言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

長谷川三千子『神やぶれたまはず』を讀む

2013年12月31日 10時12分23秒 | インポート

神やぶれたまはず - 昭和二十年八月十五日正午 神やぶれたまはず - 昭和二十年八月十五日正午
価格:¥ 1,890(税込)
発売日:2013-07-09
 やうやくにして、表題の本を讀了した。
   おもしろかつた。それは、いま話題の『永遠の0』を讀んだ時のやうなおもしろさではもちろんない。同じやうに、大東亞戰爭時の人の生き死ににかかはるが、前者が使徒行傳であるとすれば、後者は福音書のやうであり、より「神學」的なものである。
  使徒行傳と言ひ、福音書と言ひ、神學と言ひ、その比喩はいづれもキリスト教の用語であるが、さういふ言葉を選ばせたのは、本書の影響である。
  長谷川氏は、どうしても日本の神學が欲しいやうだ。そして、あの八月十五日の意味を深めることによつて、イエスの死の意味を深めてキリスト教が誕生したやうに、日本の神學を誕生せしめることができるとお考へのやうであつた。しかし、私には少々無理があるやうに思へた。
  昭和天皇の果した役割の大きさや、その言動のすばらしさには感動はするけれども、それは到底信仰の要になるものではない。
  日本の神は當然ながらキリスト教の神ではない、さう斷言しながら、長谷川氏は、キリスト教(ユダヤ教)の聖書を用ゐて、日本の八月十五日正午の瞬間を神學的に意味付けようとする。しかし正直に言へば、滑稽であつた。聖書の記述にまるまる一章を割いてゐるが、その部分は、果して有效であらうか。私にはさうは感じられなかつた。
  聖書を讀まない人達には、たぶん讀み飛ばされてしまふだらう。事實、讀賣新聞に掲載された書評にも一切それへの記述はなかつた。しかし、長谷川氏の舊著『バベルの謎』を踏へて力強く力説したのが、この章である。
  その章の問題點は何か。それはキリスト教の原罪といふ思想に一切觸れずに、イサク奉獻、イエスの十字架を論じた點である。たしかに、キルケゴールやデリダの書を引用しつつ、キリスト教における通念に理解を寄せた上で獨自の解釋を施してゐるやうな體裁ではあるが、その解釋は、言つてよければ夜郎自大であり、噴飯物であつた。これでは「神學」になりやうがない。一言で言へば、それは所詮「人學」である。このあたりのことは、聖書の細部に入らなければ解らないかもしれない。そして急いで付け加へれば、私もまたその聖書の解釋をここですることはできない。ただ、長谷川氏の文章の一節を引用することで、私の傳へたいことが御解りいただけると思ふ。

        イサクの奉獻に對して眞の應答ができるのは「死にうる神」のみである。つまり、われわれの民族がもつやうな神々にしてはじめて、イサクの奉獻を正しく受けとると同時に、その命を返却する、といふことができるのである。

「われわれの民族がもつやうな」  「死にうる神」とは、キリスト教の神のやうな絶對者ではなく、全知全能でもない。キリスト教の神は、自ら死ねないから、イエスに「死を與へる」ことによつて、萬民救濟の道を切り開いた。確かにさうである。つまりは、神は死ねないから「死ぬことのできる息子」をつくり、それを十字架にかけたといふのが長谷川氏の理解である。面白いことを言ふ。さうかもしれない。しかしながら、その「死ねない神」だから「イサクの奉獻を正しく受けとる」ことができなかつたといふのは、まつたく見當違ひである。
  イエスの死も、イサクの奉獻も、人類始祖アダム以來の原罪が私たちにあつて、それゆゑに神は自ら手を出せないといふ嚴しい斷絶があるといふことをまつたく無視してゐる。その斷絶の向う側にゐる神だからこそ「神學」が誕生したのであつて、「死にうる神」だから、人間に應答できるのだと、これほど清々とそしてあつさりと言はれると、それは人間でせう、と言つて仕舞ひたくなる。長谷川氏の求めたのは、「人學」であるとはその意味である。

  どうして「われわれの神學」をそれほどに求めるのであらうか。日本の神道に神學が必要だらうか。私たちの國の傳統を信じ、この自然を愛する、それでいいのではないだらうか。敗戰によつて、折口信夫は「神   やぶれたまふ」と歌つた。そして戰後、近代化=西洋化はいよいよ進んだ。そのなかで日本人としての原點は何かをさぐる道は、尊いものである。矜持を持ち續ける根柢に何があるのかを探ることは大切である。しかし、それは決して神學である必要はない。直觀と眞情で感じ取つた天皇への敬意、それでいいのではないか。私はさう思ふ。しかも、もし神學が必要だとしても、キリスト教の言説を援用する必要は更にない。やぶれる やぶれないといふ次元で語られる神は、所詮キリスト教のやうな神學にはなり得ない。

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雑感

2013年12月29日 12時08分11秒 | 文學(文学)

 朝から本を読んでゐる。ある程度の長文の文章を書かうと思つてゐるのだが、そのテーマの大づかみは決まりつつあるが、どう書き始めるかの取つ掛かりをつかみあぐねて、苦しんでゐる。仕事が連日続いてゐる時には、落ち着いてから考へればよいと気持ちを誤魔化せもしたが、この三日ほど時間が取れるやうになつても、一向に進まない。
 それで、朝から本を読んでゐる。大木英夫、加賀乙彦、橋川文三、アランブルーム、長谷川三千子と連想するままにつまみ読みである。
 それでも、やうやく本を読める所まで来た。
 いや、それも半分はウソ。読めないから、こんな雑感を書いて、時間を埋めてゐる。
 読書にもエネルギーが必要だ。それはちゃうど日頃勉強する習慣がない生徒が、自習時間を持て余すのと一緒だ。鞄の中を探り、問題集を取り出して始めるも十分と経たないうちに、別の教材を探す様子そのものである。
 脳といふ身体が、「勉強」といふ動作を弾き返すのである。そこに無理やり押しこむ、その抵抗を打ち破るには「勉めて強いる」力が必要だ。
 いまその抵抗(壁)と戦つてゐる。何とも情けない始末であるが、かういふ時間を通過しないと、私のやうな者には、文章は書けないのである。
 今年もあと数日、
 
 去年今年貫く棒の如きもの

 虚子とは違ふ感慨ではあるが、戦ひは続けていかねばなるまい。

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時事評論 最新号

2013年12月24日 15時25分03秒 | 受験・学校

○時事評論の最新號の目次を以下に記します。どうぞ御關心がありましたら、御購讀ください。1部200圓、年間では2000圓です。 (いちばん下に、問合はせ先があります。)

                 ●

    12月號が発刊された。今年最後の號である。

 

 一面には、福田恆存の晩年に深い交流をされた、黒田良夫氏の論考が載つてゐる。黒田氏は、美術学校を出られ、その時の恩師である亀井勝井一郎とも親交がある。亀井勝一郎全集にも、黒田氏の絵画展での案内が載つてをり、そのことは十分に分かる。
 黒田氏は、教育者でもあるので、教育はどうあるべきかについてよく亀井とも話したといふ。そんな折、亀井から紹介されたのが福田恆存であつた。
 もう五十年以上も前のことである。諏訪に教育講演会に来られた福田との出会ひがその始まりであるといふ。
 福田恆存といへば、思想家として昭和を代表する人物であるが、もうすでに私たちには「紙上の人」になりつつある。福田恆存の謦咳に接した人を訪ねていける最後の時期が来てゐる。そんな中、この黒田氏の論考が掲載され、これを機に福田恆存像の多層化が図られればと願つてゐる。
 今回の内容は、教育論である。集団の中での教育が学校教育の眼目であり、その要諦は秩序を教へることであるといふ。さう断言できる人が少ないから、サービス業になり、知識産業になつてしまつたのである。結論はどうあれ、今日の学校教育がベスト(いつの時代よもベター)であると断言できる人はゐない以上、傾聴に値する。

 

              ☆        ☆    ☆

教育は強制なり

集団で行う学校教育の意味

        画家    黒田良夫

● 

「政治の保守」と「文化の保守」を峻別せよ

  いい加減に使はれる「保守」といふ言葉     

        評論家   木村 貴

教育隨想       

  教科書検定基準の見直しは、村山談話の破棄が前提だ。 (勝)

お勧め本3冊  損した本1冊

        評論家  三浦小太郎

この世が舞臺

     『冥土の飛脚』井原西鶴                              

                            圭書房主宰    留守晴夫

コラム

     「挑発にのるな」の弱さ  (菊)

     道の命名法の国際比較 (石壁)

     「タタミゼ効果」とは?(星)

     「昔はよかつた」の嘘(騎士)   

   ●      

  問ひ合せ

電話076-264-1119     ファックス  076-231-7009

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長谷川三千子『神やぶれたまはず』を讀む

2013年12月17日 12時42分13秒 | 文學(文学)

神やぶれたまはず - 昭和二十年八月十五日正午 神やぶれたまはず - 昭和二十年八月十五日正午
価格:¥ 1,890(税込)
発売日:2013-07-09

 長谷川三千子氏の新著を遅ればせながら読んでゐる。

 これについての書評を書くのではなく、その中にあつた朝日新聞の記事を引用したくなつた。

・・・・・・いま日本に進行しつゝあるものは、恐らく空前の大変革なのである。強風によつて急旋回したカードの表に裏が代つたほどの急変化である。この大激変を日本人自身すら明確にはまだ覚つてゐないかも知れない。一般的には暗中に模索してゐるかも知れぬ。しかし、具眼の士はすでに明確に意識してゐる。いな大衆も模索の境にあるとはいへ、無意識の裡に漸次厳粛なる結論に到達しつゝあると思ふ。
 然らば、いつたい、かうした突変がどこから来たのか。それは東洋の秘密であり、日本の神秘に属する。端的にいはう。八月十五日正午の天籟からである。天籟なるが故に真実を指さされ給うた。事実を自ら偽るものはもはや許されない。無用の虚勢も自己本位の欺瞞ももはや存在し得なくなつた。それは民心深く滲透したものの力である。

 昭和二十年九月五日の社説である。

 中に出てくる「天籟」といふ言葉が目に止まる。「自然に由来する音」のことである。雷鳴も風音もそれに属するのであらう。八月十五日正午の天籟とは、ではどういふ音であるか。それは陛下の玉音であるか。かういふ言葉遣ひが、当時の常識であり、朝日新聞でさへ、かういふことを書いてゐたのである。
 だから、私はかう考へるやうにしてゐる。その時代に発言しにくいことを発言するところに真実の兆しがあるのだと。
 もちろん、まつたく身勝手で、正統に通じてゐない見当違ひも、「発言しにくいことを発言するところ」にはあることもあらう。しかし、俗耳に入りやすい言説に正統が宿るはずはない。
 では、翻つて現在の状況下で、どういふ発言が俗耳に入りやすいか考へずとも明らかであらう。その意味で、朝日新聞が象徴する「少し反体制的なインテリ」たちの言動は、歴史の評価に耐へられないものと断じることができる。
 内田樹氏がブログで、危機を煽つてゐるが、やはりこの人、根本的なところで日和見である。

 

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特定秘密保護法は審議の対象にすぎない。

2013年12月05日 22時27分13秒 | 日記・エッセイ・コラム

 朝日新聞しか取つてゐないので(当地は産経新聞配達区域外であつた!)、それしか見てゐないと何だか日本はどこかとすぐにでも戦争ができる状態になつたのかと思つてしまふ。

 何の話かといふと、特定秘密保護法のことである。国家に機密がある。そして、東アジアの冷戦構造が今も続いてゐる以上、その機密が軍事的なモノであるかぎり公開できないのは当たり前である。それが大まかな話である。それでも「反対だ」といふのであれば、何がどう反対なのかを議論すればいいだけの話。最初から、「採決ありき」と「廃案ありき」との合唱コンクールをされては話にならない。

 例によつて、インテリたちがごつそりと名乗りを上げて、「治安維持法の復活」だとか、「戦後最悪の法案だ」だとか記者会見して、正義漢ぶるのがいかにも見つともない。だいたい「治安維持法」とか「戦後」とかいふ言ひ方も、現状にあつてゐない。柄谷行人がかつて書いたやうに、今が「戦前」であるといふ「思考」がなくては、今日の今日的課題に対処できない。戦前への恐怖が負ける戦争に突入してしまふことになるのであれば、それこそが最も警戒すべきことである。その意味では、朝日新聞は創刊以来、ずつと間違つてゐたといふことであり(戦意高揚を図つて大東亜戦争に突入して行つた。安保反対して戦後社会を迂回させた。)、比喩的に言へば、「朝日の逆が正しい」。

 政府は、絶えず間違へる危険を孕んでゐる。それは仮名遣ひ政策を見れば、よく分かる。だから、問題はどういふ法律なら良いのかを考へることである。最初に書いたやうに、「国家に機密がある。そして、東アジアの冷戦構造が今も続いてゐる以上、その機密が軍事的なモノであるかぎり公開できないのは当たり前である。」その線に沿つて、「より良きもの」を作ればよい。民主党で元気がいいのは、「議論しろ」と言つてゐるときだけ、何の議論がしたいのか一向に伝はつて来ない。

 それから、「みんなの党」の渡辺代表の日和見的な対応、あれはさらに見つともない。さすがの命名である。「みんな」がどう動くかで方針を決めるのなら、政党などいらない。

 昨日、面白いものを見た。新幹線のチケットを受け取りに、車で三十分ほどの豊橋駅まで行つたが、駐車場に車を止めて、駅に向かふ途中、なんだか威勢のいいおじさんおばさんが「特定秘密法案反対」とマイクで演説したり、ビラを配つてゐたりした。私の手に「戦争が出来る国になつてしまひますよ」と言つてビラを差し込んで来たが、その時の表情は嬉しさうで、ほんたうに生き生きとしてゐた。久しぶりに活動の場を得たやうな顔であつた。チケットを閉店までに取りに行かないといけないので、その場を走つて通り過ぎたが、「あなたたちのやつてゐることも戦争でせう」とつぶやかざるを得なかつた。だつたら、戦争が出来る国でいいではないか! さう思ふ。戦争の何が問題か、考へたことがないから、ああいふことを気安く話せるのだらう。人を殺すなら、自動車だつて、飛行機だつて、医療だつてやつてゐる。戦争といふものの悪をちゃんと説明しないといけないだらう。国家とは戦争をするために作られたものである。さういふ厳然たる歴史の現実の上に現在がある以上、感情的に安全保障の政策に反応するのは幼稚にすぎる。緊張感のない証拠である(さういふ意味でも「戦前の思考」は必要だ。戦争が起きさうであるなら、勝たなければならない)。
 この話には落ちがある。わづか十分後のこと。たぶん、ビラ配りの時間が終はつたのであらう。帰りに先ほどの場所を通ると、もう誰もゐなかつた。静かなものである。その十分間の間に、家路を急いで晩御飯の支度に勤しんだのだらう。所詮、本気ではないのである。

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