言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

「そして父になる」を観て

2013年10月29日 21時54分06秒 | 映画

そして父になる【映画ノベライズ】 (宝島社文庫) そして父になる【映画ノベライズ】 (宝島社文庫)
価格:¥ 690(税込)
発売日:2013-09-05
 かういふ映画を見ては考へてしまふ。

 日常の安定してゐた生活が、突如としてほころびを見せる瞬間といふのは誰でもある。
 私の年齢で言へば、親の死であつたり、知人の不幸であつたり、失ふといふことを通じて、日常が乱れるといふことだ。
 だから、息子が自分の子供ではなかつたといふことなど、さうあることではないのだが、役者の演技がうまいからだらうか、十分にその思ひに感情移入してしまつたのである。

 入れ違ふといふことは、少なくとも二つの家庭を巻き込む事件となる。それまでの年月の意味と、親子や夫婦や兄弟の関係を引き裂く。きしむ関係から出てくる声は、時に叫びであつたり、沈黙であつたり、嗚咽であつたり、怒声であつたりする。当然だ。知らされてゐなかつた昨日と知らされた今日とが不連続であるがゆゑに、人の心は戸惑ふのである。

 そして、その戸惑ひが行く道を曇らせ、どんどん迷路には追ひ込んでいく。
 こんな話があつた。
 出來の悪い息子だなと思つてゐたから、その息子が自分の子でないことを知らされた時に思はず、「やつぱりな」と言つてしまふ。もともと、自分とは似てゐないと思ひ、息子に苛立つてゐたのである。そのことが図らずもこれを機に露呈してしまひ、その言葉が妻を苦しめる。
 日常の一言が人を傷つける。言葉は、心の出口である。さうだらう、さうだらう、身につまされる思ひで見てゐた。

 子供は、じつに健気であつた。一切のいきさつを知ることなく、それぞれの家に引き渡される。もちろん、うまくいくはずはない。

 血縁か結縁か――そんな二者択一を迫る映画ではない。しかし、いつかは結論を出すべき課題である。映画は、その結論を出さずに、自然に任せようとする。
 だから、考へてしまふ。

 結縁でいいのではないか。今は、さう思ふ。

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小谷野敦氏の眼目

2013年10月25日 08時49分17秒 | 日記・エッセイ・コラム

現代文学論争 (筑摩選書) 現代文学論争 (筑摩選書)
価格:¥ 1,890(税込)
発売日:2010-10-15

 小谷野敦氏の『日本文学論争』を読了した。とても面白かつた。主語が分かりづらくて、讀みにくいのはいつものことだけれど、それはこちらの読解力が足りないからかもしれないから、瑕疵とは言へない。内容についても予備知識がないものについては、その論争の経緯をその限りでなぞるしかない。それでも面白かつた。私が少しは知つてゐる北村透谷についてのやりとりで、旧知の橋詰静子先生が出てきたのは痛快であつたし、どうして先生が谷沢永一をあまりよく言はないのかが分かつた。これは逆に言へば、私の専門知識もその程度であるといふことである(当たり前だ!)。

  さて、小谷野敦氏の問題意識は明確で、そのことについてが一番心に沁みた。長いが引用する。

「議論がやせ細れば、勝利するのは多数決と経済原理であり、文学でいえば、売れるものが正しい、多くの人が支持しているものが正しい、ということになる。それが望ましくないことは、言うまでもないが、言うまでもなくはない、と言う人もいるだろう。
 しかし結局私は、沈黙を守る人間というのが根深いところで嫌いなのであろう。これは何も日本的特質ではないことは、「沈黙は金」というのが古代ローマの格言にあることからも分かる。むろん、沈黙しなければならない理由がある場合は別だが、ちっともそういう場合ではなくて、公的なことがらで自分に向かって議論が吹っ掛けられているのに、金持ち喧嘩せずだとばかりに、沈黙を守るという、そういう人間(が私は嫌いなの)である。『彼はあえて反論せず、黙って耐えた』などと、あたかも美徳であるかのように書かれた文章を見ると、条件反射的に不快になるのである。そういうのは、敵前逃亡というものである。」( )内は前田補足。

 茶化したり、無視したり、さういふ人間が私も嫌ひである。

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時事評論 最新号

2013年10月21日 19時26分48秒 | 告知

○時事評論の最新號の目次を以下に記します。どうぞ御關心がありましたら、御購讀ください。1部200圓、年間では2000圓です。 (いちばん下に、問合はせ先があります。)

                 ●

   10月號が発刊された。

  靖国に安倍総理が行かないといふ。先月の拙論で言へば、弔ひの行為を否定することである。理由は何か、外国への配慮があるからだといふ。しかし、配慮すべきは誰にたいしてなのか。戦没者の魂を弔はないといふことが、果たして私たちの国の文化を豊かにするものか。もちろん、そんなことはない。安倍首相が保守派で右翼だと言ふ。そんな馬鹿な話はない。単なる御都合主義である。

  昨日の、読売新聞のコラム「地球を読む」に、山崎正和は、「幼い正義感や内心の満足のために、結果として国益を損なうことは、誰のためにもならない。少なくともこの先の七年、政治家は自重に自重を重ね、まちがっても中韓をさらに刺戟して、東京五輪ボイコットなどを招くことのないよう努めてほしいものである」と書いてゐた。「幼い正義感や内心の満足」とは何のことだらうか。思はせぶりで不潔であるが、「柔らかい個人主義」者山崎の「無節操な自己中心主義」者振りが面目躍如である。

 同コラムで山崎は、かうも書いてゐる。「私は、安倍政権に今後の七年を委ね、約束実現の責任と権限を与えてもよいと思っている」と。どんな言ひ種であらうか。果たして個人が「与える」ものなのか、政治権力を。かうやつて、山崎は文化勲章へ近づいていくのだらうな。

              ☆        ☆    ☆

禍根残す非摘出子相続格差違憲判決

    歴史的英知を顧みぬ最高裁のポピュリズム

            新聞記者  伊藤  要

● 

日本の心を取り戻す「寺子屋で偉人伝を」の事業展開

      ㈱寺子屋モデル代表  山口秀範

教育隨想       

  実教出版の偏向教科書――採択権行使で排除せよ (勝)

第62回式年遷宮

「時代を映す鏡」としての御遷宮

    明星大学戦後教育史教育センター  勝岡寛次

この世が舞臺

     「人には棒振蟲同然に思はれ」井原西鶴                              

                            圭書房主宰    留守晴夫

コラム

     批評は何処へ?  (菊)

     「孫子」本家の「孫子」離れ (石壁)

     丸谷と江藤の文学的遺産(星)

     利潤制限論の愚(騎士)   

   ●      

  問ひ合せ

電話076-264-1119     ファックス  076-231-7009

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テクスト論の黄昏

2013年10月12日 16時54分25秒 | 文學(文学)

現代文学論争 (筑摩選書)

現代文学論争 (筑摩選書)
価格:¥ 1,890(税込)
発売日:2010-10-15

 

今、小谷野敦の『現代文学論争』を讀んでゐる。これが面白い。

 
 
 テクスト論といふ批評理論が私の職場でも話題になることがあつて、私が大学時代には、やうやく聞かれ始めた学説で、私などはもつぱら小林秀雄流の印象批評が最高だと思つてゐた。卒業後は、山崎正和の現象学的批評に心酔し、日常のさりげない行動の分析から人間論へと進む批評の魅力に随分と影響を受けた。もちろん、福田恆存の文藝批評も讀んだが、精緻な分析には圧倒されたが、とても難解でよく分からなかつた。

 テクスト論とは、目の前にあるテクストだけが批評対象であり、作者の意図は問題にしないといふことである。したがつて、文学史における布置や作家の生涯の中での位置づけは対象外とすることになる。もちろん、それは日本産のものであるはずはなく、「作者の死」といふ言葉で象徴されるロラン・バルトや、ジャック・デリダなどがその代表者である。

 日本では、小森陽一や石原千秋などが代表者であるといふ。石原はともかく、小森は文学者といふより左翼の運動家といふ印象の方が強い。しかし、いづれもテクスト論を武器に、いろいろな「文学論争」をしてゐた。

 漱石の「こころ」を巡つての論争は、なんだか非常にばかばかしい内容であつた。「先生」の妻と青年「私」とが恋仲で、死にかけてゐる父親を置き去りにして上京したのは、そのためであるなど、勝手な妄想に近い。テクスト論といふものの成果が、かういふどうでもよいことにしか結実しないとすれば、やはり理論の未熟ととられても仕方あるまい。滑稽ぶりを十分に堪能できた。

 文藝研究は、学者によるものと文藝評論家によるものとがある。得てして後者は、作者との身近な交流を下敷きにして、特権的な視点でなされることが多い。さういふ秘話暴露的なゴシップ的興味を否定はしないが、さういふ「特権」を所有しない学者や当該作者の死後の研究者の研究が二流に甘んじるべきかと言へば、さうではあるまい。優れた批評は、いくらでも生まれるはずである。さういふ見識を裏書きするやうな理論として、テクスト論が当初はあつたのではないかと私は思ふ。

 しかし、その実践者が小森や石原であつたといふことが悲劇なのであらう。もうすつかり評判の悪い批評理論になつてしまつたらしい。

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ギュンター・ペルトナー教授講演会

2013年10月11日 10時24分03秒 | 告知

11月9日、10日にウィーン大学のギュンター・ベルトナー教授の講演会が東京で行われるとの案内を、大阪教育大の瀧先生から頂戴した。日本語の通訳もあるから大丈夫とのことであるが・・・

Vom Wunder der
Sichtbarkeit
Zum Gedanken des Schönen im Mittelalter

<見えること>の奇跡
中世における<美しさ>についての思索
司会|馬場智一(東京大学東洋文化研究所 CPAG)

2013年11月9日(土)14:30~17:30
東京大学東洋文化研究所小会議室
主催|グローバル化時代における現代思想
(CPAG)(日本学術振興会科学研究費補助金基盤研究A・研究課題番号24242002)
ギュンター・ペルトナー教授(ウィーン大学)講演会

関連講演:<美しさ>を<美学すること>の問題(司会|平子友長)
11月11日(月)一橋大学 佐野書院第2室 14:30~17:30
共催|カントの人間哲学の総合的理解の試み
(日本学術振興会科学研究費補助金・基盤研究C・研究課題番号23520014)

使用言語|ドイツ語(日本語資料配布・通訳有)
入場無料・事前登録不要

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