言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

言葉の救はれ――宿命の國語 番外篇6

2009年01月28日 21時51分59秒 | 福田恆存

  批判し續けてゐる加賀野井秀一の『日本語を叱る!』であるが、この本の最後は「日本語の歴史を知らず、日本語が雑種的であることの良さを認めず、日本語の力に気づかない、私たち自身の無知なのです」と書かれてゐるが、これほどの缺陷本なのだからこの際は潔く「私自身の無知なのです」と書いてくれた方が氣持ちが良い。

  この人の言ふ「雑種」性とは、たかだか漢字とひらがなとカタカナで出來てゐるといふことに過ぎない。外來語の多用と明治以降のネオ漢語の未熟さについての指摘は、その通りであるが、さうであるから日本語の「純粋性や正統性を主張しようとする人々」は過ちを犯すと考へるのはあまりに「日本語の歴史を知ら」な過ぎる。そのことの反省があつて然るべきであらう。

  契冲や宣長が、亂れた國語の状況を見て、何とか正さうとどれほど盡力したか。それがあつたがゆゑに國語が維持されたといふ事實を過小評價してゐる。この人の言ふ「過ち」とはいつたい何を意味してゐるのかも不明である。

今日の日本語ブームの空騒ぎを非難するのは良いとしても、それがあるゆゑに「日本語の直面している本当の課題は、ものの見事に隠蔽されてしまう」と嘆いてみせて、「問題はいったいどこにあるのか、とつらつら考えてみるに、どうも私には、それが論者たちの歴史的スパンの短さからくるもののように思われてなりません」などと書いてゐるのを見ると、病膏肓に入るといつた印象である。

 この人の「歴史的スパン」の中に、果たして假名遣ひの問題は入つてゐるのだらうか。縱書きで書くことの意義は含まれてゐるだらうか。枕草子に日本語の亂れが指摘されてゐることをもつて、いつの時代も言葉は亂れてゐた、それこそが「歴史的スパン」であるなどと言はれると、學者にしておくのはもつたいないほどのギャクの才能の持ち主である。そんなことを言ふのなら、人殺しは太古の昔からあつたのだから、それを批難するにはをかしい、「歴史的スパン」で考へなくてはいけないとでも言ふのだらうか。

   冗談はさておき、國語の純粹性や正統性といふのは、假名遣ひにかぎらない。言葉は社會的なものであるのだから、「雑種」であることを第一義とすれば言葉は機能しなくなる。「通じれば良い」とすることが言葉の第一義であるとすれば、言葉は社會性を持たなくなる。今日、學生たちの携帶メールで交はされてゐる文章(?)を、いつたいどれぐらゐの人が理解するであらうか。もし、この人が論理的な文章を大事にし、それを書けるやうにすることが本當に大切なことであると思ふなら、「純粋性や正統性」が必要であると言ふはずである。しかし、さうは言へないのである。なぜか。この「知識人」には國語の歴史性を理解する力がないからである。

   百歩讓つて「雑種」性を尊重するとしても、さういふ性質の「純粋性や正統性を主張する」ことを否定するのがこの「知識人」の考へなのだから、これ自體が矛楯してゐる。つまり、雜種性を尊重する人が、雜種性を維持することを否定すると言ふのである。それでもその矛盾に氣附かない。まさしく典型的「知識人の自己欺瞞」である。

  もうやめよう。それほどにひどいのだ。これで『日本語を叱る』といふのであるから、その厚顏無恥には驚く。そしてさういふ知識人に叱られるといふのであるから、私たちの日本語もずゐぶんとなめられたものだ。しかし、私たちの傳統によれば、言葉は鏡である。この人が叱つてゐると思つてゐる日本語から何のことはないこつぴどく叱られてゐるといふのが、眞實であらう。天に唾するとはかういふことである。

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福田恆存の平和論批判は剽窃か

2009年01月24日 21時53分09秒 | 福田恆存

  先日、「鵜」といふ方から次のやうなコメントをいただいた。

竹内洋が「諸君」の最新号で福田恆存の平和論批判が清水幾太郎からの剽窃であるとの説を紹介しているようです。ぜひご意見をお伺いしたいところ。
ご参考まで。

 それにたいして私は、それはすごい情報力ですねとトンチンカンなことを書いてしまつたが、それは『諸君!』の掲載を来月号だと早合点したことによるもので、今日本屋で当該書を見ると、今月号に出てゐた。一読、これは話が逆であるとおもつた。「学問の下流化」を憂ふ御仁がかういふいい加減なことを書くのは、皮肉が利きすぎてゐて笑ひもでなかつた。以下、簡単に事実を述べておく。

 竹内説

 福田恆存の「平和論にたいする疑問」(掲載時は「平和論の進め方についての疑問」)が、清水幾太郎の昭和29年10月20日の講演会で話した内容とそつくりなのは、福田がその講演会を聴きに来てをり、それを元に「一気にまとめられた」ものであるからで、福田論文は十二月号掲載だから、「一〇月下旬から末にかけて執筆されているはず」だといふのだ。断定はしてゐないが、ずゐぶん思はせぶりである。

 事実

 福田恆存は、同年八月、パリで清水幾太郎に会つてをり、その折に「平和論」について書かうと思ふと語り、その内容について清水は賛意を示した。そして、清水は自分が主宰する(福田も研究所員であつた)二十世紀研究所で話して欲しいとまで言つたのである。そして、同年九月初めに福田は帰国し、その会は開かれた(福田はその時の手控へを元に原稿を書いたと言つてゐる)。清水は司会まで務めたといふのであるから驚きである。しかし、福田の意見が論文として発表されると清水は豹変し、批判的になつた。清水の講演会が10月20日、二十世紀研究所で福田が話したのがいつなのかは分からない。しかし、それより後であると考へる方が不自然だ。事実は、清水が福田の話を聴いて講演したといふことであらう。

 

追加

竹内先生御本人からコメントがありました。詳しくは下のコメント欄を御覧ください。『諸君!』来月号では逆に「清水の剽窃まがい」について書かれるとのことです。

コメント (4)
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言葉の救はれ――宿命の國語 番外篇5

2009年01月21日 21時28分49秒 | 福田恆存

福田恆存が問題にしたやうな「知識人」である加賀野井秀一による『日本語を叱る!』の慘状について、もう少し述べたい。

  こんなことも書いてゐた。少し長いが引用する。

  昨今、私たちの身辺では、周期的に日本語ブームがまき起こり、さまざまな問題が、かまびすしく論じられています。その過熱ぶりをながめていると、わが国では、だれもがこぞって母語に関心をもち、その来し方行く末に心をくだいているように思われ、ふと頼もしくさえ感じられるかもしれませんが、はたして本当にそうでしょうか。前回のブームで話題になっていた議論は、今回、それなりに進展しているのでしょうか。

  そう思って中身を見れば、なんともお寒いかぎり。あいも変わらぬ紋切り型のスローガンがくり返され、ベストセラー本のまわりには、柳の下のドジョウ百匹をねらう類書がひしめきあうばかりです。いわく、日本語は乱れている。若者たちの言葉がひどい。敬語が使えない。正しい日本語を話そう。美しい日本語を守ろう。声に出して読んでみよう……云々。

 驚くほど破廉恥なのが、批判してゐる「類書」に自分のお書きになつたこの本が入つてゐないといふ厚顔無恥ぶりである。裸の王樣もここまで自己欺瞞にはなるまいと思ふほどの恥知らずである。まつたく自己を客觀視できないのである。しかも、それらとは一線を劃すほどの慧眼を示し得てゐると言ひたげであるが、それも後で書くやうに、漢字の「詞」と助詞などの「辭」との「日本語の二重性」に注目せよといふことに過ぎない。そんなものは、これまでにそれこそ干牛充棟のやうに書かれてゐるし、石川九楊氏の論考の方が、よほど説得力がある。この人は、石川氏の本さへ讀んでゐないのであらうか。

 ついでながら、文章の添削をすれば、引用した文章の二文目、「~に思われ、~感じられるかもしれません」とあるが、「思ふ」のは誰で、「感じる」のは誰なのか、さつぱり分からない。讀者なのか、一般の日本人なのか、はたまた筆者なのか、あるいは「れる」は受身の意味なのか、尊敬の意味なのか、それもまつたく不分明である。かういふねじれた書き方で日本語を書いて平氣でゐるところを示して、日本語ブームの底の淺さを明らかにしようとしたはずもあるまいから、無意識なのである。問題は、意識して國語を使ふことがないところにあるのだ。

 また、この人は、日本語の歴史を言ひ、論理的に書くことの大切さを言ひながら、次のやうな文章を書いて平気である。

  日本語に関して、いまだにそうした純粋性や正統性を主張しようとする人々は、すべからく平田篤胤か本居宣長の轍を踏むことになってしまいます。

「すべからく」の用法について(これは「必ず~すべきだ」といふ意味である。しかし、この人は「すべて」ぐらゐの意味で使つてゐるらしい)は、他の箇所にも誤用がある。そのことも大いに問題であるが、「そうした純粋性や正統性を主張しようとする人々」といふことが、「すべて」「平田篤胤か本居宣長の轍を踏む」と言つてゐるのだから、これは放つておけない。これが「日本語を叱る」の眼目だとしたら、捨て置くわけにはいかない。

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太陽の塔実況中継

2009年01月20日 15時28分44秒 | 日記・エッセイ・コラム

 いささか悪乗りかもしれませんが、太陽の塔を見ることができない方のために、ライブ映像を見ることができるホームページを貼り付けておきます。

 よろしければ御覧ください。

http://weathernews.jp/livecam/cgi/livecam_disp.cgi?liveid=410001348

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「ともだちの塔」工事中

2009年01月19日 15時34分08秒 | 日記・エッセイ・コラム

Fi2624071_1e Fi2624071_2e  昨日、工事中の「ともだちの塔」を撮影されてゐる方がいらつしやつたので、そのブログから転載させてもらひました。

実際はどうなつてゐるのか分かりませんが、これは「事件」としては興味深いですね。

http://www.doblog.com/weblog/myblog/60028/2624071#2624071

「スポーツ報知」より。

イベントで“改造”するのは塔の中央部分の「現在の太陽」と、頂上にある「未来の太陽」。「現在―」は直径11・5メートルのバルーンをかぶせワイヤで固定。「未来―」は塔の後ろから200トンのクレーンで“目玉マーク”をつるす。工事は16日から始め、19日イベント開始前まで行う。1日で撤去され、この1日のために8000万円がつぎ込まれる。

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