沖縄決戦に臨む昭和20年(1945年)、当時の知事は官選であつた。前任者は、会議のために上京したまま帰らず、政府は島田叡(しまだ・あきら)に知事就任を要請し、その年の1月に着任する。43歳。「俺は死にとうないから、誰かに行って死ね、とはよう言わん」といふ言葉を語り、反対する家族を制したと言ふ。
丁度同じ時期に、沖縄県警察部長を務めてゐたのが荒井退造であつた。彼もまた出張や病気療養を理由に沖縄を離れる官吏が多い中で、最期まで沖縄に留まり、沖縄県民の疎開に尽力した。享年44。
二人は、沖縄本島の南端摩文仁の丘の壕から出て行つたまま、帰らぬ人となつた。
映像は当然ながら戦闘の姿を映し出す。血が流れ、泥まみれになり、飢ゑや恐怖に苦しむ人々の姿を繰り返し描き出す。戦争とはさういふものだと知つてゐても改めてスクリーンに描き出されると恐ろしさが湧き上がつてくる。
役者は決してうまくない。脚本もいろいろなものを盛り込み過ぎでまとまつてゐない。沖縄の人はこれをどう見るのだらうかといふ疑問もある。しかし、やはり観るべき映画であつた。
山本七平を最近読んでゐるせいで、どうも日本の政府や軍司令部の無能振りが頭をよぎる。島田が沖縄県民の米を調達するために台湾に行くのだが、それは政府のすべきことである。同じく軍隊の補給線も寸断されてゐただらうから、沖縄に駐屯する軍は孤立して行つたのである。それは大本営の愚かさである。
大事なもののために命を懸ける。戦争に負けても国は残る。その時に残すべきは精神である。その通りだと思ふ。しかし、である。それに値する組織になつてゐるだらうか。戦争に勝つのは、国体を護るためである。それが嫌でも国民を守るためといふのであれば納得できるだらう。ところが現実は、戦争に勝つのは、軍隊を維持するためではなかつたか。あるいは軍の力を誇示するために。さういふ疑問がある。
だから、同一作戦の失敗を何度繰り返しても変更しなかつたと言ふ。零戦の構造を戦争末期米軍が分解して驚いたと言ふ。空飛ぶ棺桶と言はれるほどの軽装備である。日本人の一級の操縦士たちは、その訓練の成果として零戦を自由自在に扱へたが、それは逆にその訓練を受けてゐない人には無防備な戦闘機でしかなかつた。戦争直後は名手たちが活躍してゐたが、戦闘が長引き彼らが亡くなると、今度は無防備の戦闘機に未熟な操縦士が乗ることになる。最終的には敵艦に体当たりできたのは5%だつたと言はれる。操縦士の能力が低いことも、戦闘機が無力であることも、軍部は正確に把握してゐる。なのに、「特攻」作戦を止めなかつた。これが私たちの国の組織が持つ欠陥である。
そして、沖縄戦でも同じ愚を犯してゐたはずである。
しかしながら、この種の戦争映画を観て反戦を声高に叫ぶ人を見ると、お目出たいなと思つてしまふのである。自分は、あるいは自分たちは、決して同じ過ちは繰り返さないと自信満々なのである。しかし、それは本当か。自分の言動を少しでも振り返つてみたらよい。誰かのせいにして物事を解決したり、解決できたと思つたりしてゐないだらうか。もし、さういふことに心当たりがあるのであれば(「ない」といふ人がゐれば、それは相当な認識不足である)、簡単には「反戦」は叫べまい。戦争とは調整能力の欠如に由来するのであるから、自己調整の不調を来たしがちな私たちの心は絶えず戦闘状態にあると言へるのだ。それはつまり戦争である。そんな自分に平和をもたらすことが難しいと分かれば、過去の戦争の悲惨さを見て、直ちに反戦平和に結びつける愚は犯すまい。
この映画は、平和のためのプロパガンダに使はれてほしくない。日本人の病の剔抉(てつけつ・えぐつて掘り出すこと)にこそ相応しいものであると思ふから。