言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

福田恆存の芝居『明暗』上演――これが最後かも

2012年10月27日 07時33分59秒 | 告知

meian.jpg以下は、紀伊国屋サザンシアターのホームページからの転載です。

何度も書いてきましたが、今年は福田恆存生誕100周年。いろいろなイベントがありましたが、これがその一連の最後のイベントだと思ひます。

また、福田恆存の戯曲上演も、最後とは言はないまでもしばらくはないかもしれません。ぜひお出かけになつてみてはいかがでせうか。

(財)現代演劇協会主催
「明暗」

■日程  2012年11月28日(水)~12月2日(日)

■作   福田恆存

■演出  福田逸

■出演
寺内よりえ 要田禎子 林佳代子 服部幸子
吉田直子 舞山裕子 岩田翼 鳥畑洋人
田中正彦 清田智彦 本田次布

■ストーリー
主人公の康夫は太平洋戦争の直前に事故で失明する。戦後10年、光を閉ざしてきた彼は自らの意志で開眼手術を受け、敢えて「過去を見ること」を受け入れる。康夫の「過去」とは旧満州国の新京での出来事、そして幼い息子を置きざりにしての引き揚げ・・・。退院するその日、康夫を迎えるために集まった人々。甦った光明。しかし康夫が取り戻したその光は親子、姉妹、夫婦の過去の真相を白日の下に晒していく。秘密を隠すことで辛うじて保ってきた関係が、今まさに崩れ去ろうとしている。

 tokei1.jpg
■日程表
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チケット情報

[全席指定] 一般 5,500円 学生 3,500円入場料金

 10月15日(月)チケット発売


  キノチケットカウンター(新宿本店5階/店頭販売のみ 受付時間10:00~18:30)
  演劇企画JOKO・電子チケットぴあ
前売券取り扱い

■お問合せ 演劇企画JOKO 03-6907-9213(平日10:00~18:00)

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時事評論――最新號

2012年10月21日 14時37分39秒 | 告知

○時事評論の最新號の目次を以下に記します。どうぞ御關心がありましたら、御購讀ください。1部200圓、年間では2000圓です。 (いちばん下に、問合はせ先があります。)

                 ●

         十月號が発刊された。

                 ○

        一面に書かれた遠藤浩一氏の文章で、頭の中が整理される。今日の政治の状況をみて、いろいろと考へることが多いが、はて、どう具体的に進めていけばよいのかと問はれれば、まづは民主党に政権を降りてもらふこと、これ以外には見つからない。しかし、一票の格差もあれば、特例公債の法案成立も急務とあれば、今のままずるずると行くしかないのかとも気のやさしい私などは考へてしまふ。

        が、遠藤氏はきつぱりとかう書く。


                    「失政を重ねた民主党を含めた主要政党の合議によつて物事を決めていけばいいといふ議論こそ、実は、言葉の真の意味における『政治倫理』を毀損する」

        まつたくその通りである。民意といふものを意識しすぎ所に今日の問題の根本がある。『論語』にあるやうに、「民はこれを由らしむべくして知らしむべからず」である。国民に真実を知らせ正しい判断をしてもらはうなどといふことは所詮無理なのである。だから、判断と責任を一身に政治家が背負ひ、それを選挙で評価してもらふのが民主主義である。いちいち国民に判断してもらふのなら、政治家などいらない。

        勝岡寛次氏のいぢめ防止策は、重要な問題を孕んでゐる。生徒や保護者に教師の勤務評定をつけさせれば、もしかしたらいぢめはなくなるかもしれないが、その結果、教育は成り立たなくなる。さうは考へないだらうか。親の評定で左右される存在から子供は学ぶことができるだらうか。簡単な道理である。そんな勝岡氏が研究する「戦後教育史」とはどんな学問であらうか。


        今月の「この世が舞臺」はシェイクスピアの『あらし』である。「人間は天使と悪魔との間で引き裂かれた矛盾の塊なのである」といふ「人間に關する究極的な知識」であることを、如何にして吾物と成すかが「吾吾日本人にとつてそれ以上の大事は無い」と言はれる留守氏の發言はいつもながら冴えてゐる。        

 

              ☆        ☆    ☆

「決められない政治」を克服するために

       評論家・拓殖大学日本文化研究所所長 遠藤浩一

● 

教師に「見て見ぬふり」させぬシステム必要

いぢめ事件の投げかけたもの――生徒、保護者が直接教師の勤務評定を

                明星大学戦後教育史研究センター 勝岡寛次

教育隨想       

      皇族は国家公務員ではない

     ――皇室を愚弄する政府の専断を許すな (勝)

この世が舞臺

     「あらし」シェイクスピア                              

                     圭書房主宰   留守晴夫

コラム

        いまこそ「脱中国」の具体策を  (菊)

        平成の田沼改革 (石壁)

        日中間に魂は行き交ふか(星)

        不安定の元凶は政府(騎士)   

   ●      

  問ひ合せ

電話076-264-1119     ファックス  076-231-7009

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丸谷才一さんが亡くなる

2012年10月14日 12時05分53秒 | 文學(文学)

     昨日、帰りの電車のなかでその報に接した。携帯電話を開いて、画面に表示されるニュース速報がそのことを告げてゐた。

     国語(丸谷氏は、日本語と言ふけれど)についての見識は、現代作家随一であつたし、歴史的仮名遣ひで讀ませる小説は、新刊をいつも楽しみにしてゐた。最後の小説となつた『持ち重りする薔薇の花』はさすがに精彩を欠いてゐたけれども、これまでに随分と楽しませてもらつた。これで新作が讀めなくなるかと思ふと哀しい。

     もちろん『裏声で歌へ君が代』などと言ふ国家観の欠如した小説については私は嫌ひである。著作権を守つてもらふために国家の必要性を十二分に認識してゐたはずなのに(事実、丸谷氏はその著作物の権利維持に懸命であつた)、国歌は裏声で歌へといふのであるから、御都合主義ではある。確かに、国語の今日の破壊的状況の原因は、国家の国語政策の無策にある。それには私も同意する。しかしながら、だからと言つて国家を否定するといふのは、あまりに幼稚な言論である。

たった一人の反乱 (講談社文芸文庫) たった一人の反乱 (講談社文芸文庫)
価格:¥ 1,575(税込)
発売日:1997-03-10

     文藝的な教養人が時に見せる、この無邪気な政治音痴はユニークさでもあつて、「文藝的な、あまりに文藝的な」と言へるかもしれない。その音痴を政治信条にして下手に政治活動など行はないところが、丸谷才一の見識であつた。そこらあたりは、大江健三郎や亡くなつた井上ひさしとは雲泥の差である。

     村上春樹氏をデビュー当時から一貫して評価してゐたのは丸谷才一である。このことは、新聞の解説記事にはどこにも書かれてゐないから記しておきたい。才能のある人物を見抜くといふことは、それだけで素晴らしいことである。特に、作家は自分の才能に自信をもつてゐる存在だから、同業の才能への評価は厳しいはずである。その難関をするりと抜けて、異能の人物をずばりと見抜けたといふのは、人間としての器にも魅力があつたのかもしれない。それがまた文壇的な政治力につながつた・・・・・・これ以上書くのは追悼文には相応しくなからう。

     ともあれ、御冥福をお祈り申し上げます。合掌


            附記  丸谷才一と三島由紀夫は同じ年だといふことを思ひ出した。三島が生きてゐれば八十七歳であつたといふことである。デビューの年が違へば、その文學性の差異も生まれるといふことであらう。まつたく違ふ作風は、時代のせいであるとしか言ひやうがない。

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福田恆存生誕100年

2012年10月08日 14時23分00秒 | 日記・エッセイ・コラム

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    先日9月30日に、東京新宿の紀伊國屋サザンシアターにおいて、福田恆存の生誕100年を記念したシンポジウムが開かれた。詳細は、『正論』の十二月号に載せられるとのことだつたので、詳しくはそれを見てほしい。私は、私の心に残つたことだけを書く。
    福田逸氏以外は、絶対といふことに注目し、それについて語つてゐた。もちろん大事なことであるし、拙著『文學の救ひ』も、そのことをテーマに書いたものである。だから、我が意を得たりといふ思ひで聞いてゐたかといふとさうではなかつた。自分でも不思議であるが、これだけ「絶対」「絶対」といふことを聞かされると、ちょつと息苦しいなといふ思ひになる。それほどに絶対者を意識して生活してゐる存在でもない、私たち日本人が福田恆存の発想をキリスト教的なあり方に重ねて読み解くといふのはいかにも図式的である。中には、中島岳志氏のやうに「福田恆存は宗教哲学者だ」と位置づけてしまふ(あらうことか、新保祐司さんなど「さういふ見方はこれまでにない見方で面白い」などと発言されてゐた。「えっ、それでいいのですか、新保先生!」)となれば、それはちょっと違ひますよと口を挟みたくなつてしまふ。生前の福田恆存を身近に見てきた谷田貝常夫先生やその他の方々は、どうお思ひになるだらうか。そこら辺りをうかがひたくて、谷田貝先生には挨拶をしたが、「今日は台風が来てゐるから、これで失礼」と言はれて早々に帰られた。また、大阪に来られるといつも福田恆存と会つてゐた、言はばお弟子でもある平岡英信氏も来られる予定だつたが、都合でこのシンポジウムには来られなかつたが、平岡氏ならどうお聞きになるだらうか。
    御子息の逸氏だけは、絶対といふ話はされなかつた。自然と付き合ふ、歴史と付き合ふ、言葉と付き合ふ、それを生活の中で「父はかう話した」といふ話をされた。さういふ話が聞きたかつた私としては、とても興味深かつた。「湯呑を作つてくれた職人と、それで飲むお前とが、この湯呑を通して付き合つてゐることが分かるか」といふ話は、福田恆存が生活をどう生きてきたかといふことが分かる。絶対を意識しながらも、相対の中でしか生きられない私たちは、その相対物と接するなかで、絶対を実感していくといふことである。西洋の自然もこの日本の自然も、同じく自然といふのであれば、そこに絶対がある。さういふことであらう。
    絶対といふことを言葉にしては絶対でなくなる、といふことを前に座られてゐた方々は口々に語つてゐたが、さう言ひながら絶対を論じてゐた。絶対といふ問題を絶対といふ言葉を使はずに論じるのは非常に困難である。しかし、そこを論じてほしかつた。具体的に言へば、「言葉と付き合ふ」といふことについても絶対を論じることができたはずだ。福田恆存は言葉と付き合はうとしたから歴史的仮名遣ひを用ゐたのであるが、「絶対」を述べ、宗教哲学者と言ひ、それに賛同しながら、まつたくその仮名遣ひの問題については意識の外に置いてゐた(福田恆存は『私の國語教室』の序で「私が書くほかのものを讀まなくてもいいから、これだけは讀んでいただきたい」とさへ記したのにである!)。
    現代人に話されてゐる音を表記したものを文字といふのであれば、言葉は相対的なものである。しかし、語を意識し、伝統とのつながりを求め、一つの型を造り出さうとするとき、絶対といふものは醸し出される。現在を相対化するものとしてである。逸氏が「付き合ふ」といふ言葉で暗示したのは、そのことではなかつたか。しかし、その言葉を拾ひ上げ、敷衍する人は誰もゐなかつた。
    絶対を意識する人が、どうして保守的な生き方を選ぶのか――それはとても重要な問題提起であつたのに。

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好きな画家――辰野登恵子

2012年10月05日 10時09分31秒 | 日記・エッセイ・コラム

 現代の画家で好きなのは、辰野登恵子である。先日、福田恆存生誕百年のシンポジウムがあつたので東京に出かけた。開場時間までには、新幹線の到着時間の関係でしばらく時間があつたので、どうしようかと思案してゐるところ、偶然辰野登恵子展があることを知り、六本木の新国立博物館を訪ねてみることにした。

 辰野登恵子の絵を初めて見たのは15年ほど前、まだ東京にゐた頃、開館したばかりの東京都現代美術館である。その絵を一目見て、魅了された。

Photo

 繭がいくつも重ねられたやうなモチーフが、そのころの辰野の絵の特徴であつた。今回新作を見ると、細胞壁のやうな四角の連なりが、今の絵には描かれてゐた。今回の展覧会では、学生時代から今日までの40年の間の変化を一望でき、少々興奮気味に見た。もう少し見てゐたいといふ誘惑に負けて、失礼にも新宿で会ふ約束をしてゐた友人に美術館まで来てもらふといふことまでしてしまつた。

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 ではいつたいこの絵のどこがいいのか、と訊かれれば今はまだ言葉にすることはできない。集合し大きな塊となりながらそれぞれは粒立つてゐる、その姿から醸し出される質感が妙に心地よいのだ。そして、滲み出る色遣ひにも非常に強い共感を覚える。さういふ言葉しか見つからない。

 10月22日まで新国立博物館(六本木)でやつてゐる。機会があれば覗いてみてください。

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