言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

言葉の救はれ――宿命の國語4

2004年10月19日 17時32分38秒 | 福田恆存
  加藤秀俊氏は、中部高等學術研究所の所長である。專門は社會學で、國語の專門家ではない。そのこと自體には、何の問題もない。むしろ、國語の專門家しか國語を語つてはならないといふことの方がをかしい。
 ところが、社會學といふのは、いかにも問題である。なかでも、社會的效率を第一義として、統計でしか考へやうとしない研究内容は、國語といふものを考へるうへで、害惡しかもたらさない。それは一言で言へば、「言葉は通じればよい」「國語は簡單なものが良い」といふことである。ましてや「國際化社會」には、「外國人にも理解しやすいものが良い」などといふのであれば、犯罪とまで言ひたいやうに思はれる。
 加藤氏の「日本語の敗北」(『中央公論』平成十二年四月號)といふ論文は、さうした主張の集約である。日本語は何に敗北したのかと言へば、國際化=世界化=易化に、といふのである。

 戦前にくらべると比較にならないほど留学生の数がふえ、さまざまな理由から日本に居住している外国人の数もふえた。じっさい、日本での外国人人口はぜんたいの三パーセントくらいになっている。海外で日本語学習をしているひとも数百万。オーストラリアでは、日本語はすでに小学校の教科書にもはいり、学習人口は四〇万。これらのひとびとが日本語を勉強しようとしても、こんなに「自由化」された日本語はそれに対応することもできない。こんな言語は世界のなかでおそらく日本語だけではないか。せっかく言語表記についての選択権をもったのに、それを自殺の手段にしてしまったのが日本なのである。

 國際化=世界化=易化しないことをもつて「日本語の自殺」とまで言ふ、この筆者の言語感覺をまづ疑ふ。そして、その根據となつたことが、昭和二十一年に漢字一八五〇字に決められた、いはゆる當用漢字から、昭和五十六年に一九四五字になつた、いはゆる常用漢字への移行であり、これを「漢字主義」として排撃するのだ。「これまでおおくの先人たちがあれだけ真剣にかんがえ、実行してきた日本語改革の理念はどこかに雲散霧消してしまったのである」と嘆くのは、全く笑止である。どこが「真剣にかんがえ」たのか、一八五〇字の選定から、當用漢字といふ名稱まで、すべて場當り的であることは、これから縷々述べていくので御理解いただけると思ふ。
 あるいは、この筆者は、「わたしは『推薦』の『薦』という漢字が書けない。だから手書き文字では、いつも『推せん』としてきた。いまでもそうだ」などと、恥かしげもなく書く言語感覺は、もはや常軌を逸してゐる。知識人であると自他共に認める人が、「推薦」といふ字を漢字で書けないといふことを告白して得られる同情など、論を補強する效果など全くない。それを狙つてゐたといふことはまさかないことだらうから、本當に正直者なのであらう。しかし、これで國語問題を論じ、「日本語の敗北」を論じられては、日本語がたまらない。國語は敗北などしない。



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言葉の救はれ――宿命の國語3

2004年10月16日 20時53分48秒 | 福田恆存
(承前)
 昭和三十四年七月十一日、内閣總理大臣岸信介の名で、訓令告示された「送りがなのつけ方」が、國語問題協議會を設立するきつかけであつた。同協議会は、送りがなの問題を突破口に國語政策のあり方に異論を唱へた。福田四十八歳の決斷は、當然の行動である。そして、翌翌年三月二十二日、改革反對の、作家の舟橋聖一、東大教授の宇野精一、實踐女子大學長の山岸徳平、大正大教授の鹽田良平、東大教授の成瀬政勝の五氏が、第五期の國語審議會を脱退した。
 戰後の國語改惡の經緯を簡單にまとめておかう。

昭和二十年十一月二十日 GHQのCIE(民間情報教育局)教育課員のロバート・キング・ホール少佐から文部官僚に「日本の教科書を                 ローマ字化」するやう勸告される。
 同二一年   四月三十日 『アメリカ教育使節團報告書』で漢字制限論・假名文字論・ローマ字論を提案し、結論的には「ローマ字の採                  用」が勸告される。
 同二一年十一月十六日 「當用漢字表」(一八五〇字)「現代かなづかい」内閣訓令告示
 同二三年   二月十六日 「當用漢字別表」(いはゆる「教育漢字」のこと)「同音訓表」内閣訓令告示
 同二四年   四月二八日 「當用漢字字體表」内閣訓令告示
 同二五年   四月十七日  「國語審議會令」公布(この第一條は、「所掌事務」についてであるが、そこには「國語の改善に關する事項」 「國語の教育の振興に關する事項」とならんで「ローマ字に關する事項」が記されてゐる。國語審議會が「ローマ字」を檢討するのである。そして、これに基き「ローマ字調査分科審議會」が設置された)
 同二六年  五月二五日 「人名用漢字別表」内閣訓令告示
 同二九年十二月   九日 「ローマ字のつづり方」内閣訓令告示
 同三四年  七月十一日 「送りがなのつけ方」「送りがなのつけ方の實施について」内閣訓令告示
 同五六年   十月 一日 「常用漢字表」(一九四五字)内閣訓令告示

 ここでは、戰後のみのものを採上げたが、もちろん、戰前より、國語改革といふことは行はれてゐた。
 なほ、昭和三十三年二月一日には、隣國中共で、「當面の文字改革と漢語表音方案に關する報告」といふものが出され、①漢字の簡略化をおこない、文盲を一掃する。②標準語を廣め、方言をなくす。③漢語の發音に、ローマ字を用ゐて、標準語の普及を助ける。の三つがその要點であつた。そして、國語改革もそれに沿つて行はれてしまつたのである。
 知識人や政治家などが、中共の方針になびいてゐた當時の情勢が、國語問題にも色濃く反映してゐたと、今更ながら思ふ。將來ローマ字に變へることを目的として「言語政策を話合ふ會」が結成されたのも、同年の四月十日である。何と機を見るに敏か。國會議員六十九名、學識經驗者百四十九名が會員であつたといふ。
 かうした一聯の流れに對して、福田恆存が属した國語問題協議會は批判的であるが、もちろんそれは主流の考へではない。
 最近もまた、日本語の世界化、つまり「開かれた日本語」の文脈で肯定的に評價する識者が表はれた。雜誌「中央公論」の四月號(平成十二年)に掲載された、加藤秀俊氏の「日本語の敗北」である。



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小谷野敦さんについて(最終回)

2004年10月11日 16時42分31秒 | 本と雑誌
  『江戸幻想批判』を読んだ。「江戸の性愛」礼讃論を撃つ――といふ副題がついてゐる本である。江戸時代は性にたいしておおらかだつたといふ一部の識者が作り出したイメージに断固反論するといふ主張である。
 「あとがき」にかうある。――江戸の遊女の平均寿命は23歳であつた。――この短い文から二つのことが理解された。性を売ることは商売であつたといふこと。そして、その売春は苛酷なものであつたといふこと。
  売春を職業とする人がゐたといふことは、当時もやはり性にたいして人人は暗いイメージを持つてゐたといふことである。さうでなければ、23歳で寿命が来てしまふやうな「苛酷」な状況(吉原のやうなところが繁盛するやうな状況)が起きるはずはない。影が深いのは、人人の性倫理(光)が強いからである。
 しかし、ここからは小谷野さんと私の考へは異なる。正確に言へば小谷野さんは触れてゐないので、違ふかどうかは分からないのだが。保守の立場の私からは、江戸時代もまた、決して性についてきれいではなかつたといふことが問題なのである。性倫理は強かつたのだらうが、それは影と兩立するものである。いや正確に言へば、最初から同時に存在したものなのである。
 性の問題は、したがつて保守の思想からは、戀愛と賣春との二元論を越えられない。私は、性についてはこの二元論を排する。性についての二元論は、愛と性とである。愛のない性は、賣春である。この不貞な感性を、保守する必要はさらさらない。
 保守の限界は、理想を持たないこと。私の言葉で言へば、垂直軸を持たない保守は、單なるバランス思考でしかない。

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言葉の救はれ・宿命の國語 2

2004年10月02日 21時04分58秒 | 福田恆存
(承前)
 さて、昭和三十四年といふのは、福田恆存の言語論を考へるうへで、きわめて重要な年である。前年に大岡昇平、中村光夫、三島由紀夫、吉川逸治、吉田健一ら鉢木會の仲間とともに季刊誌「聲」を創刊し、その第一號から第五號まで「私の國語教室」を連載してゐるのである。そして、その年の十月には、河出書房の倒産で中斷してゐたシェイクスピア全集の第一囘配本『ハムレット』が新潮社から上梓された。つまり、英語を日本語に飜譯するといふ過程のなかで、飜譯するとはどういふことか、私たちにとつて言葉とはどういふものなのかに思ひを致すことになつたのである。もちろん、言葉といふものは抽象的なものではなく、いつでも母語として存在するのであれば、しぜん言葉を考へることは國語を考へることになつたのである。言葉に出會ふとはさういふことであらう。その意味で、福田恆存の國語論は、その誕生の經緯からして自然のものなのである。
 「聲」といふ季刊誌は、丸善から發行されてゐる。A五版で、雜誌には珍しく帶が附され創刊號には二十一名の執筆者が、そこに書かれてゐる。結果的には十號で廢刊になつてしまふが、この雜誌の價値は、今後ますます意味をもつてくるだらう。このやうな同人誌が一號でも存在したといふことは、近代文學の金字塔である。
創刊號の編輯後記「同人雜記」を、福田以外に先の五名が記してゐる。それぞれに苦勞と喜びとを併記するのであるが、充實といつた味はひもなくはない。

  雜誌の名については隨分苦勞した。すぐ思ひつくものは、大抵登録ずみであり、さうでない變つた名前となると、必ず二三の反對者が出てくる。最後にやつと『聲』に落ちついて發表したわけだが、今度は思はぬ伏兵が現れた。大阪の北濱にあるカトリック教會で同名の雜誌が出てをり、しかも、それは明治二十年代から續いてゐて、九百七十號に及ぶといふ、そこの神父の田中道雄氏から注意があつた。私はあわてて關西旅行の途次、大阪に寄り、當方の不注意を詫びて諒解を求めた。田中氏はものわかりのいゝ人で、こちらの事情を認めてくれ、こゝにやうやく『聲』が本決まりになつたのである。同氏の好意に謝意を表するとともに、さういふ歴とした同名誌のあることをお斷りしておく。たゞしこれは『聲』であり、あれは『声』である。『声』は月刊の宗教雜誌だが、『聲』は季刊の文藝雜誌である。『聲』は「猫なで聲」はもちろん「天の聲」「民の聲」を意味しない。「ことば」といふほどの氣もちである。次に『聲』の用字、かなづかひのことだが、雜誌としては統制しない。全體としては愚か、一頁のうちに古流と今樣とが同居することにもなりかねないので、不體裁はまぬかれないが、それも現實とあれば、どうにも仕方はない。執筆者の意圖を尊重することにした。後記に借りて今後の執筆者にお願ひしておくが、いづれに隨ふか御希望を附記していたゞきたい。

 これが全文である。が、「『ことば』といふほどの意味」と「聲」の由來を説明したあとで、假名遣ひの別について「それも現實とあれば、どうにも仕方はない」とするのは、いささかやりきれない思ひもあつたであらう。しかし、何事も「主義者」ではない福田恆存は、ここでもその平衡感覺をはずすことはない。
 しかし、同年十一月、小汀利得と共に國語問題協議會を設立するのである。まさしく「國語國字改惡阻止の運動」である。



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