言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

言葉の救はれ――宿命の國語102

2006年08月27日 11時13分49秒 | 福田恆存

「漢字による日本語の支配」などといふ幻想を抱くのではなく、漢字によつて日本語の文字ができたといふ事実を踏まへれば、それで良いではないか。石川氏は書家だから、言葉の表記の面を尊重しすぎる嫌ひがある。文字を重んじすぎるばかりに、漢字文明絶對論とも言へる卑屈な日本文明論を主張してしまふ。しかし、そんな偏つた論を言ひ募るより、ひろく常識的に、文字以前に言葉があつたと考へた方が良い。

漢字によつて「かな」が生まれたことは事實であるが、「やまとごころ」は漢字以前になかつたといふことはありえない。言葉があつたのである。それは必ずしも文字である必要はない。確かに、私達人間は言葉によつてしか認識はできない。しかし「オト」で表す言葉があれば、やまとごころを自覺し、他者との間で共有することは可能であつた。名辭することは、何も文字の特權ではない。石川氏の主張をもじれば「誰も文字など話してゐない」のだから。

ちなみに言へば、現代でも無文字文化はある。川田順造氏が西アフリカのモシ族の辭令を中心にまとめた勞作『無文字社會の歴史』を見れば、文字がなくとも宗敎儀式もコミュニケイトも統治組織も成立してゐることが分かる。氏によれば、無文字社會といふのは、文字がない社會ではなく、文字を必要としない社會のことである。まつたくこの通りであらう。さうであれば、漢字移入以前の日本は、まさに文字を必要としなかつた社會なのであり、決して言葉がなかつた社會ではない。

 小林秀雄には、かういふ文章がある。

「『お早う』といふ言葉の意味を觀念の上から考へれば、むなしい言葉になるが、これを使ふ場合の、人間の態度なり、動作なり、表情などの上から考へれば、人間同士の親しみをはつきりと現す言葉となるだらう。だが、普通、私たちはさう考へない。『お早う』は言葉といふよりもむしろ、挨拶だと考へるだらう。それほど、私達には、言葉といふものを考へる場合、言葉の觀念上の意味を重んずる風習が身についてゐるのである。學問や知識の發達によつて、私達の社會は、抽象的な或ひは觀念的な言葉の複雜廣大な組織を擁してゐるので、生活や行動のうちに埋沒し、身振りや、表情のなかに深くはひり込んで、その意味などはどうでもよくなつてしまつてゐるやうな低級は言葉を、もはや言葉として認めたがらない。」

(小林秀雄「言葉の力」昭和三十一年)

石川氏がとらへる「もはや言葉として認めたがらない」「低級な言葉」のなかに、漢字以前にあつた「言葉」=「やまとごころ」があると考へることは無理だらうか。私には、これも常識であると見えるが、氏はさうは考へないらしい。

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松原正・留守晴夫兩先生の講演會

2006年08月26日 07時48分18秒 | 告知

講演會の詳細を御傳へします。

 演 題  松原正先生 「感想」

              留守晴夫先生「人間栗林中將」(假題)

 日 時  9月23日(土)秋分の日   1:00開演 4:00終演

      ※講演終了後、懇親會があります。
 
 場 所  大阪市中央卸賣市場本場業務管理棟16階 大ホール
      (大阪市福島區野田1-1-86)         
      地下鐵千日前線玉川驛下車 徒歩12分
      JR大阪環状線野田驛下車 徒歩12分
      ※常連の方は、御分かりの通り、「いつもの場所」です。

 參加費  2000圓

 詳細は、電話0729-58-7301(森田さんまで)

  ※講演會後の懇親會への參加御希望の方は、上記の事務局(森田さん)に御申込みください。             

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だから私は「輪廻轉生」を信じない。

2006年08月25日 10時40分35秒 | 日記・エッセイ・コラム

チベット密教の感想の續きである。

私の滯在したところは、南インドにあるギュメ寺である。そこの管長猊下から講義を受けた。内容は佛教の基本、「四諦」についてである。苦・集・滅・道について、わづか一時間半ほどの講義であるが、じつに分かりやすく魅力的な比喩や適切な説明に食入るやうに聞き入つた。そして、終了後質疑應答があつたので、質問をした。

質問  佛教を實踐してゆくために、三寶にたいする歸依が必要といふことですが、日本にはチベット密教の僧侶がゐませんが、どうしたら良いですか。

御囘答  結局は利他の精神をいかに持つかである。これが佛教の實踐そのもの。僧侶がゐるゐないではなく、その精神をいかに受肉化するか、を心掛けるやうに。

質問  日本は、今少子化が問題になつてゐますが、魂の生まれ變りにおいて、日本の状況は良くないのか。

御囘答  さういふふうに考へてはいけません。日本の状態がどうかではなく、個人個人の意識の問題である。

質問  輪廻轉生が必然なら、すべての人が解脱すれば、人間がこの世からゐなくなつてしまひませんか。さうならなくても、すべての人が僧侶になれば、子供が生まれずに輪廻轉生が起きなくなりませんか。

御囘答  さういふことはありません。すべての人が僧侶になる必要はないのですから。僧侶になることが佛性を得る唯一の道ではありません。

さて、そこで考へた。結局、輪廻轉生は、僧侶にならない人の戒律違反による新たな世代の誕生によつて成立してゐるのである。平たく言へば、俗人の結婚による出産によつて支へられてゐるといふわけだ。衆生全體を救ふといふ本來の佛教精神と、輪廻轉生といふ考へは、矛楯するのではないか。私はさう思ふ。以前讀んだ本には、御釋迦樣は輪廻轉生をお説きにならなかつたといふことが書かれてゐた。なるほどさうであらう。それならば良い。

私は、かう考へるから、輪廻轉生を強調しない日本佛教に正統性を感じるのである。

無知による誤解があれば、上記の内容はいつでも訂正はするつもりである。

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『ブッダは、なぜ子を捨てたか』を讀んで

2006年08月24日 20時56分44秒 | 日記・エッセイ・コラム

インドのチベット村で、山折哲雄の新刊『ブッダは、なぜ子を捨てたか』を讀んだ。「我が子に『惡魔(ラーフラ)』と名づけたブッダ!」といふコピーに引き寄せられたこともあるが、後書に次のやうに書いてあつたのが氣になつたからでもある。

「阿彌陀如來や釋迦如來は、もうお堂の中にはおいでにならなのかもしれない。ブッダをはじめとして、觀音菩薩や不動明王や地藏菩薩も、もはや伽藍の内部にはおられないのかもしれない。薄暗い、狹い空間の中では身じろぎもままならぬ、息苦しいだけだ、とお感じになっているかのようだ。」

山折氏の言ひたいことゝ私の思ひとは正確には一致しない。このあと、氏は、佛・菩薩は廣廣とした庭に移動された、と言つてゐるが、私は佛像そのものに靈気を感じなくなつてしまつたと思つてゐるのである。

今年の年始め、春日大社と東大寺に初詣でに出かけた。大佛を見たあと、三月堂に行つた。不空羂索觀音を中心に、四天王、日光・月光像など、所せましと置かれてゐる。今から30年前の、中學生だつた頃の私には、感動で身體が震へたお姿だつたのに、今は不思議と何も感じなかつたのである。自分自身の變化に寂しい氣がしたが、「佛樣はここにはゐない」といふ直觀が、それ以上に強かつた。さういふ思ひを抱いてゐた中だつただけに、山折氏の文章に共感したのである。

で、書評である。

何だか、全然面白くなかつた。チベット密教の僧侶たちの嚴しい修行を目の前にして讀んだからかもしれない。すべて思ひつきの觀念操作で、御釋迦樣との出會ひや佛教成立時の説明も、説得力がない。輕いエッセイであつたとしても、學者の書くやうな説得力が乏しい。氏は、毎朝坐禪を組むらしいが、そこでの「悟り」がこのエッセイを書かせたのであらう。だが、私にはやはり思ひ込みにしか見えなかつた。

とは言へ、全否定ではない。チベット密教信奉者は、それだけが佛教の正統であとは異端と言ひたいやうな素振りをする人が多い。ダライ・ラマはさすがにさういふ素振りは見せないが。どう見ても、チベットの土着の宗教の影響を受けてゐるのであつて、2500年も經つて、100%當時の形であると考へる方がどうかしてゐる。したがつて、日本の佛教にも正統に繋がる部分はあるはずで、日本佛教の中にも(寺院の中に、ではない)、御釋迦樣の精神や思想は息づいてゐると考へる方が良いであらう。

内村鑑三が「日本的キリスト教」といふ言葉を使つたが、それがキリスト教の正統に通じてゐたやうに、「日本的佛教」もまた佛教の正統に通じてゐるはずである。山折氏の言説には、さういふ確信が基調にあることを感じた。もちろん、日本佛教の問題點も學者であるから十二分に感じてゐるであらう。私もまた感じるところがある。しかし、それは本書にはないし、表立つては書かないのであらう。それは「日本的學者」の性である。

もちろん、私は學者ではないから書ける。端的に言つて、戒律に問題がある、といふことだ。明治政府の政策だらうが、僧侶が妻帶することについては、もう少し愼重であつてほしい。魂の救濟は、言葉だけでは不可能だし、信仰の生活を基盤にしてほしいからである。俗的な僧侶が面白く扱はれる日本の社會であるが、宗教の役割については、考へ直す時期に來てゐる。これもまた近代のやり直しの問題である。

チベット佛教は、輪廻轉生を土臺としてゐる。日本佛教は、儒教の影響で先祖崇拜を土臺としてゐる。私は、やはり後者の國で生まれて良かつたと思つてゐる。輪廻轉生の國では、どうやら親子の關係が稀薄になりやすい、そんな印象を今囘の旅で感じた。

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言葉の救はれ――宿命の國語101

2006年08月23日 20時08分16秒 | 福田恆存

現實の「言語」生活といふものは、たえず「文字」を凌駕するものである。漢字といふ文字が入つてくる以前に、萬葉集に殘されてゐる「歌」はあつたのであり、それも想像を越えるひろい範圍から蒐集されてゐたのである。

あるいはまた、『源氏物語』といふ大文學が「書」かれてゐた社會をすでに經驗してゐながら、その一方で『平家物語』に代表される「語」り物としての口承文學が存在したといふことは、言葉が文字を凌駕してゐるといふことを明確に示してゐる。もちろん、盲目の琵琶法師であつたから、文字に書いても仕方なかつたといふ反論もあらう。しかし、語りの文學である『平家物語』が同じく軍記物語で「書」かれた作品である『保元物語』や『平治物語』より優れてゐるといふことの意味は何だらう。このことは少なくとも文字の文化と同程度の、音による傳承文化があるといふことを示してゐると言へよう。文字を有する文化が、即ち先進文化であるといふのは、先入觀であり、大いに誤謬を含んでゐると言はざるを得ない。

この邊りのことは、偶然にも『諸君!』の五月號で、西尾幹二氏が「江戸のダイナミズム――古代と近代の架け橋⑦」で觸れてゐる。かなり詳しく説明がされてゐる。以前の『國民の歴史』にも觸れられてはゐたが、研究は繼續されてゐるやうだ。興味ある方は御參照されたい。ただ、西尾氏は「言葉の本質は音にある」といふことを何度も強調されるが、それは違ふ。理由は前に述べたので、控へる。西尾言語論の瑕疵である。

 では、その西尾氏的「言語本質は音論」の對局に石川九楊氏がゐる(つまり「言語本質は文字論」)のかと言ふと、さうでもない。そこが不思議である。石川氏はかうも言つてゐるのである。

「話され、書かれる以前に言葉はなく、聴きとられ、読みとられる以前に言葉は口を開かない。/私たちの世界には、話す、書くという行為の坩堝(るつぼ)で合成される以外には言葉と呼べるものは存在しないのだ。」

(『筆蝕の構造――書くことの現象学』平成四年)

 あるいは、近著のタイトルは『誰も文字など書いてはいない』である。言葉があつて文字があるのであり、文字があつて言葉があるのではないとは持論のやうである。そして、その書きぶりは大向うを意識して大仰であるが、常識的である。その書の中で言つてゐるやうに、「言葉を話す」とは言ふが、「聲を話す」とは言はないのと同じやうに、「文字を書く」のではなく「言葉を書く」と言ふ方が正確だといふのは、良識と言へる。

しかし、ときどき氏の主張にはをかしな意見が出てくる。「漢字によつて日本語は支配を受けてゐる」などといふのはその典型である。

誰も文字なと書いてゐないのであれば、漢字によつて日本語は支配されなどしないだらう。もちろん、漢字が日本語を鍛へてきたのは事實であるから、影響を與へてきたといふのなら分かる。これも常識である。そして今日漢字漢文教育が蔑ろにされてゐる愚を警告することの正當性も常識である。しかし、「漢字による日本語の支配」などといふ状況は今日にもあるいは過去にも、そして將來にもありえない。もし支配があるとすれば、それはこの書家が、漢字の書に支配されてゐるだけであらう。

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