言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

白石一文『この世の全部を敵に回して』を読む

2021年09月26日 16時29分51秒 | 文学

 

 

 随分挑発的なタイトルだし、構成も変はつてゐる。本書は小説である。主人公の小説家には親友と呼べる友人がゐた。K***氏と書かれた人物である。その彼は突然心筋梗塞で亡くなる。その知らせを彼の妻から知らされたが、その折にK***氏が手記を書いてゐたと伝へられる。それを読んだ小説家は、どうしても現在の若い人に読んでもらひたいと思ひ、知り合ひのゐる出版社(小学館と書かれてゐる。そして事実、この本は小学館から出てゐる。ノンフィクション仕立てのフィクションだ)に申し込んで本として世に出すことになつた。それが本書である。

 内容については、生きるとはどういふことかが書かれてゐる。いきなり「私は子供たちのことも妻のことも愛していない」と書かれてゐるが、言葉は文字通り受け取れるものではない。その非人情の言葉は、しだいに真意を明らかにしてくる。一言だけ触れれば、「私たちは自分自身のことも他の誰かのことも強く愛することなどできない。私たちにできるのは自らを、そして他人を哀れみ同情することだけだ」と最後になつて書くのは、愛といふものを崇高なものとしてとらへてゐるからである。「真・善・美といった至上価値を説き、それらを追い求めることが人生の目的であると強調する者たちを余り信じてはいけない」といふ言葉の裏には、それらはさう簡単に求めることはできないといふ断念がある。言つてよければ、「神は死んだ」と言つた20世紀初頭の実存主義者の真意が神の尊厳を守らうとしたのと同じである。

 K***氏の、「この世の全部を敵に回して」も、つまりは「この世の通念を安易に信じて何も努力しない人々を敵に回して」も伝へたかつたことが逆説にならざるを得なかつたのは、愛といふものを追ひ求めようとした彼自身の努力が人並ではなかつたからなのである。

「私が成長仮説を認め、不滅の霊魂の存在を信じたとしても、それによって一向に慰められないのは、ひとえにこの世界が無残すぎるからである。/ここまで悲惨な世界で、ここまで悲惨な仕組みの肉体を与えられてしまった私たちが、自分が生まれたことを懲罰以外の何かだと感じ取るのは至難の業であろう。」

 いい加減に生きて、いい加減に人を愛して、いい加減に家族を持ち、いい加減に死んで行く。そんな人がいい加減にあの世の生を待ち望むとは都合が良すぎる。そして、前世で立派な人生を生きたがゆゑに今世で恵まれて生きてゐるのであれば、現世の成功者にもまた多少は人徳があつてしかるべきであるのに、その大半は自己の利益のために他者を利用する者ばかりであるとは、どういふことかと憤る。愛が来世を保証するのであれば、そんなことは起きまい。だから、愛などと言はず自他を哀れむことこそが大事だと考へるやうになつたのである。

 手記が終はると共に、この小説が終はる。あたかも友人から手記を手渡されたかのやうな思ひになる。文庫にして150頁の薄い本であるが、それが却つてその感触を強くさせる。

 哲学の手ほどきを受けたことのない素人の哲学談議だから、きつと思考の手順に飛躍や欠落があるだらう。だから、そのスジの人から言はせれば、粗雑な議論で話にならないのかもしれない。しかし、小説としてはずしりと響く。秋の一日を十分に豊かにしてくれた。

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

時事評論石川 808・809合併号(2021年8・9月号)

2021年09月25日 16時27分16秒 | 告知

今号の紹介です。

 3面に「国家には意思がなくてはならない」を寄せた。私自身にも、そして私が属する組織にも意思なるものはあるやうでない。流されて流されてゐるばかりである。それでも流されてゐるといふ意識がある限り、人も組織もそして国家も筋を通さうといふ力が働く。私が「国家には意思がなくてはならない」と書いたのは、更に言へば「流されてゐるといふ意識がなければならない」といふことである。

 2面の吉田先生が引いてゐた、対米開戦時の軍令部総長永野修身の「戦はずば亡国、戦ふも亡国、しかし戦はずして国が亡ぶのは、魂まで失つた真の亡国」と同じである。「流されてゐるといふ意識がなく流されてゐるのは、魂まで失つた真の亡国」であらう。

 1面の島田先生の言はまつたくその通りである。「バイデンがやつたのは撤退ではない。降伏だ」とのトランプ前大統領の言は至言である。故ロナルド・レーガンはバイデン氏を「純粋なデマゴーグ」と評したとこの記事で知つたが、それもまた至言である。さはさりながら、アメリカといふ国には意思がある。戦つてきた二十年はアメリカの歴史に残る。

 「北潮」は福田恆存について触れてゐる。歴史をいとほしんだ福田の姿が書かれてゐる。

 4面コラムの「アップデート」には違和感があつた。技術のアップデートはあるだらうが、発想や行動がアップデートできるとはどういふことだらう。歴史は塗り替へられるとでも思つてゐるのだらうか。便利な思考である。

 どうぞ御關心がありましたら、御購讀ください。  1部200圓、年間では2000圓です。 (いちばん下に、問合はせ先があります。)
                     ●   

アフガン撤退 戦略無きバイデン「潰走」政権

   福井県立大学教授  島田洋一

            ●

コラム 北潮   (福田恆存について)

            ●
英霊の顔に泥を塗るな

  全国戦没者追悼式式辞を考へる

   コラムニスト・元宮崎大学教員 吉田好克 
            ●
教育隨想  教員免許更新制度の廃止は当然だ(勝)

             ●

国家には意思がなくてはならない 近代日本が置き去りにしたもの

   文藝評論家 前田嘉則

            ●

「この世が舞台」
 『ヴェニスに死す』トーマス・マン
        早稲田大学元教授 留守晴夫
 
            ●
コラム
  アップデート(紫)

  無益な感情論の横行(石壁)

  国力の衰退は免れないか(星)

  LGBTの何を理解するのか(梓弓)
           

  ● 問ひ合せ     電   話 076-264-1119 

                               ファックス   076-231-7009

   北国銀行金沢市役所普235247

   発行所 北潮社

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『ヒトラー 最期の12日間』を観る

2021年09月18日 17時43分38秒 | 映画

 

 

 前々から観たいと思つてゐたが、先日NHKのBSで放送してゐたので録画を観た。

 台風が窓外に轟音を立ててゐるなか、溜まつた生徒の添削をし続けてゐたが、集中力も4時間が限界であと数枚残つたが、この際だから気分転換にと思つて観ることにした。もちろん、内容は周知のことであるし、描き振りも予習してゐたので知つてゐる。そして、疲れた気分を転換するものとして相応しいかと言へばさうではないことも承知してゐる。だけれども、やはり観ておきたいと思つた。

 日本人が作つた日本映画を日本人が観ては分からないことがあるだらう。あまりにもそれは自明なことであればあるほど、それにことさら視線が向かない。例へば、電話をかけてゐるシーンで相手に謝る時には思はず頭を下げてしまつたり、家に入るのに靴を脱ぎ(そのことも我々には違和感はない)、靴を揃へたりすることだ。あるいは、集団で何かを決めなければならないときに、自分以外の人が別の意見を言つてゐれば、私たちはたぶん意に沿はないことでもそれに従つてしまつたり、自分の決めたことを状況が変はつて守らなくなつてもそれについて良心の呵責を感じることが少なかつたりすることだ。

 つまりは、私の身体や心の決定は、状況に影響を受けることが多いのである。ここで漱石の『こころ』を挙げるのはどうかとも思ふが、あの小説は『こころ』と名付けられながら、それは「こころない」行動を描いてゐる、それを感じるからだ。日本が近代を迎へ、そこに生きる人間の中核には自我があつてその行動や意識を支配すべきだといふことになつた。そこで、『こころ』の先生はその通りを目指すのだが、いつも状況に流され、不本意ながら次々と行動を起こしてしまふことになる。その度に苦しみ、淋しみを抱くのだが、決して自我がその人物の中核に据へられることはない。漱石自身の苦しみももしかしたらそこにあるのかもしれないが、それでも自我が中核にあるべきだとして『こころ』といふ名の小説が書かれたのである。

 目の前の状況=自分を包み込む関係に、私たちは支配されてしまふのである。言つてよければ、自我を主張する必要のないまま近代を迎へてしまつたので、私たちには自我が中核に座らないのである。

 さて、さういふことを前置きとして書いて置きつつ、この映画の感想を書くとする。

 それは、彼らはいづれも自分たちの戦争をしてゐるのだつた。ユダヤ人虐殺は、歴史的にはヒトラーのせいになつてゐるが(戦後の西ドイツはそれによつて戦前と切り離すことに成功した。その切り離しも西ドイツ人の意思である)、きつとそれはドイツ人の意思であつただらう。少なくともナチス党員は各自の意思でそれを正当化してゐたはずである。

 また、目の前にソ連兵が来てゐるにも関はらず降伏を断固拒んだ将軍たちは、第一次大戦の降伏をこれ以上ない屈辱として捉へてをり、二度とその憂き目には遭ひたくないと覚悟してゐるからだつた。明確な自分の意思が示されてゐた。

 そして、何より彼らは泣くことがなかつた。実際に涙を流してゐたのかゐないのかは分からない。しかし、現代のドイツ人が作つたこの映画では涙を流す場面はなかつた(うつすらと目に浮かべるシーンはあつたかもしれないが)。彼らの心情は無念の欠片もなく、ひたすら覚悟と断念に貫かれてゐた。作戦が次々に失敗していくことを会議で知らされるヒトラーは、部下たちをののしり、裏切り者を殺せと叫ぶが、それに対してエキセントリックに反応する者はゐない。日本人なら上司の感情そのままに部下に伝へる狂信的な組織人が出てきさうなシーンでも、さういふ熱は画面からは伝はつてこない。地下の要塞にこもる熱気には湿り気がないのは、偶然ではないだらう。

 これらの雰囲気が果たして意図して作られたものであるかどうか。私にはそれを証拠立てるものはないが、予想としては意図はないだらうと思ふ。私たちが知らず知らずに示してしまふ「姿」と同じやうなものが、ドイツ人によるドイツ人の歴史映画には出てしまふのである。

 終始乾いてゐながら重たい空気が立ち込めてゐた。それがとても印象に残る。知らぬ間に窓外には台風の雨がやみ、湿り気を帯びながら静かな夕暮れになつてゐたのと対照的である。

155分、あつといふ間であつた。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

白石一文『一瞬の光』を読む

2021年09月14日 21時20分46秒 | 本と雑誌

 

 

 初めて読む作家である。小川榮太郎氏が、Facebookで取り上げてゐたのを読んで興味を持ち、読んでみた。初めは苦手かもなと思つたが、途中から引き込まれた。最後には、読み終はるのが残念でわざと読む速度を落としたが、昨晩はついにその抵抗も効かず、寝る時間が一時間ほど遅れてしまつた。

 38歳の大企業のエリートの男は、最高実力者の派閥に属し、その人の身内同然の立場で社内で振る舞ひ、力を大いに発揮する。今は人事課長になつたその男が、ある日新卒者の面接で訪れた女の子と知り合ふ。その女の子には、どうやら複雑な家族関係が影を差してゐる。そんなところに引かれていく男は、しだいに会社での自分の仕事に違和感を持ち始める。そして、最高実力者であり、自分の後見人でもあつたはずの存在が大きな失態をしでかし、それをごま化すために自分たち「身内」を裏切らうとしてゐることが発覚する。社内の派閥争ひが大きく動き出す。

 企業といふ組織の中で生きる現代人の苦しみやもがき、権力を巡つて言葉の爆弾が飛び交ひ、駆け引きの数々。遠くで見てゐる分には、戦国時代の武将たちの争ひにも似た「ロマン」にも感じるが、同じく企業内で働く身には、あまりにも身近でその発熱が触角を刺戟するので、ただ「楽しめた」とはいかない。途中不快な気分になることも何度かあつた。それでも読み進めたのは、その闘ひに敗れながらも自分の生き方を見出すことを優先した生が描かれてゐたからだらう。それはたいへん強く、鋭利なものであつた。

 引用するのも気が引けるが、同じく最高権力者の「身内」であり、主人公の男の先輩にあたる男が自殺をしてしまつた後で、その男が「事が起きると必ず読み返していた一冊の本」の言葉として、次の言葉が引かれてゐた。

「なにか大事が起きたとき、人は自問自答して、多くの人は”誰かがことにあたるだろう”と考えるが、稀には”なぜ私がことにあたらないでおられよう”と考える人がいる。この両者のあいだに、人類の道徳的進化の全過程がある」

 かういふ言葉を座右の銘として心に留める人を、身の回りで見たことはないが、さういふ言葉を読んで心を痛める存在ではありたいと思ふ。ウィリアム・ジェイムスの『宗教的経験の諸相』の言葉を私たちは、果たしてどう感じるだらうか。人類の道徳的進化などといふ大柄でそれでゐて深遠な発想を持てるだらうか。そんな深刻な溝も彼我には感じる。

 決断は一瞬だが、そこには光があつてほしい。人生が闇であると思へるものだけが一瞬の決断をできるのであらう。なぜなら、光は闇のなかでしか見えないからである。

 主人公の決断は一般的な成功からは遠いが、光に根差してゐるものだと感じた。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

マスコミの反体制的気分

2021年09月11日 08時05分26秒 | 評論・評伝

 マスコミは批判することに意義がある。それ以上でもそれ以下でもない。自分の考へを持たずに、不偏不党を掲げる組織は、言つてみれば、政府の意に反対することにのみに存在意義がある。

 問題は、さういふ構図を理解しないで、〇〇新聞に正義があるかのやうに信じ行動する大衆の側である。今日のコロナ禍の悲劇も、まさに大衆自身による大衆への攻撃であつて、それはオルテガの言ふ「大衆の反逆」である。自分で自分の首を絞めてゐる。

 しかし、同時に私たち人間は他責的にしないと自分が息苦しくなるので、為政者を攻撃する。そしてその為政者が中途半端に強いと格好の対象になる。今回、その的になつたのが菅義偉首相である。安倍前首相は、少々強すぎた。そして立憲の枝野や共産の志井では弱すぎて攻撃しようとも思はない。

 国民の溜飲を下げさせるのが現代社会の政治家の役目であるといふ悲劇的現実を思へば、それをまともに受けてはいけないといふことが教訓として言へさうだ。小泉純一郎に政治家として一日の長があるとすれば、その点であつた。

 さて、昨日の読売新聞に、東大の国際政治学者の鈴木一人がコメントを寄せてゐた。「『反安倍・菅』が『反五輪』に」である。五輪開催にあんなに批判してゐたマスコミが手のひらを返したやうに、文句を言はなくなつたのは、「五輪が菅内閣の支持率上昇につながらなかったので、目的は達成できたという意味もあるのだろう」と書いてゐるが、なるほどと思つた。マスコミの目的は、「反安倍・菅」であつたといふことが、その後の報道の仕方で証明されたといふ訳だ。この学者自身の信条は知らないが、マスコミの素性を暴いて見せる手さばきは鮮やかであつた。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする