言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

平成28年度の東大法学部推薦入試

2016年11月30日 08時35分31秒 | 日記

 先日、昨年の12月におこなはれた東京大学の法学部の推薦入試の問題を検討した。

 グループ・ディスカッションがテーマである。

http://www.u-tokyo.ac.jp/content/400040018.pdf

 時間は60分。「到達した結論について審査員にプレゼンテーションを行う必要はありません」と「注意事項」にあるので、議論の進め方が問はれてゐるといふことである。

 いつたい何を法学部は求めたのであらうか。

 論理的思考力、課題発見力、課題解決力、コミュニケーション力、ファシリテーション能力、リーダーショップ、表現力、説得力といふものがすぐに思ひ浮かぶが、さてそれをどう育てるのか。あるいは、それは育つものなのか。

 18歳の青年たちにさういふものが求められてゐるといふことに、少し戸惑ひがある。もちろん、さういふ人がゐていいだらう。しかし、どう考へてもそれは主流にはならない。むしろ主流にしてはならない。その辺りのことは東京大学もよく分かつてゐる。文Ⅰの定員は400名ほど、推薦入試は20名ほど。5%である。そのぐらゐでいいのではないか。

 しつかりとパッシブラーニングを果たし、考へる材料を身につけて大学に入り、その上でいろいろな人(教員や学生、あるいはその他の人)に出会ひ、化学変化が起きた上で学部を選択するといふスタイルが、やはり東大の強さの源だらうと思ふ。それでも更なる多様性を確保したいといふ狙ひで、後期入試を廃止してかうした推薦入試を始めたといふことだらうと思ふ。

 でも、一度この内容で授業をしてみようと思ふ。

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『パンセ』と吉田先生

2016年11月29日 08時37分35秒 | 日記

 吉田好克先生は、かつて『月曜評論』に「『パンセ』を読む」を連載されてゐた。毎号楽しみにしてゐて、ほとんどは取つてあるが、今回上梓された本にすべて収録されてゐる。

 戦後三回目のパスカル全集が白水社から刊行されてゐるが、吉田氏も訳に加はつた第一巻二巻のみの出版で、以後は未刊である。パスカル学徒の吉田氏としても残念のご様子。

 「『パンセ』を読む」については、のちのち触れるとして、まづは本書の「前書き」から。知識人批判の文脈で、『パンセ』が引かれてゐる。

「民衆と識者が世間を動かしてゐる。中途半端な識者はさういふものを軽蔑し、却つて軽蔑される。彼らは全てにおいて間違つた判断をするが、世間の人々は正しく判断する。」

 「中途半端な識者」といふのがいい。確かにさういふ人がテレビに出、コメントをするのであらう。平日の昼にテレビでコメントをする人のことを言ふのではないか。新聞で書いてゐる人もさういふ人もゐる。単眼でものを見てゐる人、庶民の見方といふ名のお為ごかし、半可通の知識ひけらかし、さういふ人はすべて「中途半端な識者」であらう。

 生きていくとは汚れていくことだといふことの深い諦念と、さうであるがゆゑにあまり他者を攻めすぎないといふ自戒とがない言説は、私には「中途半端な識者」の声にしか聞こえない。そして、さういふ人物が大手を振つて闊歩してゐるのが、この社会の現状であるやうに思ふ。

 「世間の人々は正しく判断する」とも思へないが、隠れた逸民が社会を支へてゐるといふことを信じてゐる。

 

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「襟を正す」といふこと

2016年11月28日 09時03分55秒 | 日記

 再び、鷲田清一氏の『おとなの背中』より引用する。

「『襟を正す』という言葉がある。じぶんでは能(あた)わないであろう『大義』に怖れおののくということである。不完全なものが不完全なままでそれでもどうにかここまでやってこれたのは、そういう『大義』にちらっとでも触れてきたからである。そのことを子どもに伝えることが大事なのではないか。ひとが身を持ち崩さずにいられるのは、じぶんの存在を超えた価値というものの存在を、たとえおのれが体現できなくても知っているからではないかとおもうのだ。/全能感に浸された人は、ささいな挫折にもひどく傷つく。そう、『わたしには何もできない』という無能感に過剰にむしばまれる。おとなであれ子どもであれ。」

 哲学者としては少々飛躍があつて、このことを言ふだけで一冊の本を書くべきだと思ふが、それは措くとして、大義といふものによつていつたん「自己否定」をし、その上でその大義を知ることで「自己肯定」することで、全能感と無能感との間にあつて「身を持ち崩さずにいられる」のであらう。

 昨今、「自己肯定感」といふ言葉をよく聞くが、その時にどうしても「いやな感じ」を抱いてしまふのは、さういふプロセスを経てゐるのかといふ疑問があるからである。

 「私には何もできない」といふ無能感に襲はれてゐる人に、「そのままでいいんだよ」と伝へることは、「自信にはそれを裏付ける根拠などいらないのだ」といふことを伝へることになりはしないか。その結果得られる全能感は、いつまた無能感に反転するか分からない。

 さうであれば、大事なことは「じぶんの存在を超えた価値というものの存在を、たとえおのれが体現できなくても」、「知」るといふことが必要で、それをできてゐない自分がゐるけれども、それを「知」るといふことで、「身を持ち崩さずに」生きていくといふことができるのである。

 自己肯定とは、それが単純な「自己による自己肯定」であれば、独りよがりにすぎない。自己肯定が他者(じぶんの存在を超えた価値)による肯定であるとき、意味あるものとなる。「じぶんの存在を超えた価値」とは分かりにくいが、いきなり「絶対者」と言へば大仰であるし、なかなか日常でさういふ存在を意識する訓練をしてゐるわけではない私達にあつては、共同体や仲間といふことになるだらうか。

 ただその共同体や仲間といふものは、画一的なものになりがちな私たちの社会にあつては、やはりそれら「の存在を超えた価値というものの存在」を意識すべきである。以前は、それを「大義」と言つたのである。鷲田氏も「じぶんの存在を超えた価値」とはどういふものであるのかを示すために、日本語を探し回つたはずである。なるほど「大義」とはいい言葉である。

 「大義」、子どもたちがイメージできるかどうか訊いてみようか。

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Changeの逆説

2016年11月27日 09時05分31秒 | 日記

 今の職場に偶然にも恩師が来られることになつた。教師としてではなく、ファシリテーターとしてである。27年ぶりの再会は、懐かしさ以上に、あの頃とまつたく変はならい会話から始まつたことの驚きがあつた。いつもいつも煙に巻くやうな話をしてゐて、雲をつかむやうな感触でそれを聞いてゐるが、何度も何度も対話を重ねていくうちに次第に手の中に言葉がつかまへられてくるといつた感じである。

 今回も底無しのテーマを話しながら数時間が経つた。それでつかまへたのが、表題の「changeの逆説」である。「変へろ」と言つても人は変はらない。「急がば回れ」である。directではなくindirectに。

 ところが教師といふ職業人は、どうも言へば伝はると思つてしまふやうだ。「それは教へた」「そのことは何度も言つた」といふ言葉をよく聞くし、私自身も言ひがちである。もちろん、聞く側の責任もある。しかし、教育の質が効果の多寡で決まるとすれば、言つたかどうかよりも、伝はつたかどうかである。変はれと言つて変へることができるなら、こんなに楽な仕事はない。さう簡単には変はらない存在を相手にするから、専門家として存在する意味がある。

 子供は自然である。自然はまさに自づから然(しか)あるやうに生きてゐるのであるから、それに「変はれ」と言つて変はるものではない。そして、教師の集団はさらに厄介で、言葉で人を動かすことが仕事だと思つてゐる人が多いので、教員同士も言葉で動かさうとしてしまふ。しかし、言葉で人は動かないのは自分を見れば分かるだらう。だからこそ、学校や生徒を変へるには言葉以上の何かを持たなけれならない。それが技術であり、その作法を演戯と名付けたい。

 いつも失敗ばかりしてゐるが、その技術と演戯とをもう少し続けてみようかと思つてゐる。

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吉田好克先生の新著出来。

2016年11月26日 10時38分27秒 | 日記

 宮崎大学の吉田好克先生の新著が出版されることになつた。

 吉田先生は、宮崎にゐた時に何度もお会ひし、勉強会にも出席し、思想的に感化を受けた方である。「竹の会」といふ勉強会は今も続いてゐるのだらうか。学問のあり方、大学の現状、日本人の精神的課題等、さまざまな話題を縦横無尽につなぎ語られる様は、迫力があつて体の芯から熱が湧き出てくるやうな気がした。

 先生の個人史は決して平坦ではなかつたと思はれるが、さういふことを表には出さずに、絶えず前を見てゐる(やや上方をといふ感じがしてゐる)やうに感じられた。

 新著の題は『言問ふ葦』である。すぐにパスカルの「考へる葦」が思ひ浮かぶタイトルである。推薦文を書かれた吉田先生の師匠の竹本忠雄氏はその中で、「パスカルは、『沈黙は最大の迫害』として世界の虚偽を言問ふ――糾弾する人だった」と記してゐる。世界の虚偽をまさに糾弾した本書は、吉田先生の講演の声が耳元で聞こえるやうな熱を帯びてゐる。まだ讀み始めたばかりだが、それが実感される。

 考へるとは言問ふことである、といふ当たり前のことを実践するのが学問である。そのことを忘れた「研究」ばかりが流行するから、社会は大学を必要としなくなつた。そんな気がする。

 中に「宮崎日日新聞」に連載された文章が収録されてゐた。これは宮崎県民しか分からないことであらうが、この新聞はかなり左翼的である。あるいはそれが不適切な表現なら、社会正義派の新聞である。反体制的に文句を言ふことがジャーナリズムだと思つてゐる記者たちが書いてゐる新聞だ(10年ほど前の印象だが、今夏宮崎に帰省したをりにも読んだが同じ印象であつた)。その新聞に吉田先生の連載があつたといふのは驚きである。社会に物申す場は、「敵陣」にも及んでゐる。

 出版社からのコメントを引く。

「本書は保守系の数々の論壇誌に裂帛の気合いで文章を寄稿して来た著者の集大成である。その簡潔で鋭利な文章は、時事問題、歴史、文化、文学、哲学、国防、教育、等々、何を語っても悪しき政治主義に陥ることがない。今後ますます混迷を深めるであろう我が国において、日本人としての揺るぎ無き思想、歴史観を持つためにも是非お読み頂きたい。尚、福田恆存に私淑して来た著者は、今回、全篇において歴史的仮名遣を用いている。言葉を「保守」せずに、何の保守派かと考えるからであろう。これも一つの「文化の継承」である。 」

 これから、しばしば本書の感想を記していかうと思ふ。

 

 

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