言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

生誕100年 岡本太郎

2011年02月26日 23時59分29秒 | 日記・エッセイ・コラム

朝日新聞の記事より。

Photo

 チョコレート製の太陽の塔が、26日に神戸である「神戸スイーツサミット」会場に出現した。芸術家の岡本太郎さん生誕100年を記念したバースデーケーキだ。

 神戸の洋菓子店「ユーハイム」が1カ月半かけて作った。胴体には球体形のホワイトチョコ8千個を使い、背後にはロウソクに見立てたバウムクーヘン100本が並ぶ。

 高さ2.2メートル。デコレーション用の菓子で食べる予定はないが、「4500人分ぐらいはありそう」と担当者。芸術だけでなく、おなかも「爆発」しそうだ。

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岡本太郎生誕百周年――2月26日

2011年02月23日 23時11分56秒 | 日記・エッセイ・コラム

 岡本太郎は、明治44(1911)年2月26日に生まれてゐる。今週の土曜日26日で生誕100周年を迎へる。既に御紹介した通り、NHKではドラマが四回連続で始まるし、NHKアーカイブスでも3月13日(日)にNHK総合でやるやうだ。楽しみな日々が始まる。

また、百周年を記念して、ホームページも開設された。ご関心のある方は、是非御高覧ください。

http://taro100.jp/

 岡本太郎記念館では、太陽の塔の内部に造られてゐた「生命の木」の模型が展示されるといふ。これもまた楽しみだ。表参道に行かう。

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時事評論石川――最新號

2011年02月21日 20時44分34秒 | 告知

○時事評論石川の最新号の目次を以下に記します。どうぞ御關心がありましたら、御購讀ください。1部200圓、年間では2000圓です。

 今年最初の今月號に一文を寄せさせていただいた。今の政治や經濟やその他「戰後社會」全體の體たらくを批判するのは簡單だ。しかし、その刀を自らに向ければどうか。途端に口ごもつてしまふはずだ。ダメには彼我の差は無し。それなら待つにしくはない。もちろん何もしないで待てとは言はない。やるべきことを早急に進めるべきだ。しかし、やるべきことをやらないで結果ばかりを求めてゐると、とんでもない結末を迎へる、そんな氣がする。いつまで待てば良いのか、と氣の早い讀者は訊いてくるかも知れない。しかし、さういふ氣の早さが今の體たらくを招いたと考へたらどうであらうか。「お調子者」が多過ぎるのが問題だ。やるべきことをやる、それに盡きる。それ以外にない。

    朝鮮人學校への支援については、積極的に否定も肯定もしない。北朝鮮との交渉の打開策を立てる姿勢すら見せない現政權が、日本にゐる朝鮮人學校に對してだけ嚴しくするといふのは弱いものいじめに映る。現實の朝鮮人學校に通ふ生徒の6割が韓國籍である(大阪)といふことを考へると、彼等の教育に對して北朝鮮の蠻行を楯に支援を打ち切るのは少し無理がある。何か手はないものか。いつそ教科書を檢定教科書にすればいいのだが。

「待つ」しかないではないか

    ―代用の近代の終はり―

             文藝批評家 前田嘉則

言語道斷 朝鮮人學校授業料無償化

     報道されぬ朝鮮總聯の無償化獲得への工作                                    

                         新聞記者  安藤慶太

教育隨想       

日本臺灣學生會議と日臺交流教育會 (勝)

落ちる臺灣、危ない日本

     日本の友人への手紙                                    

                         臺灣在住作家  張  明彦

奔流            

解散に追い込めるのか

  ―自民黨の力量も問われている―

          拓殖大學大學院教授 花岡信昭

コラム

        消費税増税を推進する適格性  (菊)

        檢察批判より正義を考へよ (柴田裕三)

        三浦哲郎の死を悼む(星)

        與謝野無節操を追及した朝日(蝶)            

  問ひ合せ

電話076-264-1119    ファックス  076-231-7009

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丸谷才一とは感覺が違ふ 2

2011年02月20日 12時16分56秒 | 日記・エッセイ・コラム

星のあひびき 星のあひびき
価格:¥ 1,575(税込)
発売日:2010-12-03
   丸谷才一の新刊『星のあひびき』を讀了した。文章の話し口調のスタイルが好きで、丸谷節を滿喫出來た。何しろ博學で、思ひきりのよい斷定とユーモアとが上等なものであることを保證してゐる。主張や物の考へ方は根本的に違ふが、ずつと愛讀して來た。今囘もそれは同じ。「違ふな」といふ感覺には時時なるけれども、最後まで讀ませてしまふ。面白かつた。

   今囘の違和は、丸谷の友人篠田一士の『世界文學「食」紀行』をほめたくだり。丸谷はその文章から次の言葉を引く。

――

   人生いかに生くべきかという、倫理の問題も大切だし、たしかに近代小説をいわず、古今東西のすぐれた文学作品は、これに応える内容をもっているけれども、同時に、生きるというのは、まさにパンによって生きることで、そのパンの効験について、種々さまざま、具体に即して書くのも、また、小説の、重要というよりは、不可欠な機能なのである。

                                   ――

   確かに、かういふものも重要なのだらう。私は實作は一度だけしたことがあるが、そのほんたうにささやかな經驗から言つても、「パン」などの「具體に即して書く」といふの不可缺な機能である。しかし、その當り前のことで終はつてゐる小説が私たちの小説にはなんと多いことか。「これに應へる内容」がもつとあるべきだと思ふが、如何。少なくとも篠田や彼を賞讚する丸谷にはその意識はない。これはきつと私たち日本人にはさういふ小説を書くことが無理なことであることを意味するのかもしれない。「人生いかに生くべきか」といふ問題は、私たちには關係ないことで、「いかにして食べられるやうにするか」にしか關心がないのだとしたら、それは結構深刻な問題なはずである。それなら、その缺落の感情を小説にして書いてもいいのではないか。いやいやそんなことは無理である。その缺落の感情がないから、そもそも「パン」のことしか書けないのであるから。漱石の努力を引き繼ぐ人は、あまり見當らない。淋しい人間であつた漱石は、今も淋しいままである。

   倫理の問題は西洋に任せ、專ら我等は「パン」の小説を書くべし。さう言ひ切る覺悟もないままに、だらだらと書き續けてゐる。 當代の一流の作家や批評家がこのやうな認識であるのは、讀者としてはしんどいことである。

  

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大澤信亮の「復活の批評」を読む

2011年02月18日 23時20分34秒 | 日記・エッセイ・コラム

 『文學界』の最新号で、大澤信亮といふ若い批評家の評論を読んだ。昨年の暮だつたか、『神的批評』といふ評論が新潮社から出てゐるのを知つて、随分魅力的なタイトルをつける批評家だなと思ひ読まうかとも考へた。だが、その中の宮澤賢治論がふと目にとまつてやめることにした。宮澤賢治には触れるな、これが私の直観である。

 しかし、今回の評論は、今活躍する批評家への思ひ切つた註文である。柄谷行人、福田和也、大塚英志、東浩紀が俎上に上る。極めて率直で、細かい論証よりも彼らの姿勢を痛烈に批判するのは、かつての文藝批評家たちが持つてゐた文學の風情があつて好もしい。文藝批評が哲学的な(特に現代思想的な)色合ひを濃くするにしたがつてつまらなくなつてきた現状認識を、これほど闡明にしてくれた批評家も珍しい。

 ただし、若干36歳の青年が、自分の人生を振り返つて「試練の十年」と言つてのけるのは、相当に滑稽であるし、これまでの社会的人生の何倍もの時間を今後生きるのであるから、それは書かない方が良かつた。

 また、「私の求めるところは本物の思想である」と言つて、最後に取り上げるのが石川啄木であつたのには、読んでゐた電車の中で声を出して笑ひさうになつた。それまでの緊張感のある文章が、こんな結論に収斂してしまつて良いのか、と註文をつけたくなつた。「文學界」の編集者はさうは思はなかつたのだらうか。

 たいへんな研究者であると思ふ。いろいろと気付かせてくれることがあつた。まさに新進気鋭と言つて良いだらう。しかし、今のところはアンビバレントである。この先、どうなるであらうか。福田和也や東浩紀のやうに小さく萎んでしまふのか。さうならないでほしいと期待してゐる。

『神的批評』に挑戦してみようか。

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