随分挑発的なタイトルだし、構成も変はつてゐる。本書は小説である。主人公の小説家には親友と呼べる友人がゐた。K***氏と書かれた人物である。その彼は突然心筋梗塞で亡くなる。その知らせを彼の妻から知らされたが、その折にK***氏が手記を書いてゐたと伝へられる。それを読んだ小説家は、どうしても現在の若い人に読んでもらひたいと思ひ、知り合ひのゐる出版社(小学館と書かれてゐる。そして事実、この本は小学館から出てゐる。ノンフィクション仕立てのフィクションだ)に申し込んで本として世に出すことになつた。それが本書である。
内容については、生きるとはどういふことかが書かれてゐる。いきなり「私は子供たちのことも妻のことも愛していない」と書かれてゐるが、言葉は文字通り受け取れるものではない。その非人情の言葉は、しだいに真意を明らかにしてくる。一言だけ触れれば、「私たちは自分自身のことも他の誰かのことも強く愛することなどできない。私たちにできるのは自らを、そして他人を哀れみ同情することだけだ」と最後になつて書くのは、愛といふものを崇高なものとしてとらへてゐるからである。「真・善・美といった至上価値を説き、それらを追い求めることが人生の目的であると強調する者たちを余り信じてはいけない」といふ言葉の裏には、それらはさう簡単に求めることはできないといふ断念がある。言つてよければ、「神は死んだ」と言つた20世紀初頭の実存主義者の真意が神の尊厳を守らうとしたのと同じである。
K***氏の、「この世の全部を敵に回して」も、つまりは「この世の通念を安易に信じて何も努力しない人々を敵に回して」も伝へたかつたことが逆説にならざるを得なかつたのは、愛といふものを追ひ求めようとした彼自身の努力が人並ではなかつたからなのである。
「私が成長仮説を認め、不滅の霊魂の存在を信じたとしても、それによって一向に慰められないのは、ひとえにこの世界が無残すぎるからである。/ここまで悲惨な世界で、ここまで悲惨な仕組みの肉体を与えられてしまった私たちが、自分が生まれたことを懲罰以外の何かだと感じ取るのは至難の業であろう。」
いい加減に生きて、いい加減に人を愛して、いい加減に家族を持ち、いい加減に死んで行く。そんな人がいい加減にあの世の生を待ち望むとは都合が良すぎる。そして、前世で立派な人生を生きたがゆゑに今世で恵まれて生きてゐるのであれば、現世の成功者にもまた多少は人徳があつてしかるべきであるのに、その大半は自己の利益のために他者を利用する者ばかりであるとは、どういふことかと憤る。愛が来世を保証するのであれば、そんなことは起きまい。だから、愛などと言はず自他を哀れむことこそが大事だと考へるやうになつたのである。
手記が終はると共に、この小説が終はる。あたかも友人から手記を手渡されたかのやうな思ひになる。文庫にして150頁の薄い本であるが、それが却つてその感触を強くさせる。
哲学の手ほどきを受けたことのない素人の哲学談議だから、きつと思考の手順に飛躍や欠落があるだらう。だから、そのスジの人から言はせれば、粗雑な議論で話にならないのかもしれない。しかし、小説としてはずしりと響く。秋の一日を十分に豊かにしてくれた。