批判し續けてゐる加賀野井秀一の『日本語を叱る!』であるが、この本の最後は「日本語の歴史を知らず、日本語が雑種的であることの良さを認めず、日本語の力に気づかない、私たち自身の無知なのです」と書かれてゐるが、これほどの缺陷本なのだからこの際は潔く「私自身の無知なのです」と書いてくれた方が氣持ちが良い。
この人の言ふ「雑種」性とは、たかだか漢字とひらがなとカタカナで出來てゐるといふことに過ぎない。外來語の多用と明治以降のネオ漢語の未熟さについての指摘は、その通りであるが、さうであるから日本語の「純粋性や正統性を主張しようとする人々」は過ちを犯すと考へるのはあまりに「日本語の歴史を知ら」な過ぎる。そのことの反省があつて然るべきであらう。
契冲や宣長が、亂れた國語の状況を見て、何とか正さうとどれほど盡力したか。それがあつたがゆゑに國語が維持されたといふ事實を過小評價してゐる。この人の言ふ「過ち」とはいつたい何を意味してゐるのかも不明である。
今日の日本語ブームの空騒ぎを非難するのは良いとしても、それがあるゆゑに「日本語の直面している本当の課題は、ものの見事に隠蔽されてしまう」と嘆いてみせて、「問題はいったいどこにあるのか、とつらつら考えてみるに、どうも私には、それが論者たちの歴史的スパンの短さからくるもののように思われてなりません」などと書いてゐるのを見ると、病膏肓に入るといつた印象である。
この人の「歴史的スパン」の中に、果たして假名遣ひの問題は入つてゐるのだらうか。縱書きで書くことの意義は含まれてゐるだらうか。枕草子に日本語の亂れが指摘されてゐることをもつて、いつの時代も言葉は亂れてゐた、それこそが「歴史的スパン」であるなどと言はれると、學者にしておくのはもつたいないほどのギャクの才能の持ち主である。そんなことを言ふのなら、人殺しは太古の昔からあつたのだから、それを批難するにはをかしい、「歴史的スパン」で考へなくてはいけないとでも言ふのだらうか。
冗談はさておき、國語の純粹性や正統性といふのは、假名遣ひにかぎらない。言葉は社會的なものであるのだから、「雑種」であることを第一義とすれば言葉は機能しなくなる。「通じれば良い」とすることが言葉の第一義であるとすれば、言葉は社會性を持たなくなる。今日、學生たちの携帶メールで交はされてゐる文章(?)を、いつたいどれぐらゐの人が理解するであらうか。もし、この人が論理的な文章を大事にし、それを書けるやうにすることが本當に大切なことであると思ふなら、「純粋性や正統性」が必要であると言ふはずである。しかし、さうは言へないのである。なぜか。この「知識人」には國語の歴史性を理解する力がないからである。
百歩讓つて「雑種」性を尊重するとしても、さういふ性質の「純粋性や正統性を主張する」ことを否定するのがこの「知識人」の考へなのだから、これ自體が矛楯してゐる。つまり、雜種性を尊重する人が、雜種性を維持することを否定すると言ふのである。それでもその矛盾に氣附かない。まさしく典型的「知識人の自己欺瞞」である。
もうやめよう。それほどにひどいのだ。これで『日本語を叱る』といふのであるから、その厚顏無恥には驚く。そしてさういふ知識人に叱られるといふのであるから、私たちの日本語もずゐぶんとなめられたものだ。しかし、私たちの傳統によれば、言葉は鏡である。この人が叱つてゐると思つてゐる日本語から何のことはないこつぴどく叱られてゐるといふのが、眞實であらう。天に唾するとはかういふことである。