しばらく映画を観てゐないと映画を観たくなる。「観てゐない」のは時間がなかつたといふことと共に、観たいと思ふ映画がないからでもあつた。
映画を観ることを仕事にしたいなと思ふこともあつたし、だいぶ以前東京にゐた時には映画評も書いてゐることがあつたので試写会があると映画会社に出かけて行つたこともあつたが、毎日これを続けたいなと思ふほどでもないので、俗に言ふ映画好きといふわけでもない。それでも今は観たいと思ふ映画が数本ある。
一日時間が取れたので、映画を二本観た。それが『新聞記者』と『FUKUSHIMA50』である。
前者は、日本アカデミー賞を取つた作品だと言ふ。おまけに1200円といふ特別価格で観られるといふから行つてみた。しかし、じつに退屈な映画であつた。官僚と新聞記者の正義感が内閣情報調査室の秘密を公にするといふ意気込みだけが映し出されてゐる。政府が首相の知人が運営する大学を強引に誘致しようとするが、その目的が生物兵器を開発するための研究をするためだといふことをかぎつけた二人が命を懸けてそれを公表する。
演技もうまいし観せてはくれたが、切実な印象がない。なぜか。どこかで聞いたやうな話であるし、その研究がなぜ悪いかといふことへの問ひがないからである。現在では、ウィルスの遺伝子を組み換へることによつて特定の細胞だけを感染・死滅させる研究が進められてをり、がん治療に有効であるとも言わはれてゐる。生物兵器と言はれるか遺伝子医療と言はれるかは、純粋科学の問題ではなく、それを利用する人間の側である。したがつて、たとへ架空の大学の誘致の話題であつても、それを絶対悪として描くにはそれなりの根拠がなければなるまい。しかし、この映画からは製作者がそのことの必要性を感じてゐるとは微塵も感じなかつたし、事実としてそのことへの言及も一秒もなかつた。
これでは現実性はない。どこかで聞いたやうな話を翻案し、現実にもたれかかつた「写実性」でごまかせると思つてゐるのである。これでは駄目の上にも駄目がつく、ひどい映画と言はざるを得ない。
午前中にこんな駄作を観てしまつて後味が悪いから、どうしようかと思つて昼を迎へた。偶然入つたうどん屋のぶつかけうどんが殊の外美味しく、口直しができたところで、午後に観たのが後者である。
こちらはどこかで聞いたやうな話ではない。事実である。2011年3月11日の東日本大震災での出来事である。
私は大阪にゐた。忘れもしない。その直前に石原慎太郎が都議会で4度目の東京都知事選の出馬を表面した日であつた。渡邉美樹や東国原英夫が知事選に出ることが噂され混乱が必至の状況下、2010年に立ち上がれ日本の応援団長に就任し国家の危機を主張してゐた。民主党政権に危機を感じてゐた時代である。
次々に映し出される津波のシーン。今まで見たことのない規模の津波に町が飲み込まれていく。しかし、次第にその映像の中心は東京電力福島第一原子力発電所の映像に移つていく。スタジオには原子力を専門とする学者が出てくるやうになつた。「今、何が起きてゐるのか」。それが知りたいことであつた。そして、この映画は、「その時、何が起きてゐたのか」を明らかにする。すでに知つてゐたことも、今回初めて知つたこともあつた。最も衝撃的なのは、二号炉が爆発したら半径250㎞には人が住めなくなるといふことであり、そこには当然首都東京も含まれてゐるといふこと。そして、本当にその危機が迫つてゐたといふことである。事態は奇跡的に最悪を逃れたが、その理由は今もつて分からないと言ふ。
誰が決断し、誰が決断しなかつたのか。誰が仕事をし、誰が仕事をしなかつたのか。映画はそれを説明せずに雄弁に語つてゐた。惜しむらくは政治家の名前を仮名にしたところである。実名で何が悪いのだらうか。
私たちの国は、これまでもそしてこれからもわづかな「決断する人」と「仕事をする人」とによつて支へられるのであらう。危機を飲み込み、試練を耐へるさうしたわづかな人がゐてくれることに感謝するばかりである。
新型コロナウィルスの影響で映画館にゐた人の数も少なかつたが、観た人の数だけ2011年3月11日を思ひ出す機会が増えていくはずである。