言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

フェリシティ・ロットの歌聲――吉田秀和に學ぶ

2011年06月29日 06時38分57秒 | 日記・エッセイ・コラム

   昨日の朝日新聞の「音樂展望」に吉田秀和がフェリシティ・ロットについて書いてゐた。私は聲樂をあまり好まないから、この方のことはまつたく知らない。そのことは最初に書いておく。しかし、吉田の文章から傳はるこの聲樂家の歌唱力は存外に魅力的である。「多くの人人に愛されつつ育ち、今日のやうな見事なキャリアを築いてきた人なのではあるまいか」。そして、「多くの人人の愛に支へられ、それをしつかり感じつつ歌つてゐる」と評されるロットといふ女性歌手の歌聲は想像するだに美しい。聽いてみたくなつた。

    そして、吉田はそのやうな一人の世界的な名歌手を育てるに至つた英國の國民性に思ひを寄せ、ある逸話を語る。音樂時評としては異例のその逸話の長さが、これまたじつにいいのである。話は簡單で、イギリスに最新式の音樂プレーヤーを求めに行つたときのこと(はつきりとは書かれてゐないが今から40年ぐらい前であらう)。店員は最新のものを聽かせ説明したが、最新のものは「何かが變つたのですから、氣のつかないところでマイナスになるといふのも決してあり得ないことではない。いや、むしろ、ありがちなことなのです」と語つたといふ。そして、吉田は「最新最高の機械でなくて、その一つ手前の機械を買ふことにした」。そして、吉田は「私はあの時、最新最良性能のものが最も望ましいものと受けとる習慣からは拔け出す手がかりを持つた」と記す。

   前半のロットの歌聲の美しさと、後半のイギリス商人の保守的精神と、この兩者をいづれも抱へてゐられるのがイギリスの現在なのである。一人の聲樂家は私たちにもゐるのかもしれない。私はその方面に無知であるから分らない。しかし、後者はどうか。「もつたいない」といふ精神はあるが、最新への警戒ともいふべき保守的精神は、既得權益を守らうとする組織の論理には健在であるが、生き方においてはあまり尊重されてゐまい。吉田は「英國人の智慧」と書いてゐる。今日の自然エネルギーへの盲信振りを見てゐると、私にはああまた新しもの好きの國民性かと思はれてならない。

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「日本人」という病

2011年06月26日 21時18分17秒 | 日記・エッセイ・コラム

「日本人」という病 (静山社文庫) 「日本人」という病 (静山社文庫)
価格:¥ 680(税込)
発売日:2009-11-05
   休みの日に書庫に行くと、今まで讀んでゐなかつた本の一册がふいに目に入り讀み始めるといふことがある。河合隼雄の『「日本人」という病』はさうした一册である。購入したのは平成16年の5月31日と書いてあるから、七年振りに讀み始めたといふことになる(發行日は更に前の平成11年である)。

    講演録のやうでとても讀み易かつた。河合氏の突然の氏(これはもちろん「死」です。誤植でした。読者の指摘がありました。訂正します。)は、文化廳長官として奈良の文化財の保存について問題が發生し、その視察だつただらうか、奈良に來ての客死である。心勞が重なつたのもあるが、私は憤死であるとも思つてゐる。カウンセラーとしての氏は、感情を露はには出さないだらうが、御粗末な行政府の對應に憤りはあつただらう。黴が生えてゐることに氣附かないとは何とも情けない話であつた。

   それはともかく、この書名は隨分と刺戟的である。日本人であることが既にして病であるとはどういふことか、一讀してこれだといふものはなかつた。しかし、いくつかの宿痾ともいふべき日本人の問題點が指摘されてゐて、いづれも納得のいくものであつた。

   そのなかの一つ。

「キリスト教を信じる人は、「死」を超えて個人を支えるものを見出さうとしてゐる。それが個人主義が利己主義になることを抑制してゐる。しかし、日本人はこの問題を不問にして個人主義の眞似をしてゐるので、そこから、日本の家族、社會のなかに實に多くの問題を抱へる結果になつてゐる。」(要約)

   これまでにも同じことを指摘して來た批評家は多くゐた。福田恆存はもう昭和22年に「近代の宿命」でこのことを指摘してゐる。いやもつと前に他の知識人が指摘してゐるかもしれない。しかし、あの河合隼雄がこのことを指摘してゐたことは驚きであつた。河合氏らしく「現代人の個性とは何か」といふことを考へてゐて、かういふ結論になるといふのが意義深いのである。福田恆存が天から求めた人間論であるとすれば、河合氏のそれは言はば地から求めた人間論である。期せずして一致するのは、さう問はなければならないほどの状況に現代日本人の心理がなつてゐるといふことであらう。

  その他、本書では阪神大震災について觸れた「震災後の復興體驗」が收められてゐる。驚くほどに、現在と事態が一致してゐる。河合氏が生きてゐれば、同じことをきつと呟かれるだらうと感じた。讀むべくして讀んだ本であると感じた。

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観念的生活

2011年06月22日 09時49分54秒 | 日記・エッセイ・コラム

観念的生活 (文春文庫) 観念的生活 (文春文庫)
価格:¥ 580(税込)
発売日:2011-05-10

 哲學といふ味氣ない言葉がどうにも氣になつてゐる。特に最近といふわけでもなく、どこかで專門的に學んだわけでもない。大學時代には、哲學の教授がルソーの『エミール』を一年かけて講ずるのを聽いて、何度となくレポートを出したが、これと言つて學んだといふ氣がしない。倫理學の教授からは、「キルケゴールと親鸞」といふおよそ關係のないやうに見える人物についてはあれこれと教へてもらつた。テーマは「絶對否定と絶對肯定」といふものであつたが、キルケゴールはともかく、日本の宗教家に「絶對」などといふ言葉を使つていいのかといふ疑問は今思ひ出しても付きまとふ。それでも大學院では田邊元を誰の指導を受けることもなく勝手に讀み、「福祉哲學」などといふものを構築しようと野心的に試みたが、七、八名の教授を前にしての發表では「觀念的すぎる」と言はれ、無念な敗北を期した。日本の福祉に哲學がないといふことを身を以て感じたが、今はもうその道に行く氣を持つてゐない。ただし、觀念がないから問題なのにといふ思ひは今も消えてゐない。

   哲學の讀物は、今もときどき書店で購入する。これだけはあまりアマゾンで買ふことはない。實際に手にして迷つて迷つて買ふといふことが多いからである。

   ところが、先日、同僚と久しぶりの夕食會があつて、その場所に向ふ途中、會費にはお釣が無い方がいいだらうと思ひ、一萬圓を崩すつもりで本屋に立ち寄つた。開始の時間まで10分ぐらゐしかないので、適當に新刊の文庫本でもと思つて物色してつい買つたのが、中島義道の『觀念的生活』である。もう15年以上も前に『哲學の教科書』を買つて以來、氏の本はときどき買つてゐる。粘着質のいかにもドイツ哲學者然とした文體は、決して讀み易くはない。が、内に抱へてゐるものと思索の道筋とが極めて誠實で、腑に落ちることが多いので(その意味では今話題の内田樹のものは嫌ひである)讀んで來た。今度も期待感を半分ぐらゐは持ちながら、會食の終はつたあとの車中で讀み始めたが、これがじつに面白かつた。決して萬人受けするものではない。もちろん著者も編輯者もそんなことは考へてもゐないだらう。しかし、面白いのである。カントの時間論やらニーチェの懷疑論やら、はたまたサルトルの秀才振り(中島はその頭の良さを絶讚してゐる)についての記述は、「へえさうですか」といふ程度の認識しかこちらにはない。それでも面白いのである。

   考へることに徹してどんどん孤獨を求めるやうになつていく人生は、私には到底無理だけれども、觀念の重要さを改めて感じさせてくれた。

   今、世の中ではニーチェの關聯本が賣れてゐる。神を信じてゐた19世紀の人人にとつて、彼のメッセージは毒をもつてゐたが、神(絶對者)を信じてもゐない現代の日本人がどうしてそれを讀むのか私は訝るが、中島はかういふ譬喩で痛罵してゐる。「一度も水に入って泳ぐことなしに水泳について研究している者以上のおかしさである」と。私もさう思ふ。

  これはいい本に出會つた。文庫の裝幀がまたいい。美しさは良さに通じてゐる。

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時事評論――最新號

2011年06月19日 14時57分49秒 | 告知

○時事評論の最新號の目次を以下に記します。どうぞ御關心がありましたら、御購讀ください。1部200圓、年間では2000圓です。

 久しぶりに宮崎大學の吉田好克先生の論文を拜讀する。東日本大震災にたいする論文として、對症療法的なものが多くあるなかで、本論はより本質的な視點を提供してくれてゐる。

 あの震災は、やはりかなり深いところで心を打ちのめしてゐるやうに感じる。三ヵ月が經つてしだいにはつきりしてきた。私は、現地の実態を見たわけではない。特別に東北に思ひ入れがあるわけでもない。しかしながら、なにやら寂しい気分が滲み出てくるのである。これは何か。それは分からないが、それをつかまないわけにはいくまいと感じてゐる。(この部分は先月の紹介と變らない)

   昨日、京都大學の中西輝政先生の話を聽く機會があつた。教科書採擇のシンポジウムでの話であるが、先生の話はほとんどそれと關係ない、今囘の地震に對する日本の統治者の無能について語つてをられた。そしてまた、日本人の歴史力が非常に落ちてゐるといふことを嘆いてをられた。次にあのやうな震災が來れば日本は滅びてしまふだらうと預言めいたことをも言つてをられた。「歴史力」とはいかにも今樣な表現で私はあまり好きではないが、日本人が持つてゐる傳統的な力は確かになくなりつつあるだらう。被災者が秩序を守り、冷靜に對應してゐる樣子は確かに賞讚すべきであるが、その國民性が指導者を墮落させ、政治といふ次元の日本人を作り出さずにゐるといふことは、これもまた人災である。原子力發電所の事故にたいする對應の拙さは、その人災の具體例にすぎない。ここかしこで指導者が不在である。決斷力やら理念やら倫理觀やらが指導者の資質として必要だなどといふ、ふやけた指導者像を言ふ學者がゐるが、ほとんど噴飯物である。古來、指導者の第一の資質は國運をつかむかどうかにある。どんなに決斷力があり倫理觀があつても國運と關係ないところで發揮されれば、自ら墓を掘ることにつながるのである。

 

言葉・科學・文化

    ―東日本大震災に思ふことども―

            宮崎大學准教授 吉田好克

國難と天皇

      ―時の歴代天皇は國民の先頭に立つて御努力を―                

                       日本文化大學教授  堀井純二

教育隨想       

      震災日本へのエールとこの國の復興の鍵 (勝)

寸言

     まづ己が目より梁を取り除け                                    

                         文藝評論家    前田嘉則

コラム

        復興と増税を安易に連結させるな  (菊)

        『司令塔』はやめた方が (柴田裕三)

        この空虚に堪へられるか(星)

        朝日の本音と焦り(蝶)            

  問ひ合せ

電話076-264-1119    ファックス  076-231-7009

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『福田恆存対談・座談集』刊行開始

2011年06月15日 22時01分19秒 | 福田恆存

福田恆存対談・座談集 第一巻 新しき文学への道 (福田恆存対談・座談集) 福田恆存対談・座談集 第一巻 新しき文学への道 (福田恆存対談・座談集)
価格:¥ 3,150(税込)
発売日:2011-04-23

福田恆存対談・座談集 第二巻 現代的状況と知識人 (福田恆存対談・座談集) 福田恆存対談・座談集 第二巻 現代的状況と知識人 (福田恆存対談・座談集)
価格:¥ 3,150(税込)
発売日:2011-07-11

 今年四月から『福田恆存對談・座談集』の刊行が始まつた。出版社は玉川大學出版部。3150圓といふ値段は決して安くはないが、福田恆存の「聲」を聽きたい人にはその價値は値段以上のものがあると思へるはずだ。第1卷は、「新しき文學への道」と題されたもので、後期の福田恆存があまり觸れなかつた文學にたいする發言が興味を引く。まだ最後まで讀んでゐるわけではないが、今までのところではチェーホフにたいして「合理主義者」と名附けるところが面白かつた。なるほどといふ驚きがあつた。

  時事評論の中澤編輯長から「週刊讀書人」に今囘のシリーズの編輯をされた福田恆存の御次男の福田逸さんのインタビューが載つてゐると教へてもらひ、早速「讀書人」に電話をして送つてもらつた。3月25日號である。一部280圓。一面をまるまる使つてのもので、讀應へがあつた。中に、今囘のシリーズの刊行を始めたきつかけに「インターネットのサイトに福田恆存の對談や座談を全部載せてゐるファンがいらして、それにずいぶん助けられました」と書かれてゐるが、自畫自讚であるが嬉しかつた。書誌作りを志してはゐたが、金子一彦さんのやうな精密さはなく、對談・座談を集めることにのみ執着した。それだけに、この言葉は嬉しかつた。逸氏にも直接御傳したことがあるが、福田恆存が御亡くなりになつた後、對談や座談は、その肉聲を聽ける唯一のもので(もちろん出版時には校正されてゐるわけで、嚴密には聲そのもではないが)、國會圖書館その他で探しては讀むのを樂しみにしてゐる。だから、かういふ出版はありがたいのである。

   このインタビューの後段では、「福田を必要以上に神格化してしまう」と「『ただの人』としての福田恆存を見失いかねない」と警鐘をならされてゐるが、もしさういふ福田恆存ファンがゐれば、それは福田恆存讀みの福田恆存知らずといふことである。確かにさういふ人はゐるが、さういふ人物に鼻がきくのも福田恆存の讀者であるはずだ。自省の力を福田恆存の文章は求めてゐると私は讀んだ。ただ、福田恆存も書いてゐるが、若いときにはある思想家に打ちのめされるといふ經驗が必要なのも事實で、若いときに福田恆存を神格化した體驗を持つてゐる人も私には十分に魅力ある人物に思へる。

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