「漢字による日本語の支配」などといふ幻想を抱くのではなく、漢字によつて日本語の文字ができたといふ事実を踏まへれば、それで良いではないか。石川氏は書家だから、言葉の表記の面を尊重しすぎる嫌ひがある。文字を重んじすぎるばかりに、漢字文明絶對論とも言へる卑屈な日本文明論を主張してしまふ。しかし、そんな偏つた論を言ひ募るより、ひろく常識的に、文字以前に言葉があつたと考へた方が良い。
漢字によつて「かな」が生まれたことは事實であるが、「やまとごころ」は漢字以前になかつたといふことはありえない。言葉があつたのである。それは必ずしも文字である必要はない。確かに、私達人間は言葉によつてしか認識はできない。しかし「オト」で表す言葉があれば、やまとごころを自覺し、他者との間で共有することは可能であつた。名辭することは、何も文字の特權ではない。石川氏の主張をもじれば「誰も文字など話してゐない」のだから。
ちなみに言へば、現代でも無文字文化はある。川田順造氏が西アフリカのモシ族の辭令を中心にまとめた勞作『無文字社會の歴史』を見れば、文字がなくとも宗敎儀式もコミュニケイトも統治組織も成立してゐることが分かる。氏によれば、無文字社會といふのは、文字がない社會ではなく、文字を必要としない社會のことである。まつたくこの通りであらう。さうであれば、漢字移入以前の日本は、まさに文字を必要としなかつた社會なのであり、決して言葉がなかつた社會ではない。
小林秀雄には、かういふ文章がある。
「『お早う』といふ言葉の意味を觀念の上から考へれば、むなしい言葉になるが、これを使ふ場合の、人間の態度なり、動作なり、表情などの上から考へれば、人間同士の親しみをはつきりと現す言葉となるだらう。だが、普通、私たちはさう考へない。『お早う』は言葉といふよりもむしろ、挨拶だと考へるだらう。それほど、私達には、言葉といふものを考へる場合、言葉の觀念上の意味を重んずる風習が身についてゐるのである。學問や知識の發達によつて、私達の社會は、抽象的な或ひは觀念的な言葉の複雜廣大な組織を擁してゐるので、生活や行動のうちに埋沒し、身振りや、表情のなかに深くはひり込んで、その意味などはどうでもよくなつてしまつてゐるやうな低級は言葉を、もはや言葉として認めたがらない。」
(小林秀雄「言葉の力」昭和三十一年)
石川氏がとらへる「もはや言葉として認めたがらない」「低級な言葉」のなかに、漢字以前にあつた「言葉」=「やまとごころ」があると考へることは無理だらうか。私には、これも常識であると見えるが、氏はさうは考へないらしい。