「民意」を問うて國亡ぶ――選擧の逆説
憲法改正ができない國民に「民意」はあるか
民主黨の自業自得
「民意を問へ」といふ言葉をよく聞くやうになつた。しかし、現政權にたいして、同じ立場の國會議員を含めて彼らを責めることができるほどの見識や能力のある人がゐるとは到底思へない。それらの何と「上から目線」(高飛車といふ意味だらうか)の態度であることか。民意を問ふとは民主主義社會ならば當然のことだといふ反論は一應尤もである。しかし、「その位に在らざれば、其の政を謀らず」(「論語」泰伯)ほどの謙虚な姿勢も一方では持ち合せてゐなければ、代議制の意味がない。いちいち民意を問うていかねばならぬのなら、この國の國力は衰えていくばかりである。現に、「民意を問へ」と言ふ方も言はれる方も民意に從つてばかりゐて、政治の停滯は度し難い。
先日の參議院選擧で議席數を大幅に伸ばした「みんなの黨」の黨首はしきりにその「民意」といふことを言ふ。しかし、その意味は、勢ひのある今だから衆議院選擧でも勝てさうだといふことに過ぎない。「民意を問へ」とはさういふことである。政治家の方は、田中角榮が築いた數の論理を今もまだ信仰してをり、一方の國民も、人を選ぶといふ快感に醉ひ癡れて、選擧の機會は多い方がいいと思つてゐる。
そもそも、國會を早早に閉會して選擧に突入した當の民主黨の議員たちも、早く民意を問ひたかつただけで、その方が勝てると思つたからである。ところが、その民意とやらを讀み違へて墓穴を掘つたのが今囘の結果である。何らの同情も評價もできない。消費税を言ひ出したから負けたのでも、幹事長の暴言が災ひしたのでも、二人區に二人を立てたからでもない。民意とやらに騙されたのである。
相對的なものを絶對視する近代日本
いつたいに「民意」とは何なのか、世論調査で示される數字が民意であるとはずゐぶん亂暴な話である。しかし、よしんば數字に「民意」があると假に認めたとしても、次次と變はるその數字を根據に政治が營まれれば、政策は一向に實現せず國會は空轉するばかりである。そんな譯の分からぬものを求めて、あるいはよすがにして、さらにはそれを楯にして、政治家も國民もあるいは仲介者としてのマスメディアも政治を營み、政治を語るとはじつに愚かなことではないか。
因みに言へば、評論家の遠藤浩一氏の近著『福田恆存と三島由紀夫 一九四五―一九七〇』では、戰後社會の日本を覆ひ盡くしてゐるのはニヒリズムであり、それに抗ふべく言葉を驅使して挑んだ先人として二人の作家の言論をこれまでのどの文藝批評よりも深く、そして彼らの生きた時代をこれまでのどの時代批評よりも鋭く描き出してゐた。そこで記されたことから學ぶのは、私たちの戰後社會とは(言つてよければもう少し長く近代社會を通じて)、相對的な價値しかないものをあたかも絶對的な價値があるかのやうに信じた振りをして、しかもそれが相對的な價値しかないといふことを百も承知だから、次次と交換していく社會であり、價値を見出し價値を守り價値を傳へるといふ言葉本來の意味での「文化」とはまつたく關係のない姿を映し出してゐるといふことであつた。
さうであれば、私たちが生きる支へとしてゐるのは、他人の目であり人人の評判のみになる。したがつて、ここで再び政治のことで言へば、政治家の仕事も、國民の御用聞きとなり、あるかどうかも分からない國民の意志やらを忖度し、藝能人よろしく世人の人氣を求めていくものとなる。それをポピュリズムなどと言つて、あたかも小泉純一郎氏邊りから顯著になつた政治手法であるかのやうに言つてしまふと認識を誤る。講和締結、日米同盟、所得倍増、日本列島改造、超法規的措置、民間活力導入、ふるさと創生、政治改革、省廳再編、行財政改革と戰後政策を見てみると、そこに大事なものが缺けてゐると言はざるを得ない。憲法改正もその一つである。戰後憲法の問題點を正面切つて言ふ人物もゐない。もちろん憲法など生活のなかで意識に上ることはない。むしろいつも意識してゐるなどといふ人物の方を怪しむ。ただ、憲法とは私たちの歴史が生み出すべきもので、
「私」自身の常識や人間の良心に深く根ざしてゐるものであるべきなのだから、どこか別の國の人が作つた憲法を有難がつて押いたゞくといふことは論外であり、そのことを即解決すべきだといふのが政治の役割である。しかし、戰後六十五年何一つ變はつてゐない。
支離滅裂な「民意」
相對的な價値しか持たないものを絶對視するといふのは、私たちの宿痾なのだらうか。例へば、戰前皇國日本を信じてゐた國民が、戰後は掌を返したやうにアメリカ禮讚となつた。しかも、自ら進んで軍部の意を察して自ら進んで統制を受け、戰時體制に貢獻しようとしたのにもかかはらず、戰後はあの戰爭を軍部や天皇のせいにする。同じく主權囘復直後なら獨自の憲法も作り得たであらうに、占領軍へのすり寄りから對立する空氣をひたすら遠ざけてしまつた。さういふ他者依存、相對的な價値への過剩適應こそは、私たちにとつてかなり深刻な病理である。
そして「民意」こそ現代人が信じる價値であらう。しかし何度も言ふが、それは相對的な=いい加減なものである。今囘の選擧はその典型である。七月十四日の朝日新聞を見ると、民主黨の敗北の結果を「良かつた」とするのが四八%としてゐる「世論」が、その一方で「首相辭任『不要』七三%」としてゐるのであるから、國民の決斷がないことはいつもと同じである。敗北が良いとするのなら、首相辭任を求めて良ささうなものなのに、それを示さない。菅内閣の支持率は三七%と、發足から一ヵ月も經たないうちに歴代では最大の低下幅を示してゐる。支持はしないが、辭めてはいけない。かういふ無責任こそが民意の正體である。
「精神的貴族」の出現が待たれる
しかし、どんな人間にも生きていくうへでは、意識の生活といふものがあるはずだ。精神の生活と言つてもいい。道に落ちてゐる財布を見たら自分のポケットに入れずに警察に屆けるのも、自分の非によつて他人を困らせてしまつたことを知つたならば自ら進んで名乘り出るといふのも、ささやかな私たちの意識(良心の志向)が導く生活である。ところが、それがずゐぶんと鈍つてゐる。有體に言へば、今の自分が良ければ、後のことはその時になつて考へればよいといふ意識なのである。
シェイクスピアの作品『コリオレイナス』(第四幕 第五場)には次のやうな言葉がある。
第一の召使 平和は人間同志を憎み合ふ樣にする。
第三の召使 尤もだ、といふのは、平和となれば、お互ひ助け合ふ必要が無くなるものな。
平和による不和とはアイロニーであるが、それが現實とあれば受入れるしかない。しかし、さうはしたくない。一切の不幸の原因はきれいに誰かのせいにし、得られた幸福は独り占めにする。これで世間が良くなるはずはない――少し考へれば分かりさうなものなのに、さうは一切考へない。他人を批判し責任を追及し、相手の落度を徹底的に指摘する。理屈とはどうにでもつくものだから、自己主張の強い人が勝つ。その結果、クレーマーやらモンスターやらがあらゆるところに出現する。なるほど、かういふ日々の營みの忠實な成果が今日の状況なのである。「民意」もまたその一つである。どうして信じることができるだらうか。
世俗的人本主義とも言へるこの慘状をどうしたら良いのか。あの無神論者のニーチェは「悲劇は人生肯定の最高の形式だ」(『悲劇の誕生』)と言つたが、さう構へるしかあるまい。聖なるもの、自己を超越したものによつて、自己を肯定したり否定したりする精神の政治学を持ち得なければ、我が感情をひたすら主張し、その主張の擴大を追求する生き方を克服することは不可能だ。もちろんこれは大多數の人には實現困難な精神の構へである。しかし、ほんの一握りでもさういふ生き方を示す人がゐれば、「民意」に負けない政治家も生れてくる可能性はあるだらう。かつて大宅壯一は福田恆存のことを精神的貴族と呼んだが、それを目指す人物が求められてゐるのである