言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

十字架についたイエスは幸福か

2023年05月24日 15時25分03秒 | 評論・評伝
 私淑してゐた稲垣良典は、講演のなかで「人間としてこれ以上ない悲惨な死に方である十字架についた時、イエスは果たして幸せだつただらうか」と問うてゐる。
 深い問ひだと思ふ。思はずはつとして聞き入つてしまつた。

 イエスの最後の言葉は「わが神、わが神、なにゆゑわたしをお見捨てになられるのですか」であつた。
 かういふ嘆きの言葉を残す心情は、明らかに絶望であり、悲嘆である。それが通常の理解である。
 あらうことか、キリスト者の中にも「それは人間イエスの弱さである」とさへ言ふ者もゐるやうだ。
 それに対して神学者の中には、これは旧約聖書の詩編22編の冒頭であるから、その冒頭の一節をイエスが言ふことで、22編全体を意味したことは明らかで、それを述べたダビデの結論は、22編最後の一節「主がなされたその救ひを後に生まれる民にのべ伝へるでせう」といふ覚悟と希望なのであるから、イエスは全く絶望を表明してゐないと言ふ者もゐる。
 なるほど、さういふことはあるのかもしれない。
 しかし、稲垣はさうではないと言ふ。
 悲惨の極致においてもイエスは神と出会つてゐる。本当の幸福とは何か。それは神と一体となるといふことである。トマス・アクィナスを引いてさう述べる。

 何度も聞き直してみたが稲垣の言葉をそのまま書き取ることはできない。それは私の理解が及ばないからである。 キリスト者稲垣には明瞭に、手応へのある真実を摑んでゐるらしいのは分かるのだが、どうも言葉にして書くことができない。


 十字架につくことで私達に救ひをもたらしたとすれば、それは仕業と成果の機能主義的解釈に過ぎる。十字架につかなければ人類を救へないといふのであれば、「お見捨てになられるのですか」とは叫ぶ必要はない。「神よ、私はお約束を果たしました」と言へば済む。しかし、さうではなかつた。
 そこにこそ、神とイエスとだけが知り得る関係性があつたのではないか。それは十字架といふ血の場であるが、一体の境地であり、幸福の極致であつたのだらうと思はれる。

 イエスの十字架に涙するのは、その悲劇をうつすらと知るからであり、十字架に救ひを感じるのは、そこに悪が入り込めない神と人とのよりしろを見るからである。

 イエスの悲しみは神の悲しみである。その心理の絶頂はキリスト教だけが示し得た人間の奥義だらうと思ふ。残念ながら私達日本の宗教にはそれを示し得た人物はゐない。 
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時事評論石川 2023年5月20日(第829)号

2023年05月23日 13時13分35秒 | 評論・評伝
今号の紹介です。
 国防にせよ教育にせよ、大事なことは何も決められないままどうでもよいことだけが決められて行かうとしてゐる。今号の紙面に出てくる話題は、その「どうでもよいこと」を「とんでもないこと」に変えて、「決定的な大問題」にしようとする事柄である。さういふ輩を退治する執筆者の怒りを感じてほしい。私もその怒りを共有するが、それに加筆する余裕も能力もない。
 ただひたすら応援するばかりだ。
 そして憂色が濃くなるばかりである。

 ご関心がありましたら御購讀ください。  1部200圓、年間では2000圓です。 (いちばん下に、問合はせ先があります。)
            ●   
拉致で安倍元首相が闘った「有力者」たち
 足を引っ張るだけのお荷物YKK
    救う会副会長 福井県立大学名誉教授 島田洋一
            ●
コラム 北潮(バジョット『イギリス国制論』)
            ●
島田雅彦 左翼知識人の典型
  言ひたかつたら言へば良い、だが、覚悟して言へ
    コラムニスト 吉田好克
            ●
教育隨想  LGBT法案の危険性(勝)
             ●
『韓国の「反日歴史認識」はどのように生まれたか』
  終戦直後と現在との連続性
    韓国研究家、韓国語翻訳家 荒木信子
            ●
コラム 眼光
   「第二のテロ」はなぜ起きたか(慶)
        
            ●
コラム
  若い力を未来に向けるには(紫)
  「七光り」だけでは輝かない(石壁)
  人工知能と附き合ふ(星)
  自民党「終はりの始まり」(梓弓)
           
  ● 問ひ合せ     電   話 076-264-1119    ファックス   076-231-7009
   北国銀行金沢市役所普235247
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榎本博明『伸びる子どもは〇〇がすごい』を読む。

2023年05月21日 17時08分04秒 | 評論・評伝
 
 
もう30年以上前のことである。かつて叱つたことのある生徒から数年後にその時のことを思ひ出して「先生に嫌はれてゐるとずつと思つてゐました」と言はれたことがある。
 さうして過去のことを私に話してくれたといふことは嫌はれてゐたわけではないといふことを分かつてそうくれてゐるといふことではあるが、叱る=嫌ふといふ図式はかなりの生徒に共有されてゐる心理なのだと思つた。
 私はあまり叱られたことのない少年だつたが、叱られるのは嫌はられてゐるからだといふやうには考へたこともなかつた。したがつて、さういふ子供に出会つたときにはおどろきであつた。
 以来、私は初めに「叱ることはあるが、それは君たちへの嫌悪の感情からしてゐるわけではない」といふことを言ふことにしてゐる。
 
 本書は、非認知能力を育てることの重要性を述べたものである。自身の子育て経験や教育学の世界的研究成果を踏まへて何度も何度もそのことを力説してゐる。その心は非認知能力を育まないと将来的に困ることになりますよといふ示唆である。
 俗流の「叱らない教育」の上部だけを取り入れて、そこに本来あるべき厳格な幼児教育に目を瞑つてゐる皮層な教育論にはかなり強い調子の批判が当てられる。「褒める教育」に対しても、褒めるには努力に対してであるべきで、その成果や才能を褒めると却つて才能に枠をはめてしまふことになつて伸びないやうにしてしまふ。
 大事なのは、忍耐強さ、今時の言葉で言へばレジリエンスの養成である。非認知能力の核もそれである。

 因みに後半でジョン・ロックの『教育に関する考察』が数ページに亘つて引かれるが、丁度それを読み始めてゐたので驚いた。この17世紀の社会契約論者の発想は今でも私たちにいろいろなことを教へてくれる。合はせて読まれたい。


 
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原田マハ『本日は、お日柄もよく』で映画を撮るとしたら

2023年05月17日 17時37分56秒 | 評論・評伝
 
 ゴールデンウィーク中に読めた本は、この一冊のみ。毎日外に出て「遊ぶ」ことを自分に課すやうにしてゐたから、それで満足。教へ子の披露宴にも出席した時期とも重なつて、いい本を読んだと思つてゐる。
 この本は、家内に勧められたものだ。そこで読後に、「もしこの本で映画を撮るとしたら、役者は誰がいい?」といふ話になつた。
 それで考へた私の案を書いて、読後の感想に代へる。それにしても知つてゐる役者があまりにも少ないといふのが、感想である。
(話は、OLの「二ノ宮こと葉」が、思ひを寄せてゐた幼馴染の厚志の披露宴に出た折に、感動的なスピーチに出会ふところから始まる。その話し手が久遠久美(くおん・くみ)。スピーチライターでもある久遠に弟子入り。ライバルとなる和田日間足(かまたり)とのからみがあつて、やがて二人は結ばれる。幼馴染の厚志の父親は代議士だつたが、これからといふ時に亡くなる。その遺志をついで厚志も代議士になるが、対抗馬のスピーチライターが和田、そしてこと葉は当然ながら厚志のスピーチライター。それぞれが考へる「名スピーチ」が面白い。もちろん、それが最良なのかどうかは判断が分かれるところ。それぞれの趣味に合ふかどうかだらう。私にはどうかなといふものもあつた。)

二ノ宮こと葉       松岡茉優
その祖母         宮本信子あるいは夏井いつき
久遠久美         中谷美紀(家内は天海祐希推し)
今川厚志         赤楚衛二
今川厚志の父(代議士)  光石研 
その政党の党首      佐藤浩市
総理大臣         岸部一徳
厚志の競合代議士     鶴見辰吾
和田日間足        永山瑛太  

どうだらうか。
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安倍元総理終焉之地の現在

2023年05月07日 08時32分16秒 | 評論・評伝
 大阪から愛知に戻るに当たつて奈良を経由して行くことにした。
 昨年の七月八日の事件後、あの場所はどうなつてゐるのか気になつたからである。
 すでに道路が作られ、その場所は跡形もない。少し離れた歩道側に花壇が設置されてゐた。道路の反対側には人工芝が引き詰められてゐて、高校生十人ほどが寝そべつてゐた。排気ガスの舞ふこんな場所に寝そべつてゐること自体に違和感があるが、この場所がどういふ場所であるかといふことなど全く考へずに、以前からの計画通りに道路づくりを進めた国土交通省や県庁の見識への違和感からすれば大したことはない。子供は知らないのである。慰霊の精神も行政への検証もである。
 
 七・八事件についての奈良県の姿勢は徹頭徹尾誤つてゐる。花壇を設置して終はりである。あれだけが当初の設計とは違ふことなのであらう。世俗的な民主主義では、これがせいぜいのところだるとすれば、それは奈良県の姿勢だけを責めてはゐられまい。私たちの民主主義の貧困である。
 高校生の寝そべつてゐた人工芝に、「安倍晋三終焉之地」といふ碑を建てれば、彼らもあのやうな姿をしないであらう。
 その碑すら建てられないことが、民主主義の貧困の象徴である。
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