アルジャーノンに花束を (ダニエル・キイス文庫) 価格:¥ 861(税込) 発売日:1999-10 |
先日、神戸で「アルジャーノンに花束を」(キャラメルボックス)を見た。言はずと知れたダニエル・キイスの名作である。昴での公演を東京にゐた頃、二度見たが、チャーリーの切ない思ひがピアノの旋律に載つてひたひたと迫つてくる名演であつた。確か休憩をはさんで3時間の芝居で、チェス盤のやうな舞台に鉄のドア一枚といふ簡素な装置が印象的であつた。「私たちは他人の不幸にはたやすく優しくなれる」、チャーリーの知能が低いときと高くなつたときと、そして再び元の状態に戻つたときの周囲の変化は、私たちの姿を見てゐるやうで辛かつた。
そして、今回の舞台。上演時間は二時間強であるが、内容は割愛することなく、テンポを速くすることによつて演じきつた。それによつて発話にも勢ひが生まれ、チャーリーの知能の激変を強烈に印象つけることに成功した。その一方、役者の若さとこの劇団の持ち味もあつて、コメディの柔らかさも随所に含まれてゐる。こちらの芝居は、「人間の悲劇」よりも、翻弄されるチャーリー個人の苦悩に焦点を当てて描いてゐるやうに見えた。激しい口調で登場人物同士の激突が至る所にあつて、それぞれの自我の衝突が印象的であつた。悲劇は個別具体的であるといふ現実を目の当たりにさせられたやうにも思へて、この作品の新しい側面を見事に描き出してゐた。ただ、テンポの速さを生み出すために、暗転が多用されたことには異論がある。観客の意識が分断されてしまひ、場面場面が切り取られすぎ統一感が失はれがちであつた。このあたり脚本のせいもあるかもしれない。
ところで、「ラットレース」といふ言葉を御存じだらうか。働いても働いてもお金がたまらないことの比喩で、輪つかの中を走り続けるネズミの様子から譬えられたものである。この芝居のアルジャーノンとは実験に使はれたネズミの名前であるが、実験材料としてしか生きる価値を見いだせないアルジャーノンは、「生きる目的は生きること自体にある」としか答へを見出せない私たちの姿でもあらう。原作からは、現代人はそのラットレースを続けるしかないのかといふことを感じさせられた。ヒリヒリとするその感触が、どんな演出であれこの芝居にあるのはそのためであらう。そしてタイトルにあるやうに、最後にアルジャーノンに贈られる花束は、さういふ私たち自身に贈られた慰労の花束でもある。アルジャーノンは死に、元の低知能に戻つたチャーリーが、知能改善の手術をした博士に、「アルジャーノンの墓に花束を手向けてください」と依頼したのであるが、その花束を最初に手にするのは、博士である。博士自身もまたラットレースを生きてゐる存在であり、その存在は私たちの代身でもあるからである。
さらに、チャーリーといふ青年の孤独が、アルジャーノンと脱走後出会つた自称芸術家の女の人にしか理解されなかつたといふ悲劇も、身近な人からは決して自分の価値を理解してもらへないといふ寂しい現実を描いてゐるやうに思へた。
この物語の深みは、チャーリ-の母親とチャーリーの教育係の女性と自称芸術家の三人の女性によつて示される。そのあたりの演じ方が、この芝居の味はひを決めてゐる。