東アジアにおける喫緊の課題を政府がどう誤魔化してゐるのかが明確になる。リニューアル第一號の本號にふさはしい慧眼の論である。

 また、留守晴夫氏の『高瀬舟』の解説は興味深い。誰もが知るこの小説の「喜助」に鷗外は何を仮託したのか。二囘にわたつて解説されるが、今関心のあることに引き寄せて言へば次のことである。喜助は島流しになるが、それを不幸と思つてゐない。なぜなら、島流しになつてからの生活は今の生活よりも経済的には不幸とは言へないからだと言ふ。ここらあたりは、現代の社会学者古市憲壽氏の『絶望の国の幸福な若者たち』の主張そのものである。しかし、喜助がさういふ状態になつたのは、弟を殺してしまつたからである。理由はどうあれそれを引き受けて償はうとする気持ちで島流しに向かつてゐた。それに引き替へ、現代の若者には、現状を引き受ける気持ちはない。それは「可哀さう」とも言へるが、愚かとも言へる。経済的な幸福以上のものを見出さうとする姿が微塵もないからである。偶然であるが、今囘の拙論はこのことに触れるものとなつてゐた。御関心があれば、お読みください。

 

             ☆        ☆    ☆

アメリカの本音 

普天間移設とグアム移転を切り離す理由

                        政府は抑止力低下、普天間固定化を「歓迎する」のか

軍事評論家 潮 匡人

● 

この時代に何を讀むべきか――理性=良心の發動が試金石

                文藝評論家 前田嘉則

教育隨想       

      三つの「領土の日」を国が定めるべきだ (勝)

‘‘胃ろう”処置をめぐる母の体験

 病院・医師の都合で行われる現実も

         大阪国際大学准教授  安保克也

この世が舞臺

     『高瀬舟』其の一  森鷗外                                

                     圭書房主宰   留守晴夫

コラム

        大衆迎合‘‘権化”の繰り言  (菊)

        震災一年に思ふ 日本文化の問題 (村永次郎)

        「歴史は鑑」の現代的意味(星)

        「デフレは惡い」の神話(騎士)   

   ●      

  問ひ合せ

電話076-264-1119     ファックス  076-231-7009

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東日本大震災から一年

2012年03月11日 10時18分12秒 | 日記・エッセイ・コラム

 あの日から一年が經ちました。改めて亡くなられた方の御冥福を祈り、被害に遭はれた方に御見舞を申上げます。

                     ★

   「我欲にとらはれた現代人への警告である」と、震災にたいして、この人からは決して言はれたくない石原愼太郎氏に言はれてしまつたといふのが、皮肉でした。その人も芥川賞の銓衡委員を辭め、再び國政への復歸を目指してゐる。それが我欲ではなく公憤によるものだとは本人の辨ですが、さて人はほんたうにさう思ふでせうか。

                     ★

   昨日の朝日新聞に作家の阿部和重氏が「言葉もまた壞された」といふ長文を寄稿してゐましたが、かういふ大雜把な文章が「言葉を破壞」してゐるのでせう。言葉は破壞されるはずはありません。破壞してゐるのは、それぞれが言葉を使ふ場面で起きるのであり、正確には「その人の言葉は破壞されてゐる」といふことでしかありません。震災で言葉が破壞されるはずもなく、作家阿部某の言葉は壞されてゐる、あるいは政治家某の言葉は壞されてゐるといふ言ひ方をすべきです。その意味では、阿部氏が引用した谷川俊太郎氏の「言葉は壞れなかつた」の言葉の方が正しい。

                     ★

 この寄稿と同じ欄で前日に載せられてゐたのは劇作家の山崎正和氏のインタビューでしたが、これもひどいものでした。「震災後に見せた日本人の對應は、日本人の國際性、文化主義、平和主義などの戰後民主主義の精神が現在の日本人に血肉化したものだ」と述べてゐましたが、それは戰後民主主義の精神などであるはずはありません。そもそも戰後民主主義に「精神」があるとも思へません。精神を削ぎ落としたのが戰後民主主義だからです。震災後に日本人が見せたのは、日本人古來の傳統的精神に決まつてゐるではありませんか。そんなことも分からないほど、山崎氏の目は曇つてしまつてゐました。この人の「言葉も破壞されてゐる」といふことなのでせう。

                      ★

 私たちは、このたびの震災によつて、 何かに氣附かなければならないのは本當のことでせう。が、そのことに氣附いてゐる發言が、新聞に載るとは思へません。戰前に戰意昂揚を扇つてゐながら戰後は平和主義を稱揚するといふアクロバチックをやつてのけた新聞に、時代の變化を掴む眼力などあるはずもありません。彼等は附和雷同、時の權力を補完するのに長けてゐるといふのが眞實のところです。ですから、ちなみに私は「教育に新聞を(NIE)」などといふことにも反對です。新聞は何をしてきたのか(どんな罪を背負つてゐるのか)。それを教へることにおいてのみ、教育において新聞を扱ふ意味があると考へます。

                     ★

   震災から一年、日本人の一人として思ふことは以上のことです。

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