言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

留守晴夫先生大阪講演会のお知らせ

2010年10月31日 14時31分00秒 | 告知

 留守晴夫先生の講演會が久しぶりに大阪で行はれる。『松原正全集』の刊行が始まり、それにまつはる話をきつかけに、たぶん日本近代における精神性の諸問題について話されると思ふ。近年は、林子平を精讀されてゐるやうです。

   場所と日時は以下の通り。

日時  平成22年11月21日(日)  午後1時~3時(開場は12時半)

場所  大阪市中央卸賣市場本場業務管理棟  3階

交通  JR環状線野田驛または地下鐵千日前線玉川驛⑥出口より徒歩13分

費用  2000圓

參加される方は、morita@suinaka.or.jp あるいは  090-9043-8455に御申込みください。なほ講演會終了後に懇親會があるやうです。參加費は3000圓程度です。合せて御申込みください。擔當は、森田さんです。

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シラノ・ド・ベルジュラックを観て

2010年10月24日 08時45分57秒 | 日記・エッセイ・コラム

 觀劇してから一週間が經つてしまつた。すぐに感想を書かうと思つたし、友人からはメールで感想を早く書けと言はれたので、何とかしないと忘れてしまふと思つたが、何だか忙殺の一週間で今日になつてしまつた。

  キャラメルボックスといふ劇團での名作の上演といふのがどういふものなのか分からなかつたので、半ば期待し半ば期待せずといふ思ひで出かけた。結論は、たいへんにすばらしいものだつた。

   幕開きは趣向を凝らしたメタドラマといふのかメタシアターといふのか、劇を見に來た觀客がいつしか稽古場に集ふ役者たちとなり、彼らが臺本を受け取つて役を演じる。物語の始まりは、普段着の役者が一枚羽織るだけで、觀てゐる私たちの意識を一瞬にして變へてしまふのであつた。それは見事であつた。かういふ演出は何度も觀れば飽きられてしまふのかもしれないが、17世紀のフランスの世界を描くには、相應はしいものであらう。しらじらしくなく、劇であることに自然に入り込ませる仕掛けは見事である。

   3時間あまりかかる舞臺を2時間少少で演じるために、セリフを大分カットしたらしい。削れないシラノ(主人公)のセリフだけが殘り、厖大なセリフを彼だけが喋り續けることになる。この決斷には相當な勇氣が必要だつたはずだが、概ね成功してゐたやうに思ふ。ハムレットよろしく逡巡するにはスピードが必要だらう。普通、氣の迷ひはゆつたりとした時間が必要だらうと思はれるが、じつはさうではなく、迷つてゐるときは人は焦つてゐるものだ。かつて、新大久保のグローブ座で觀たハムレットはずつと走つてゐたが、さういふ動きを伴ふのが焦躁感に驅られる人の姿である。その意味で、このシラノは喋り續けてゐたのがよかつた。作者自身の人物紹介にも「うるさい男」と書かれてゐる。不細工であるが劍の腕はすぐれ、理想を持ち續けるが哀愁がある、さういふ幾重にも引き裂かれた人物の姿がじつによく傳はつて來た。最後のところで、「それで宜い、俺の生涯は人に糧を與へて――自らは忘れられる生涯なのだ!」と戀ごころを抱くロクサアヌに言ふ姿は素直に感動した。

   シラノは詩人でもある。言葉は美文で、調べもリズムを刻んでゐる。さうしたセリフの言ひ方がしらじらしく聞えては舞臺が臺無しになる。しかし、このシラノを演じた阿部丈二は良かつた。精一杯走つてゐる姿が傳はつて來た。

   再演を期待する。

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『漢文法基礎』復刊!

2010年10月15日 22時15分39秒 | 日記・エッセイ・コラム

漢文法基礎  本当にわかる漢文入門 (講談社学術文庫) 漢文法基礎  本当にわかる漢文入門 (講談社学術文庫)
価格:¥ 1,733(税込)
発売日:2010-10-13
 『漢文法基礎』がやうやく復刊された。復刊のいきさつについてはあとがきでたつぷりと書かれてゐる。ああさういふことだつたのかと納得した。作者の二畳庵主人が加地伸行先生であることを今回は明かした上での出版である。

 漢文が大學受驗から消えつつある今日であるが、この本はさういふ次元とは別に、漢文を讀んでみたいと思ふ人には必見であらう。

   もちろん、センター試驗を受ける人、東大阪大九大を受ける人、是非とも讀んでみてほしい。

 加地先生の肉声が聞えて來さうである。

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「我思ふゆゑに我あり」――デカルトの救ひ

2010年10月10日 09時30分27秒 | 日記・エッセイ・コラム

 デカルトの「我思ふゆゑに我あり」は、近代の出發を高らかに宣言する産聲であると同時に、個といふものに執着する近代人の方向性を決定附けた聲明でもあるやうで、後期近代の今日ではあまり良い意味では使はれないのであるが、前囘紹介した『ぼく、牧水』の中で、堺さんはかう發言してゐた。

「デカルトの『われ思う。ゆえにわれあり』というのは、ずいぶんと肯定的、樂觀的なんだ」

 

 これを讀んで、驚いた。デカルトのあの言葉を自己肯定の意味で捉へるのか、と。かういふ捉へ方は簡單に出來さうで、實は出來ないのではないか。

 人は一人でゐることに寂しさを感じる。特に、思春期の頃は一人でゐたいといふ思ひと同時に友人のゐないことを異常に寂しく感じるものだ。ましてやもたれかゝつて生きて行くことに喜びを見出し易い私たち日本人は、一人でゐることの充實感よりも孤獨に耐えられないことの辛さを感じてしまふ。いじめや惡口に過剩な反應をしやすいのも、自己の信念よりも他者の視線に敏感になり重視してしまふからである。その結果、結果的に自分が分からなくなり自信を喪失し、殼に閉じ籠つてしまふことにもなる。「俺はいつたいなぜゐるのだらう」「僕はどうして生れたのだらう」。

 そんなときに、他者の一切介在しない空間で「我思ふゆゑに我あり」といふ言葉を噛みしめれば、きつと心は支へられるに違ひない。ずゐぶんロマンティックな解釋であるが、「デカルトの救ひ」とも言へる、言葉の救ひをそこに見出すことが出來よう。

 近代とはずゐぶんと悲慘な時代であつた。思想も、戰爭も、そして人間破壞も、家庭破壞も、環境破壞も世界的なものとなつた。しかし、それでも個人といふものの誕生なしには、個の否定や全體への覺醒も起きないのだとすれば、必要な時代でもあつた。悲痛な時代であるが、その近代の産聲である「我思ふゆゑに我あり」は、實はあたたかい肉聲でもあつたのである。「考へてゐるだけで、君には生きてゐる意味がある」――デカルトがさうささやいてゐるやうに聴こえた。

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牧水の歌

2010年10月07日 20時07分43秒 | 日記・エッセイ・コラム

ぼく、牧水!  歌人に学ぶ「まろび」の美学 (角川oneテーマ21) ぼく、牧水! 歌人に学ぶ「まろび」の美学 (角川oneテーマ21)
価格:¥ 820(税込)
発売日:2010-09-10
  今、若山牧水の研究者である伊藤一彦氏と俳優の堺雅人氏の對談を讀んでゐる。この二人の關係が氣になる方もゐるだらうが、宮崎縣の縣立高校での教師と生徒の間柄である。私も宮崎にゐたから、堺さんはともかく、伊藤先生は存じ上げてをり、何度か御話を聞く機會もあつた。現代社會の先生だと言ふが、もつぱら短歌の話が中心であつた(當り前です、歌人だもの)。

  それはともかく、あの有名な「白鳥は哀しからずや  空の青海のあをにも染まずただよふ」で知られる牧水は、ほんたうに「哀しい」「哀しい」と詠んでゐることを知つた。あまりにもその言葉を使ふので、少少嫌になつてきたが、伊藤先生によれば、嫌味がないといふ。そんなものなのであらう。それは人柄なのかもしれない。酒ばかり飮んで、旅を愛して、それでも人からも家族からも嫌はれない、それは確かに人徳である。

   それで、こんな歌を詠まれては、笑ふしかない。

  さうだ、あんまり自分のことばかり考へてゐた、四邊(あたり)は洞(ほらあな)のやうに暗い

   ずゐぶん深刻な時代の歌ださうだ。「痛切さが胸に傳はつてくる」と伊藤先生は言はれるが、さうだらうかといふ思ひも讀者としてはある。いい氣なものだ、といふのが今の感想である。

   でも、好きな歌人である。憎めない。

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