今月は、夜の九時半頃に帰宅し、食事をしたあとにコーヒーを飮んで部屋に入るとメールをチェックするのが精一杯で、もう眠氣に勝つことはできない。こんなブログでも毎日60件ほどはアクセスをしてくださる讀者もゐるのだが、どうにも書込むゆとりがない。
一つには、思はぬ人事異動で中學校一年生の擔任をすることになり、忙殺される日日であるといふことがある。そして、その影響で文章を書く時間がなくなり、いよいよ筆を持つのが億劫になつたといふことも大きい。あるいは思考が何かをじつくり考へるといふところに向はないのである。なあに、これまでだつてそれほどのことを君はそもそも考へてはゐないではないか、と言はれればその通りではあるが、それでも無い智慧絞つて何かを書いてきたといふ自負もないわけではない。
だから、やはり書きたいといふ思ひはある。今日は、夕方には歸宅が出來たので、書かうといふ氣持ちにまかせて書いてみようと思ふ。
簡單な日記をリハビリついでに書くことにする。
じつは、今月の頭に、三泊四日のオーストラリア旅行に出かけた。20年ほどの前に東京で知りあつた韓國人の友人に會ふのが目的である。15年ほど前、彼は留學を終へ韓國に歸り、私は九州に轉居した。それ以來電話でのつながりだけであつたが、いつしか彼はオーストラリアに移住し、そこで結婚し、子供をもうけた。日本にゐたときには、本當にいろいろな話をした。喧嘩もした。禪に興味がある彼には、遠慮なくさういふ思辨に關心はないと言ひ、彼を憤慨させた。そして、私は絶對者を信じるから、自己の内面に眞理を探るのは邪道だとなほも言ひはなつた。上野のお好み燒きの店屋で何時間も話すことが何度もあつた。「こんちくしょう」といふ思ひがあるうちは、會はない期間も長くなつたが、それでもいつしか再會を願つた。また、コンピューターに疎い私は、彼を師匠としてパソコンについて學んだ。氣のいい彼は、組み立てたり新しい部品を組込んだりしてくれるために、我が家を訪ねて徹夜で作業をしてくれてゐた。隣で蒲團を敷いてさつさと寢てゐる私を家内が見て、「それでいいの」と訝しがつたが、彼も私もそれでいいと思つてゐた。今から思へば、わづか五年ほどの附合ひであるが、隨分長い附合ひのやうな氣がする。別れてからの方がずつと長い月日が經つてゐる。
いつしかオーストラリアで彼はカトリックの洗禮を受け、また再び語り合はうといふ誘ひを受けた。「夏休みに行く」といふ約束を三囘ほど反故にして、ついにこの春にその約束を果すことになつた。南半球へは初めての旅である。奧樣や一人息子に會つて、彼とのつながりも立體的になつた。お互ひ老けたが、不思議に會はなかつた時間を意識することは無かつた。空港に迎へに來てくれた彼とは、上野での會話の延長をすぐにも續けられさうな感じであつた。
しかし、今囘はもう何も話さなかつた。名所に連れて行つてもらひ、その日の夜は彼の自宅の庭でカルビを食べた。次の日は、また別のスケジュールを過ごし、晩夏のオーストラリアを滿喫した。