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そして父になる【映画ノベライズ】 (宝島社文庫) 価格:¥ 690(税込) 発売日:2013-09-05 |
日常の安定してゐた生活が、突如としてほころびを見せる瞬間といふのは誰でもある。
私の年齢で言へば、親の死であつたり、知人の不幸であつたり、失ふといふことを通じて、日常が乱れるといふことだ。
だから、息子が自分の子供ではなかつたといふことなど、さうあることではないのだが、役者の演技がうまいからだらうか、十分にその思ひに感情移入してしまつたのである。
入れ違ふといふことは、少なくとも二つの家庭を巻き込む事件となる。それまでの年月の意味と、親子や夫婦や兄弟の関係を引き裂く。きしむ関係から出てくる声は、時に叫びであつたり、沈黙であつたり、嗚咽であつたり、怒声であつたりする。当然だ。知らされてゐなかつた昨日と知らされた今日とが不連続であるがゆゑに、人の心は戸惑ふのである。
そして、その戸惑ひが行く道を曇らせ、どんどん迷路には追ひ込んでいく。
こんな話があつた。
出來の悪い息子だなと思つてゐたから、その息子が自分の子でないことを知らされた時に思はず、「やつぱりな」と言つてしまふ。もともと、自分とは似てゐないと思ひ、息子に苛立つてゐたのである。そのことが図らずもこれを機に露呈してしまひ、その言葉が妻を苦しめる。
日常の一言が人を傷つける。言葉は、心の出口である。さうだらう、さうだらう、身につまされる思ひで見てゐた。
子供は、じつに健気であつた。一切のいきさつを知ることなく、それぞれの家に引き渡される。もちろん、うまくいくはずはない。
血縁か結縁か――そんな二者択一を迫る映画ではない。しかし、いつかは結論を出すべき課題である。映画は、その結論を出さずに、自然に任せようとする。
だから、考へてしまふ。
結縁でいいのではないか。今は、さう思ふ。