田中美知太郎のやうな哲学者が果たして今ゐるのだらうか。それはどういふ意味かといふと、哲学が学問としてあるのではなく(つまりは現在を生きてゐる人間として)、日本人として(つまりはどこの国のどこの時代にも通じるやうな無国籍な発言をする人ではなく)、時代の流行思想とは何の関係もないところで(つまり思想の輸入業者としてではなく)、発してゐる人といふ意味である。
哲学の研究者はゐなければならないし、どこの国の研究者とも疎通できる普遍的人間像を追究する必要もあるし、最先端の研究成果を日本に紹介する役割を担ふ哲学研究者はゐてもいい。しかし、さういふ人だけであることに一般の読者としては不満がある。もちろん、田中美知太郎が世界の哲学者に伍してゐないといふことを言つてゐるのでない。
私の田中美知太郎評など何の意味もないのであるから、言ひたい放題であるが、とにかく碩学である。言葉に重みがあると言つては月並みだらうが、正確な語学力に導かれたプラトン研究と、それを通じた現代社会評に信を寄せてゐるのである。私は、論理は嘘をつくと思つてゐる人間だから、その人の論理の出発点が信頼するに足るか足りないかでその人の論理を信じるか信じないかを決めてゐる。その点で、田中美知太郎は信なのである。何を偉さうにと自分でも思ふが、生意気な私には今もまだかういふ表現しか浮かばない。
『ソクラテスの弁明』が読みたくなつた。高校時代の夏休みに読んだ。たぶん。新潮文庫だつたと記憶する。しかし、まつたく覚えてゐない。それで1997年に読み直した。なぜ分かるかといふと、大阪の自宅の書棚から、そのとき読んだ中央公論の『世界の名著』に日付があつたからだ。そして、今回読んだ。新潮文庫版である。そのタイトルは『ソークラテースの弁明』である。中央公論も、新潮文庫も田中美知太郎である。岩波にも、光文社にも入つてゐるが、なぜか田中美知太郎でしか読む気がしない。といふのは嘘で、今回新潮文庫で読み終はるまで、『世界の名著』のことはすつかり忘れてゐた。読んだことすら忘れてゐた。本を開き、メモまでしてあるのにである。お恥づかしいかぎり。記憶がここまでなくなるのは痛快ですらある。
その結果、三回とも田中美知太郎で読んだといふことになる。そこで、冒頭のやうな後付けが出てきたのかもしれない。いい気なものである。田中美知太郎の贔屓の引き倒しになつてしまふ。
でも、私の田中美知太郎評など何の意味もないのであるから、言ひたい放題である。とにかく碩学である。
本書から引く。今回は何も感じなかつたが、前回読んだ時には、線が引かれてゐた。
「よき人には、生きているときも、死んでからも、悪しきことは一つもないのであって、その人は、何に取り組んでいても、神々の配慮を受けないということはないのだという、この一事を、真実のこととして、心にとめておいてもらわなければなりません。」
この「よき人」になるべく生きたいと思ふ。田中美知太郎は、その「よく生きたいとして生きた人」であると私は考へてゐる。