昨日の朝日新聞の「音樂展望」に吉田秀和がフェリシティ・ロットについて書いてゐた。私は聲樂をあまり好まないから、この方のことはまつたく知らない。そのことは最初に書いておく。しかし、吉田の文章から傳はるこの聲樂家の歌唱力は存外に魅力的である。「多くの人人に愛されつつ育ち、今日のやうな見事なキャリアを築いてきた人なのではあるまいか」。そして、「多くの人人の愛に支へられ、それをしつかり感じつつ歌つてゐる」と評されるロットといふ女性歌手の歌聲は想像するだに美しい。聽いてみたくなつた。
そして、吉田はそのやうな一人の世界的な名歌手を育てるに至つた英國の國民性に思ひを寄せ、ある逸話を語る。音樂時評としては異例のその逸話の長さが、これまたじつにいいのである。話は簡單で、イギリスに最新式の音樂プレーヤーを求めに行つたときのこと(はつきりとは書かれてゐないが今から40年ぐらい前であらう)。店員は最新のものを聽かせ説明したが、最新のものは「何かが變つたのですから、氣のつかないところでマイナスになるといふのも決してあり得ないことではない。いや、むしろ、ありがちなことなのです」と語つたといふ。そして、吉田は「最新最高の機械でなくて、その一つ手前の機械を買ふことにした」。そして、吉田は「私はあの時、最新最良性能のものが最も望ましいものと受けとる習慣からは拔け出す手がかりを持つた」と記す。
前半のロットの歌聲の美しさと、後半のイギリス商人の保守的精神と、この兩者をいづれも抱へてゐられるのがイギリスの現在なのである。一人の聲樂家は私たちにもゐるのかもしれない。私はその方面に無知であるから分らない。しかし、後者はどうか。「もつたいない」といふ精神はあるが、最新への警戒ともいふべき保守的精神は、既得權益を守らうとする組織の論理には健在であるが、生き方においてはあまり尊重されてゐまい。吉田は「英國人の智慧」と書いてゐる。今日の自然エネルギーへの盲信振りを見てゐると、私にはああまた新しもの好きの國民性かと思はれてならない。