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神やぶれたまはず - 昭和二十年八月十五日正午 価格:¥ 1,890(税込) 発売日:2013-07-09 |
おもしろかつた。それは、いま話題の『永遠の0』を讀んだ時のやうなおもしろさではもちろんない。同じやうに、大東亞戰爭時の人の生き死ににかかはるが、前者が使徒行傳であるとすれば、後者は福音書のやうであり、より「神學」的なものである。
使徒行傳と言ひ、福音書と言ひ、神學と言ひ、その比喩はいづれもキリスト教の用語であるが、さういふ言葉を選ばせたのは、本書の影響である。
長谷川氏は、どうしても日本の神學が欲しいやうだ。そして、あの八月十五日の意味を深めることによつて、イエスの死の意味を深めてキリスト教が誕生したやうに、日本の神學を誕生せしめることができるとお考へのやうであつた。しかし、私には少々無理があるやうに思へた。
昭和天皇の果した役割の大きさや、その言動のすばらしさには感動はするけれども、それは到底信仰の要になるものではない。
日本の神は當然ながらキリスト教の神ではない、さう斷言しながら、長谷川氏は、キリスト教(ユダヤ教)の聖書を用ゐて、日本の八月十五日正午の瞬間を神學的に意味付けようとする。しかし正直に言へば、滑稽であつた。聖書の記述にまるまる一章を割いてゐるが、その部分は、果して有效であらうか。私にはさうは感じられなかつた。
聖書を讀まない人達には、たぶん讀み飛ばされてしまふだらう。事實、讀賣新聞に掲載された書評にも一切それへの記述はなかつた。しかし、長谷川氏の舊著『バベルの謎』を踏へて力強く力説したのが、この章である。
その章の問題點は何か。それはキリスト教の原罪といふ思想に一切觸れずに、イサク奉獻、イエスの十字架を論じた點である。たしかに、キルケゴールやデリダの書を引用しつつ、キリスト教における通念に理解を寄せた上で獨自の解釋を施してゐるやうな體裁ではあるが、その解釋は、言つてよければ夜郎自大であり、噴飯物であつた。これでは「神學」になりやうがない。一言で言へば、それは所詮「人學」である。このあたりのことは、聖書の細部に入らなければ解らないかもしれない。そして急いで付け加へれば、私もまたその聖書の解釋をここですることはできない。ただ、長谷川氏の文章の一節を引用することで、私の傳へたいことが御解りいただけると思ふ。
イサクの奉獻に對して眞の應答ができるのは「死にうる神」のみである。つまり、われわれの民族がもつやうな神々にしてはじめて、イサクの奉獻を正しく受けとると同時に、その命を返却する、といふことができるのである。
「われわれの民族がもつやうな」 「死にうる神」とは、キリスト教の神のやうな絶對者ではなく、全知全能でもない。キリスト教の神は、自ら死ねないから、イエスに「死を與へる」ことによつて、萬民救濟の道を切り開いた。確かにさうである。つまりは、神は死ねないから「死ぬことのできる息子」をつくり、それを十字架にかけたといふのが長谷川氏の理解である。面白いことを言ふ。さうかもしれない。しかしながら、その「死ねない神」だから「イサクの奉獻を正しく受けとる」ことができなかつたといふのは、まつたく見當違ひである。
イエスの死も、イサクの奉獻も、人類始祖アダム以來の原罪が私たちにあつて、それゆゑに神は自ら手を出せないといふ嚴しい斷絶があるといふことをまつたく無視してゐる。その斷絶の向う側にゐる神だからこそ「神學」が誕生したのであつて、「死にうる神」だから、人間に應答できるのだと、これほど清々とそしてあつさりと言はれると、それは人間でせう、と言つて仕舞ひたくなる。長谷川氏の求めたのは、「人學」であるとはその意味である。
どうして「われわれの神學」をそれほどに求めるのであらうか。日本の神道に神學が必要だらうか。私たちの國の傳統を信じ、この自然を愛する、それでいいのではないだらうか。敗戰によつて、折口信夫は「神 やぶれたまふ」と歌つた。そして戰後、近代化=西洋化はいよいよ進んだ。そのなかで日本人としての原點は何かをさぐる道は、尊いものである。矜持を持ち續ける根柢に何があるのかを探ることは大切である。しかし、それは決して神學である必要はない。直觀と眞情で感じ取つた天皇への敬意、それでいいのではないか。私はさう思ふ。しかも、もし神學が必要だとしても、キリスト教の言説を援用する必要は更にない。やぶれる やぶれないといふ次元で語られる神は、所詮キリスト教のやうな神學にはなり得ない。