言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

時事評論 最新號

2010年04月29日 10時44分48秒 | 告知

○時事評論石川の4月号の目次を以下に記します。どうぞ御關心がありましたら、御購讀ください。1部200圓、年間では2000圓です。

 今囘も、拙論を掲載していただきました。今日の日本の政治經濟教育その他の状況を何といふ言葉で表現したら良いだらうかといふことを考へてゐました。

   「失はれた十年」といふ言葉が言はれた時がありました。しかしそれはたかだか經濟の話でせう。「政治不信」といふ言葉が選擧の度に言はれてゐます。しかし、それもたかだか政治家による政治家のための話でせう。ゆとり教育の是非が言はれて久しいですが、誰も「國家百年の大計」から發言してゐる人はゐませんでした。すべては僞善と感傷に流れ、爲にする議論ばかりが流布されるばかりでした。「危機」を扇り、「危機」を演出し、「危機」を利用した人人の發言です。

   そんな中、日露戰爭の時期に、日本の慢心をアメリカの地から指彈した歴史學者朝河貫一を讀みました。彼はそれを「日本の禍機」と呼んだのでした。國運が去らうとする日本の状況を「禍機」と呼んだのです。その主張は、今では講談社學術文庫で簡單に讀むことが出來ます。ぜひ御一讀をと思ふものです。

   歴史的な、國運といふ視點で日本を見なければ、日本の危機は克服できないでせう。しかし、それは誰か英雄の生き方を稱揚することでも、或る時期の活力ある社會を囘顧することでもありません。歴史といふなら、それは人類の歴史であり、深く「人間とは何か」といふ視點に立つた歴史こそが求められます。さうした歴史觀の上に立つて、今の日本を見つめるといふ事なしに、「禍機」は乘り越えられません。――さういふ主旨に基づいて書いたのが拙論です。具體的な政治家の名を擧げて書いたものは、私には珍しいものです。宜しければ御一讀をと思ひます。

”民主黨政權打倒”この一義のために

    ―保守新黨の可能性を讀む―

       評論家・拓殖大學大學院教授  遠藤浩一

日本の禍機  その正體は何か

      ―平沼赳夫氏が見てゐるもの―                                    

                                                 文藝評論家  前田嘉則

沖繩密約も普天間迷走も安全保障への無策の結果

                                               評論家    植田 信

奔流            

平沼新黨への期待

  ―「集團的自衞權」「消費税」が中心テーマ―

              拓殖大學大學院教授 花岡信昭

コラム

        領土も”命”も保守できぬ日本  (菊)

        歴史の事實を見たがらぬ缺陷 (柴田裕三)

          「子ども」だらけの「成熟」社會(星)

        毒ギョーザ事件「解決」の??・・・・・・(蝶)            

  問ひ合せ

電話076-264-1119    ファックス  076-231-7009

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「死を待つ人人の家」

2010年04月11日 15時28分13秒 | 日記・エッセイ・コラム

 インドのカルカッタの、マザー・テレサが設けた施設の名前は、標記の通り「死を待つ人人の家」であつた。その行為からすれば、日本人なら「希望の家」だとか「安らぎの館」などとつけるだらう。あるいは今の現代人の感覚なら「さくらホーム」だとか、「ひまわりの家」だとかつけるのかもしれない。まさか冗談でも「たちあがれ浮浪者」などとはつけまいが、マザーテレサの感覚には遠く及ばない。

 単刀直入に「死を待つ人人」へのサーヴィスを旨とすることを表現してゐる。そこにある救ひは、純粋に宗教的なものであつて、それ以上でも以下でもない。死後の平安を祈る場である。かうした名づけのなかにも、私達の現代社会がいかに現在をしか見ないのか、あるいは肉体の未来をしか見ないのかを教へてくれるものがある。マザーテレサの言語感覚には私達の社会を射抜く鋭さを感じる。「希望」や「安らぎ」は肉体が生きつづけることができることへのそれらであり、そこで働く職員の営みは肉体の存在への奉仕でしかない。それほどに物質的に恵まれてゐるのが私達の社会であつてみれば、それは当然と言へば当然であるが、さうした社会を作り上げた先人への魂への配慮や、私達もまたさうした魂としての存在であるといふことへの無知には度し難いものがある。未来の子らへはどんな精神文化を残してあげられるのだらうか。近代の私達のこれ以上下がりやうのない体たらく、言つてよければ惨状があるばかりである。インドの貧困さを何もうらやんでゐるのではない。マザーテレサの生き方を見習はなければならないといふのでもない。しかし、現実をしつかりと見、現実にどうかかはるかを考へ、行動する活力には、圧倒されるばかりである。

 そして、日本の現状を見て、考へて、たちあがつた人人が今ゐるのなら、彼らを揶揄するのだけはやめておいた方がいい――その名称はひどすぎるとしてもである。各自の持ち場でできることをする、人のせいにしない、それが私達の近代に、真に「私達の」と冠することができるやうにする道である。

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桶谷秀昭、新保祐司兩氏の對談讚

2010年04月02日 17時35分43秒 | 日記・エッセイ・コラム

『正論』五月號を買つた。遠藤浩一氏の「福田恆存と三島由紀夫」の連載が終はり、あまり讀むところがないので、購入してゐなかつたが、新聞の廣告で表題の對談があることを知り、早速購入した。「連續對談」とあり、今月號が「第1囘 序論」とあるので、これから數ヵ月樂しんで待つことのできる記事を見つけ、喜んでゐる。

  タイトルは「悲劇への感受性を喪失した日本人――歴史精神復活のために」とある。「歴史精神」と言つて「保守精神」と言はないのが期待を持たせる。どうも最近の「保守」といふ言葉は輕すぎて信用できない。さうした異論が兩者の口振りにもありありで、一層こちらの關心を書き立てる。

  内容は、ずばり面白い。ぜひ本になるぐらゐまで續けてほしい。詳細を書くのは、購入動機を削ぐことになるだらうから、それは控へる。私の心に殘つたところをつまみ食ひする。

   内村鑑三は、自分をドン・キホーテだと言つてゐたといふ。ドン・キホーテの悲劇性を理解できない時代になつてしまつた。悲慘は理解できても、悲劇は理解できない。そこに現代人の輕さがある。――なるほど。

   平成は大正期と同じ。それは乃木希典の評價が同じであるから。乃木の價値が分からない時代は、批評意識が弱い。夢とか希望とか情熱などといふものがもつともらしく語られても、その根柢に批評意識がなければいけない。

   福澤諭吉は、西洋を排除したときに國は亡びてしまふと『文明論之概略』で書いてゐる。自衞のための模倣をもし實行すれば、氣が狂ふのが全うな人。子規、漱石、彼らには狂氣がある。西田の絶對矛盾的自己同一とは、狂氣を生きるといふことなのか。

   その意味で、内村鑑三が、自身の人生のなかで後悔することの一つとしてキリスト教に入信したことを述べてゐるが、非西洋人が西洋の精神を受け繼いだことの苦しさを述べたものであらう。狂氣のないところに、近代はない。

   明治の精神とはさういふ葛藤をとらへることのできる人にしか見えないものだらう。 關心があれば、どうぞ御一讀ください。 

   

 

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