言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

福田恆存の命日を過ぎて

2015年11月21日 10時32分36秒 | 日記

  昨日は、福田恆存の命日であつた。平成六年に亡くなられたから、21回忌といふことにならうか。遺影に花を添えて一日を過ごした。

 福田恆存の名は忘れられることなく、今も讀み継がれてゐる。かういふことになるだらうといふ自負もなかつたわけでもなからうが、同時代の批判を受けながらも耐へ、真実を見続け書き続けることができたから今日のやうなことが起きてゐるのであらうと思ふ。

 もう一人さういふ人物が私にはゐたのだが、その人も亡くなつてしまつた。遠藤浩一先生である。

 そして、今はもう、現役の文筆家に讀み続けたいと思へる人はゐなくなつてしまつた。

 しかし、さういふ人に出会へたといふことだけでも十分に幸福なことであると思つてゐる。記憶の喪失といふものはありがたいもので、すでに読んでゐるはずのお二人の文章でさへ、久しぶりに読むと「こんなことが書いてあつた」と発見することがある。その度に幸せを感じるのである。

 

   最近の例を一つ。

 言葉の意味を知るのに辞書を使つて調べることがあまりにも習慣的になつてをり、しかもその所作に疑ふことを知らない生徒たちを見て、どうにかしなければならないと思つてゐたところ、こんな言葉を見つけた。

「私達は辭書に出て来る定義に則て言葉を使つてゐるのではない、私達が言葉を使つてゐるうちに、或は言葉が私達を動かしてゐるうちに、一應その意味が定義らしき形を採つたのである。」(小林秀雄『本居宣長』)

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 ずゐぶんと久しぶりにブログを更新した。しばらくこのままにしておかうと思つてゐたが、心配してくださる方もゐて、電話をかけてもくれたので、一度更新をと思ひ、本日更新。

 多忙による中断です。試練の出来事もあつた。それだけに精神の向上に注力しなければと思ふのですが……

 

 

 

 

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