先日、修学旅行の事前学習の一環で「戦争と平和とを考へる」といふテーマで五分ほど話をすることになつた。私の勤める学校は、高校二年生で沖縄に行くことにしてゐる。三泊四日で、観光をしつつ「平和教育」を兼ねるのがこれまでのかたちであつた。私は赴任して五年目なので、本校の修学旅行は初めてである。したがつて従来の指導のしかたについてはつまびらかではない。ただ、いはゆる「平和教育」といふことには抵抗があつた。平和といふ言葉が「戦争のない状態」といふ意味しか持たないとしたら、それでは平和を守ることはできないと思ふし、その程度の認識で「教育」はできないと考へるからである。したがつて、何らかの「理念」を持つべきだが、それを果たして自分にできるかどうかも心もとない。ただ、『北村透谷《批評の誕生》』(共著・平成十八年、至文堂)に載せた「絶対平和の端緒」には、少しくそのことを述べた。いま一言で要約すれば、平和を言ふなら「平和のためには戦争も辞さず」といふ覚悟が必要であり、その覚悟を持つためには「正しい愛のあり方」を示すべきだといふことになる。今回の事前学習は期せずしてそのことを具体的に示すかたちとなつた。
同僚が探してきてくれたDVDを生徒に見せる前の話である。『悲しいほど海は青く~沖縄戦最後の県知事 島田叡~』といふものであるが、これがじつにすばらしい作品で、島田叡の生き方には誰もが感動する。しかし、それを同情や畏敬といふものだけにとどめるのではなく、私たちの生き方につながるものにしたかつた。さうすることが「正しい愛のあり方」につながると考へたのである。
私は、言葉の問題から話し始めた。以下は、そのときの原稿である。
国語の教師ですから、言葉の問題から今日のテーマについて考えてみようと思ひます。言葉づかひの問題が結構大事であるといふことに気づいてもらへればと思ひます。
それは、「犠牲」といふ言葉です。今、台風が近づいてゐますが、NHKのニュースでも「台風の犠牲者が」といふ言葉を使つてゐます。しかし、それは正しい言葉づかひではありません。「犠牲」は「牛編」になつてゐるやうに、天への供へ物であるといふことが背景にあります。手元の辞書によれば「大きな目的のために大切なものを投げうつて尽くすこと」とありました。しかし、台風の犠牲者や交通事故の犠牲者は何の目的のために命を投げうつたのでせうか。家族に生命保険を遺すためといふのは冗談だとしても、それは言葉の本来の意味からすれば、「被害者」あるいは「被害による死者」といふのが適切でせう。
「犠牲者」 「被害者」
(これらを大書した紙を二枚、生徒に示した)
では、戦争によつて命を失つた人は、どちらでせうか。もちろん、犠牲者です。だからこそ、私たちは修学旅行で訪ねて行くのです。列車脱線事故で多くの被害者を出した場所や、飛行機事故で多くの人が亡くなつた場所に、遺族や友人でなければ私たちは行きません。そこには行かずになぜ沖縄に行くのでせうか。それは、そこが「犠牲」の場所だからです。
では彼らは何の目的のために犠牲になつたのでせうか――ここが問題です。考へてください。それは、国を守り人々の命を守るためです。先年、硫黄島での激戦を題材にした映画や本が話題になりました。その司令官として戦つた栗林中将の言葉に私は引きつけられました。それは「本土にゐる子どもたちを一分一秒でも生きながらへさせたい」といふ言葉でした。硫黄島で栗林中将率ゐる守備隊は、死闘を繰り広げたのです。もちろん、眼の前の敵に負けないやうに戦つたのですが、そのことはそのまま本土にゐた私たちの先祖を守るための戦ひでもあつたのです。本土決戦を一日でも遅らせようとの思ひが彼らを戦闘に向かはせたのです。平和を唱へるだけで平和は訪れるはずはありません。修学旅行の最終日に君たちが訪ねる「ひめゆりの塔」のすぐ横に「ひめゆり記念館」があります。私は昨年末そこを訪ねました。生存者のビデオを三〇分ほど見てゐましたが、傷ついた兵士の看護をしてゐた当時の女子高生たちもまた懸命にほんたうに懸命に闘つてゐるのでした。そして、このあとのDVDに出てくる当時の島田叡(しまだ・あきら)知事もさうでした。家族の反対を押し切つて、私たちのために闘ひ、犠牲となつたのです。
さて、さうであれば、私たちが彼女らを含んだ沖縄の先人に接するときの心情としてどのやうにすればよいのでせうか。今日の話の結論です。私たちのために言葉の真の意味で犠牲になつた人々にどう接すればよいのか、です。考へてみてください。私は、鎮魂の祈りを捧げ、慰霊に尽くす態度こそ相応しいものであると考へます。言ひ換へれば、感謝です。単に被害にあつた人への同情や憐れみではなく、犠牲者への鎮魂と慰霊です。
犠牲といふ言葉、鎮魂や慰霊といふ言葉を念頭におきつつ、見てもらひたいと思ひます。
話は、この通りはできなかつた。自身の話題にふれてしまつたり、筋をとばしてしまつたりすることもあつた。興奮や緊張のせいであり、お粗末なことである。「自身の話題」とは、私の父の従兄弟が鹿児島の知覧から特攻隊の一員として飛び立ち、亡くなつてゐることで、これは言ふ必要もなかつた。「筋をとばした」のは、慰霊の態度についての話である。犠牲者といふことを強調するあまり、慰霊や鎮魂といふことをあまり強調しなかつたやうに感じてゐる。
「大きな目的のために大切なものを投げうつて尽くすこと」こそ、「正しい愛のあり方」である。ところで、私たちの生命は、「生まれる」ものであつて、自分の意志ではない。といふことは、「生」そのものは受け身であり、与へられたものである。私たちは何かによつて生まれたのである。父母の愛であるか、あるいはもつと根源的なものであるかは別として、その愛に報いることこそ私たちの生の意味である。人権といふことが言へるとすれば、その姿勢がある場合においてのみである。そのことを問はないで、無条件に与へられるものであるとするならば、同じやうに無条件に奪はれてもしかたあるまい。義務なき権利は権力者のおこぼれにすぎないからである。
平和といふものも同じである。何らのコストを払はずに無条件に与へられるものであるとすれば、それは奪はれても文句は言へまい。八月十五日「終戦」を決めた日の直後にソ連は北方領土に侵攻した。それを見れば分からう。
平和の理念とは何か――「恩に報いる」といふことである。今の私はさう考へてゐる。
「恩に報いる」とは分かりにくいが、いつかまた稿を改めて書ければと思ふ。