言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

広告の二元論  石岡瑛子

2021年01月31日 11時07分10秒 | 日記

 岩井克人氏の「広告の形而上学」を授業で扱つてゐる。

 短いものだが、とても面白い。経済学者だからマルクスを引いて「ライオンやウサギがゐる中に『動物』がゐるやうなもの」といふ比喩で貨幣の特徴を説明する。つまり具体的な側面と抽象的な側面を貨幣は持つてゐるといふのだ。つまり、貨幣はそれ自体「需要(欲求と考へばよい)の対象」であると同時に「価値の尺度」であるといふことだ。そして、広告とはその貨幣と同じであると述べる。

 つまり、広告はそれ自体商品でもあるし、商品の媒介でもあるといふのである。

 広告は商品であるといふことがまづ難しいらしい。昨日、たまたまテレビを見てゐたら、アートディレクターの石岡瑛子のことを取り上げてゐた。前田美波里を起用した資生堂のポスターと言へば、私たちの世代なら見たことはあるだらう。そのポスターには、「太陽に愛されよう」といふコピーと資生堂のロゴと化粧品の写真が小さく書かれてゐるだけで、一見すると何を売らうとしてゐるのかが分からない。なるほど、これは使へるなと思つた。もちろん、今の高校生に前田美波里はないだらうが、伝へたいことは伝はると思ふ。ちなみに、このポスター、本物を今手にしようとと思へばいかほどかと言ふと、調べたら25万円だつた。最高額では28万円といふこともあつたといふ。かうなれば、広告も立派な商品である。

 あるいは、かういふ説明もできるかもしれない。ハンカチを最安値で買はうと思へば、百円ショップに行けば100円で買へる。しかし、お気に入りのブランドがあり、そのロゴが入つてゐるものが欲しいとなれば、その30倍はするだらう。ネクタイであれば、150倍になる。つまり、これも広告がそれ自体商品であるといふことだ。

 しかし、この具体物と抽象とが、一つの存在のなかにあるといふことがどうも分からないらしい。広告の二重性の意味である。

 これはなぜなのかが分からない。しかし、目の前の事象の裏には観念が貼り付いてゐるといふことが分からないと、評論は読めないのだけどなとつぶやきながら、さらに説明を重ねるよりは多くの文章を読ませて、慣れされる方がよいと思ひ、次の文章に行くことにする。

 今回、「逆説」といふ言葉も出てきたが、それも結構手こずつた。矛盾との違ひなども分からないやうだつたし、逆説のことわざの例を挙げよと言つたら、「紺屋の白袴」を挙げてきた。これもビツクリだが、それは次回にしようと思ふ。

 

 

 

「Encyclopedia of EIKO ISHIOKA」

東京都現代美術館 Presents 「石岡瑛子 血が、汗が、涙がデザインできるか」開催記念5時間番組

DOMMUNE

 

 

 

2021/02/03 WED 19:00-24:00

東京都現代美術館 Presents
「石岡瑛子 血が、汗が、涙がデザインできるか」開催記念5時間番組

「Encyclopedia of EIKO ISHIOKA」

出演:コムアイ、マキシーン・ヴァンクリフ(ファッション・ディレクター)、荒川弘之(写真家)、松下徹(SIDECORE)、桜井久美(衣装デザイナー、アトリエHINODE)、ドリアン・ロロブリジーダ(ドラァグクイーン)、hossy(ドラァグクイーン)、河尻亨一(編集者、作家)、永井裕明(アートディレクター)、松本弦人(アートディレクター、グラフィックデザイナー)、宇川直宏(DOMMUNE、”現在美術家” )、藪前知子(東京都現代美術館キュレーター)

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野田宣雄氏の逝去を悼む

2021年01月24日 13時05分39秒 | 評論・評伝

 いま新聞を読んでゐて野田宣雄氏のご逝去を知つた。一つ前の記事に書いた「私の読書遍歴」の中で大事な人を忘れてゐた。近代ドイツ史との比較で日本の政治や思想について語るのは西尾幹二氏と同じであるが、近代は西洋化であるといふ認識があつたやうに記憶するが、文章から受ける印象が西尾氏とはだいぶん違つてゐた。『諸君!』などに文章を寄せてゐた時にはリアルタイムで読んでゐたが、今世紀に入つてからはあまり文章をお見掛けしなくなつた。しかし、今も私の書棚には『歴史の危機』や『文明衝突時代の指導者』などが並んでゐる。何度も読んだのは『二十世紀をどう見るか』である。

 12月29日老衰で死去。享年87。ご冥福をお祈り申し上げる。

 

 

 

 

 

 

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西尾幹二を久しぶりに読む。

2021年01月24日 09時31分11秒 | 本と雑誌

 西部邁、山崎正和が亡くなり、保守派言論人の重鎮として健在なのは西尾幹二である。少し年齢が下なのは佐伯啓思だが、論争的な方ではないので文章は緻密なのかもしれないが、私はあまり魅力を感じない。論争的と言へば、江藤淳もだいぶん前に亡くなつた。その弟子のやうな存在である福田和也も今はあまり書いてゐない。更に思ひ出したが、そのお友達であつた坪内祐三も昨年だつたか亡くなつた。私の読書遍歴のなかで、多くを占めてゐた批評家たちが次々と鬼籍に入られていく。さびしい。そんな中、西尾の存在はやはり大きい。

 氏のウェブサイトの年始の挨拶には、アメリカ大統領選のことが書かれてゐた。選挙の疑惑は明確なのに、そのまま次期大統領が決まつてしまふことに危機を感じてゐるやうであつた。そこには、「米国は今や法治国家ではない」とまで書かれてゐる。

 ポストトゥルースの時代にあつて、何が真実かが分からない。かつて誰かが「嘘も三回(百回は大げさでは)言へば真実になる」と言つたと聞く(ゲッペルス、レーニン、ユダヤの格言など諸説あり)が、さうであれば、この状況は現代に限つたことではないかもしれないが、今や知識人も市井人も同じやうに「何が真実かが分からない」状況にある。信頼できる人、慧眼の士と言へる人が果たしてゐるのかどうか、それすらも分からなくなつてゐる。

 一方、それが民主主義といふものだとも思ふ。いよいよその馬脚を現したといふことであれば、それは慶賀すべきこととも思ふ。「民主主義の死」などと大仰に言ふ知識人もゐるが、そもそも民主主義に生も死もない。制度に生命観を持たせる発想自体が愚かである。プラトンを引くまでもなく、民主主義とは衆愚と隣り合はせなのである。

 したがつて、民主主義なんてこの程度のものだと世界中の民主主義幻想を醒ませてくれたのであるから、トランプにはその程度の褒章があつてもいいのではないか。

 何が真実か分からない中で、さてどうすべきか。それは簡単なことで、人間を選べといふことにつきる。言葉に力があつて(しかし、その人はサイコパスである危険性もある)、行動に誠実さがあつて(サイコパスにはこれがない)、愛がある(自己を否定する理想がある)人、その人を捜せばよい。その人の価値が分かるためにはこちらの目の質が問はれることになるから、それも怠つてはならない。ソクラテスになるといふことだ。

 さういふ訓練が日常的に行はれれば、真実を知ることはあまり難しくない。ただ相当に面倒くさいことではあるが。

 

 さて、西尾氏の話題であつた。

 2010年前後に、氏は日本の問題点を権威と権力に分類し、それを天皇と政治とに対応させて論じてゐた。そこでは思ひ切つて大東亜戦争の責任についても論じられ、近代の天皇には権力もあつたから当然ながら責任はあると明言してゐた(ここが他の保守思想家と異なる)。そして、その責任を昭和天皇は果たしたと見る。そして戦後の日本は、権威と権力とに分離するといふ伝統的なスタイルに戻つたので、政治が天皇を守らなければならない。しかし、今日その政治に権力を保持する能力がない。なぜか。日本はアメリカの属国になつてゐるからである。さうであれば、アメリカが日本の皇室を守らなければならないといふ見立てになる。事実、戦後の政治を見てゐれば、アメリカが皇室を守つてきたと言へると言ふ。ところが、近年ではそのアメリカの政治もふらついてゐる。さうであれば、皇室の保持は難しいのではないか。核兵器の保持も共産国が併存するこの東アジアでは必要なことだといふ論じるが、それも皇室の保持といふ視点から語られてゐる。こんな構図で西尾は今日の問題を見てゐる。

 こんなアクロバティックな思考法で現代日本をとらへる思想家は、さうさうゐるものではない。私にはそれを批評する力はないが、皇室への距離感が私とは異なるので、十分に理解できたとは言ひ難い。一度政治の舞台に上がつた近代天皇は、もう一度京都にお帰りになつて神事を全うしていただくといふことは難しいのかもしれないが、権威の象徴として天皇がいらつしやるといふのは違ふと思ふ。天皇は現憲法の埒外。京都が独立して神道国を作り、その信仰を持つ人が日本にたくさんゐるといふのはダメなのかと思ふ。絵空事に過ぎないが、日本の政治を立ち直らせるために皇室を持ち出すといふのは不敬のやうな気がする。

 ただ西尾氏の言葉には依然力がある。それは愛があるからだらう。

 

 

 

 

 

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『日本独立』を観る

2021年01月06日 09時20分35秒 | 映画

日本独立

 今月4日に今年初めての映画鑑賞。近所にも映画館があるが、あまり観たいものが見つからない。歩いていける所に二か所ある映画館はいづれも109シネマズで同じ系列。スクリーンの数に違ひはあるもの、中身は似たり寄つたり。ならば、少し足を伸ばして梅田の劇場を探すと、この映画が見つかつた。この映画の存在はまつたく知らなかつた。主演(白洲次郎役)も浅野忠信。その妻(白洲正子)役は宮沢りえ。吉田茂は小林薫、と一流どころ。幣原喜重郎(石橋蓮司)内閣の閣僚である健保草案を作つた松本烝治国務相には柄本明まで当てられてゐる。それで、こんな扱ひとはどういふ訳なのだらうか。もちろん、答へは分かつてゐる。流行らないからである。

 今月4日だから、もう仕事初めの人はゐるだらう。でも電車の人は平日の午前にしては少なかつた。映画館も混んでゐるといふ雰囲気ではなかつた。それでもまだ正月休みに映画を観に来たといふ印象が強い。時間ギリギリで上映場所に座ると結構席は埋まつてゐた。しかし、年齢は私よりも皆上の人ばかりである。これでは流行るまい。

日本独立

 原因は偏へに内容による。占領政策の一環として憲法をアメリカ主導で作るといふことの事実の周知とそれが独立国家としての不義についての啓蒙とを、今の大多数の人々は「大事なできこと」とは思つてゐないからである。「戦争に負けてもこの国は誰にも渡さない」とキャッチコピーをこの映画は掲げるが、その独立を果たすために尽力した吉田や白洲の「渡すまい」とした意思を「渡された」と自覚する者が少ない。鑑賞後、映画館下の喫茶室で感想を語り合つたが、その場違ひの空間では、この種の映画の感想を語るといふ行為すらが空しいほどの明るくて底抜けた解放感なのである。正月休みゆゑとは思ひたいが、たぶんさうではないだらう。白洲次郎がGHQとやり合ひ、松本大臣が米国案に怒りをぶつけたその事実も、「でも、今平和なんだからいいんぢゃない」といふ空気に吹き飛ばされてしまふだらう。

 私は、だから吉田茂の妥協こそが問題だつたと思つてゐるが、では当時の誰がマッカーサーと談判できたかと言へば、それは無理であらう。それも含めて戦争に負けた結果である。

 映画には、吉田満の『戦艦大和ノ最期』を巡る検閲のシーンが出てくる(映画では「最後」となつてゐた)。この本は創元社から出版される予定だつたので、当然ではあるが小林秀雄が出て来た。吉田満は渡辺大、小林秀雄は青木崇高。

 ただ、かういふ映画はやはり作つておくことが大事だと思ふ。今の世が受け容れずとも、必ずこれを観る人が出てくる。そして、吉田茂の成果と課題とをきちんととらへ、戦後の日本がどういふ道を選んだのかを知つておくことは「大事」であると思ふからである。

 監督は、伊藤俊也

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令和辛丑(2021)年 元旦

2021年01月01日 12時21分55秒 | 日記

謹賀新年

大阪は寒気強くも快晴。新聞を買ひに朝一番にコンビニへ。誰もゐない店頭で今年最初の会話。「おいくらですか」。

じつに平凡なスタートである。

  若水や拭ふ手のひら武者震ひ

浪人生を数十人抱へ、二週間後には現役生と共に共通テストに臨む。一週間後には私自身の学校の入試。正月とはそんな季節なので緊張もある。でも、嫌ではない。節目といふものの持つ心地よさを年ごとに感じてゐる。

 皆様にとつて佳き一年になりますやうに。

 

 

 

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